caguirofie

哲学いろいろ

#17

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-02-26 - caguirofie060226

青春

quatorze

テオドリックが ラーといっしょに曲馬団のなかに混じって逃亡をはかろうとしたことは すぐに見つかってしまった。
翌る朝。――
ラーは去ったが テオドリックはひとり部屋で 暢気であった。国の使節も帰ろうとしていたが かれは 陽気であった。そして 前夜の獅子の庭でのラーとの情事は すでに宮廷じゅうに知れわたっていた。
この朝 食事をはこんできたエウセビアは かなしみを色に出していた。
――テオドリックさま ジプシの人びとは 嘘つきです。
――・・・。
――昨夜の獅子庭でのことは みんなが知っています。
エウセビアは――相変わらず――たしなめるような口調で そう言った。
そのことを――テオドリックの一人だけの考えによる行動のことを――知ったときから 一晩中 考えていた。
それはまず かのじょの・愛にうちかつ愛といったしたたかさとともに さらにもう一度還ってその最初の愛 つまりかのじょの女性であるということ このことが テオドリックの前から かのじょ自身を去らせるということを止めたのだった。しかしそのことは そのまま――テオドリックが かれ自身とエウセビアとのあいだに ゴート人ながら努めてギリシャ語ということばによって関係をたもちつづけるというのと同じように―― エウセビアが ひとりの女性であるということ以上に かのじょは 人であることを意識しそうあることを試みていることの現われであるにほかならなかった。そうしようとするところに 自己の存在を見ようというのである。その余のことは 心理の世界に属していた。小説は 心理の世界をこそ描くのだが 心理の底に精神が存在している。その問題をここでは扱いたい。
テオドリックは じっと そのままであった。考える というよりも 自己をどこまでも信じ信頼しつづけるということ そこにいた。
――曲馬団は去りましたが テオドリックさま あなたがあのジプシたちの中に捕らわれてでもいたなら ゴートの王子さまをだしにして いまごろ 身代金を要求していたかも知れません。ジプシたちは 恥知らずです。どうか気をつけてください。
そのことは知らなかったとは――それは(知らなかったことは)事実であったが―― 思わなかった。テオドリックは やはり一生徒として こう述べた。
――しかし エウセビア 心配は要らない。ぼくも ジプシに劣らず 不実なのだから。
――・・・。
テオドリックは 自分を不実だと言った。一生徒であるという前提があるとしても である。そしてエウセビアには そしてテオドリックにも さらに語るべきことばというものが なくなってしまった。テオドリックは 自己を信頼しつづけた結果だとは思っていた。


エウセビアは 宮廷に仕える女たちとともに 前夜の獅子の庭でのテオドリックとラーとのこと そしてテオドリックの逃走・・・のことを知ったとき かのじょは それを知ったことについて 思い悩んだ。宮廷の人質の監視役という身分をわきまえようとした。
テオドリックは そしてこの朝 どこまでも自分に 自分の不実にすら 忠実であろうとする。これまでは 癇癪ばかりをぶちまけていたが 今度は 計画的であれどうであれ ラーに近づいてジプシたちに紛れ込んで逃亡しようとした。自分も不実だという誠実をさえ 結果として 実行に移してしまった。
もはやテオドリックとかのじょ自身とのあいだにあった定かではないがひとつの理想といった暗黙の了解が 消え去ったのではないか。あたうことならば テオドリックこそ不死鳥のごとくであって欲しいと ここでエウセビアは神に祈った。でも その理想というものは ひょっとして わたしが わたしの考えだけで テオドリックさまに押し付けていただけだったのかしらとも。
テオドリックは ぎゃくに 敬虔であることをすべて取り去ってしまったあと さらに何ものかへの畏敬の念をもとめようと――言いかえると 不毛性の世界へと――すすんでいた。と感じていた。そのことに甘んじて いた。
これが 一年前に起きた出来事である

その日からまた一年がたっていた。つまり 四百七十年の七月。テオドリックの解放の日の朝。――
エウセビアは 去らなかった。テオドリックは 沈黙を守ったが 悪びれなかった。
エウセビアは テオドリックの部屋についていて 希望のむくわれないまま この日まで来てしまったことを思った。理想に張りつめた精神から遠くなったままの――しかし それよりも(人が理想から ある種のしかたで 離れることは むしろ普通であり) むしろ ことばをなくしてしまったような――テオドリックを見ながら 別れの日がやってきたことを悲しんだ。テオドリックさまは もう神さまさえ恐れないのではないかしら。
――テオドリックさま お別れですわね。
と この解放の日の朝 エウセビアはつよい調子で 告げた。そして テオドリックは コンスタンティノポリスでの最後の食事をし終えると そばのエウセビアに贈ることばをかんがえた。
――エウセビア お別れだ。・・・いちど このコンスタンティノポリスを出れば もう二度と会えない。もし会うとすれば 帝国を襲ってぼくたちがコンスタンティノポリスを奪ったときだろう。しかしこの街は 堅固な要塞だ。それも叶わない。おわかれだ。
――・・・。
――エウセビア ぼくはゴートの人間だ。ギリシャ語もうまく話せないバルバロイだ。この都に未練はない。ぼくたちはゴートの都を築くだけだ。・・・
エウセビアは この最後のことばに 一瞬 むかしのテオドリックがよみがえったような気にはなった。
――エウセビア ぼくには おまえに贈るものが ことばも何もない。・・・
一瞬おいて エウセビアは答えて言った。
――いいえ わたしはいいのです。テオドリックさま どうぞ ご無事で!
――・・・。ごきげんよう エウセビア!


最後は あっけないものだった。この数年 若い年上の女と一人の少年との心のなかに交流していた緊迫感からすると あまりにも あっけなかった。かと言って ふたりの男女のあいだに起こった無事からすると またとうぜんのことのように思われた。

テオドリックはすでにコンスタンティノポリスに別れを告げて ドナウをのぼっていく。
エウセビアは最後まで控え目の姿勢をくずさなかった。泣いたりはしなかった。その姿勢に誇りさえ感じているようだった。そして自分は それを破ろうとはしなかった。とテオドリックは思った。
エウセビアは――十八歳になろうとするテオドリックのなかに 不実の蛇が時には とぐろを巻いて巣食っているのと同じように―― わたしは あの人に無視されたのかしら?というすきま風の吹くのを感じ それが呪文のようにまとわりつき ついたのだが かのじょは その呪文をふたたび温かい心へと高めるために 長く祈らなければならなかった。そして 祈っていた。
そしてテオドリックは ドナウ河の船のうえで 十年ぶりの故郷には あたらしい世界がなければならないのだと考えた。 
(つづく→2006-03-15 - caguirofie060315)