caguirofie

哲学いろいろ

#13

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-02-26 - caguirofie060226

青春

dix

はじめに社会があった。社会は 自然とともにあった。はじめて禁断の木の実をたべたとき 周囲におなじ会食者の集団をみる。同時に 木の実は 自然の・つまり社会的に必然の産物であると知る。
自然 社会 これは神とともにあったか。
生誕とともに 会食者の中にあって 舌から何かが滑り落ちた。――生誕とともに 社会にあって ことばが生まれた。
言葉は 父を 母を 見出し 隣人を すべての同時代人を 知った。空が 地が 海が ぼくたちをつないでいることを。そして 過去の 未来の 会食者たちを。いくつもの春が 秋が ぼくたちをつないでいることを。
やがて ぼくはふたりの直系の会食者たちをうしなって ぼく自身も 熟して落ちようとするだろう。後の直系の者たちに炬火を渡して。
だが――ローマは ローマの人びとは 同じこの言葉によって 互いに互いを引き離している。しかし そのみごとな均衡をみよ――・・・。
炬火。――
言葉は 土壌をたがやし 木の実の成る樹を育てる。やがて 樹々の繁りは 果実を産み それをつたえる。
言葉は 地のうえに会食者の一集団を形成する。《都市》である。
言葉は 地のうえに会食者を《耕ヤシ》 かれらを 《市民トスル》。――文化と文明と。
文明は外に向かい 文化は内に向いている。外に向かう文明は 横にひろがる。内にむいた 文化は 縦に延びる。
文明は やがて熟して落ち あたらしい文化を待つ。あたらしい地をもとめて文明が変質をとげ 文化が萎えるのか。文化が廃れ 文明が絶えてしまうのか。
炬火とその《旅》。――
ゴートは どのように――何をどこを襲ってでも――世界に入ってゆくべきか。
・・・古来 光はオリエントから来た。オリエントが耕し 文明のチグリス・ユーフラテスが 文明のナイルが 生まれた。けれども シュメールは消え テーベは廃れた。光は シドン ティルスをとおって エーゲの海に達し エーゲは炬火をローマに譲った。やがてそのローマも ここコンスタンティノポリスラヴェンナとに分裂し 今や双つとも 炎は消えかかっている。
光は 東方から西へすすむ。ローマの火を受け継ぐのは ここコンスタンティノポリスではない。ラヴェンナか。パヴィアか。メディオラーヌム(ミラノ)か。あるいはさらに西方 西ゴートのみやこ・トロサかナルボンヌか。


エウセビアを部屋へ帰し テオドリックはふたたび 孤り物思う人であった。窓からの風に吹かれ 思いの糸をみづからの好むように たぐり寄せていた。
《そこによどみなく潤滑油が敷かれる。ことばを投げかけあうことによって ひとつの〈恋愛〉へと その関係へと 道が敷かれる。文明・・・?》


テオドリックは初めから 書物は遠ざけていた。結局 生涯 文盲で過ごすことになった。
かれは 母親や祖父母らの語る伝承物語りによって 世界へ入ったのだった。宮廷では 皇帝レオに 皇帝は娘ばかりふたり持ったためか 蛮族の王子としてかわいがられ 惜しみなくローマ風の教育をほどこされた。だが テオドリックは 文字に対してはまったく興味を示さなかった。もっぱら教師役のアルテミドールスの講義を聴いて ほとんどこのことどものみによって 自分の世界をとらえようとしてきた。
この日のように いくらか重いメランコリーにおちいることがあったが またこれとは逆に 時折 盲目的なほどにひどい憤りを 公私ともに身のまわりのことどもに発散させることも あったりする。講義において かれは 体系的にまなぶという真面目な学徒ではなかったが 師のアルテミドールスは 時折かれがみせる反応のなかにも なかなか深い理解をしめしていることを知っていて――そして理解も早ければ 不当なことと自分が思うことへ向かう態度も そのいきどおりがすぐさま その対象へ飛んでいったりするのだが―― 時にテオドリックは 否応なく その私憤であるものについては そのことに気づかされたのであり そのときアルテミドールスは そんなかれのあたりかまわぬ癇癪にたいして 何も言わなかった。
ただそれをとおしても テオドリックが かれ自身の世界の見方を形成していくことを願いながら じっと みまもるという様子である。テオドリックのゆううつと かんしゃくとは とくべつに言われのあることではなく つまり虐待されたなどというわけではなく ただひとつ ながい人質生活に発していた。


思考が途切れると テオドリックは頭のなかに さきほどエウセビアが つけくわえたことばが おもい浮かんだ。かのじょは先ほどその後 こう言い添えていた。
《街の人びとが 曲馬団とおなじように 〈ユダヤの神のおしえを楽しんでいる〉などと テオドリックさま イエススのおしえをさげすまれるのは よくありませんわ。なにより テオドリックさま この信仰は わたしたちにとって あたらしいひかりですわ。この神おひとりを信じることによって わたしたちの生が なにかこう 意味をもっているのだと わたしには思われます。それに テオドリックさま あなたがたのゴートの人たちも あらためて このキリストの信仰をもつことになられたのじゃありませんか。》
テオドリックに 神――唯一神であろうと汎神であろうと――を蔑むつもりはない。そのてん 口がすべってしまったのだと おもった。ふたりの会話は それ以上 そのことに触れなかった。テオドリックは いま いつか街でみた光景 そのなかに 一時的な流行のように あるいは狂信者がむらがるのを見たこと このことから かれは先ほどのことを口走ってしまったということ そして エウセビアは これを咎めたということ これらとは別に――
ふと 神についておもう。
それは 神についてというよりも 神を抱く制度についてである。
まずテオドリックは 実際 ウォータンなど祖神を 捨てて 省みないというのではなく 《ひとりの神》を抱くようになっていた。種族全体が パンノニアに落ち着くようになると キリスト教に改宗し じょじょにそれがほんとうになりつつあった。そして この宮廷にいてかれ自身 受け容れる方向にあった。ただ
テオドリックは――歴史の行きがかりじょう――《人間イエススを神と同一ではない》とするアリウス派の徒となり それを終生 変えなかった。しかも 《イエススは キリストつまり神の子である》と説く正統アタナシウス派つまりカトリックの説を あとになっても 排斥したりはしなかったが そしてかれの母エレリエヴァだけは 正統派に属していたが さらにそしてもちろんエウセビアたちローマはすでに アタナシウス派を正統として奉じていたが テオドリックは アリウスかアタナシウスか それは 神学の問題*1だとして 取り上げようとしなかった。
のち 異端とされていながらも存続したアリウス派とそしてアタナシウス派との争いというかたちで 問題が起こったとき かれは 自分なりにアタナシウス説の理論的――したがって信念としての――正統性を みとめないわけではなかったが。
そしてたとえば キリストの神と 祖先の神々とについても こう考える程度にすぎなかった。つまり この世に太陽はひとつである。人に父は ひとりである。父の父ももちろんひとりである。祖先はひとりの人にとって一系である。そうすれば 祖神ウォータンにしても ティール神にしても トール神にしても いづれ一系である。イエスス・キリストの唯一の神が そこにいても 不思議ではない。神のいる国は ワルキリの女神たちにぼくたちが連れていかれる天の国ワルハラであっても あるいはその逆であっても いいではないか。その余のことは 神学の問題だと。
キリスト・イエススが 神の子であり わたしたちが 神の被造物であるという限りでは わたしたち個々人に この神は もしくは その神を信じるわたしたちの信条としての虚構(つまり心)は それぞれその固有の倫理を 要請する。ここでは テオドリックは 取るに足りない論理をもちいている。かれが ここでキリスト信徒であるという点は 神の国と現在生きている自己との確かなつながりにおいて 現実だと考えられた。要するに 神と自己との関係 それとしての生活を 確かに見ていることが キリシタンであることをあらわしていた。そして 理論的には まちがっていた。
ここでは たとえば エウセビアの《アタナシウス説》とみづからの《アリウス説》との対立は――対立が―― かれにとって神学の問題であった。
そしてこれの理論的なあやまりは かれがキリスト者であるというそのことを 理論的に明らかにしてくれるのは アタナシウスの神学である点にあった。かんたんに言うと かれが神学をしりぞけてしまったことは 不当なことであった。ただし いまひとつ別の説である《ネストリウス派景教)》が しりぞけられるべき神学であった。これは 神の国それじたいを 詮索する神学である。哲学である。つまり信仰ではない。
ただ そのキリストの神が じつはまさに政治学の問題であるように思われたことが テオドリックのいま腐心しようとしていたことである。
というよりも テオドリックにとって このように神を人が抱くというその様式が ひとつの制度としてしっかりと確立され 社会的に展開されているということは 馴染みのうすいものであり 了解しがたいもののように思われた。
もっと有り体に言えば テオドリックは 神を抱くことと 神を抱く制度を抱くこととのあいだで ただ そのような場面にぶつかって ちゅうちょするというにすぎなかった。《文明》?・・・。
つまり キリストのおしえが 帝国の国教となってからでも すでに一世紀ちかく経とうとしていたのだが 地上で神を代理するというローマの司教は じゅうぶん過ぎるほど大きくなっていたというさまざまなことどもに関してである。
たとえば 四百五十二年 ローマを侵そうとして進んできたアッティラと会見し これを説得して帝国をすくったのは ローマ教会の法皇レオ一世であった。皇帝でも軍隊でもなかった。そして ここコンスタンティノポリスでは 四百五十七年 現皇帝レオの帝位就任の際には 総主教の手によってその加冠がおこなわれたこと。――聖職者が地上で神を代理し その代理者が皇帝に統治をゆだねるという はじめてのことであった。
いづれにせよ このような信仰の組織集団が台頭するという事態は 若年ながらテオドリックら蛮族にとっては きわめて馴染みのうすいものであることは 明白であった。
ただしかし よくはわからないものの その事実は 先ほどエウセビアに 《何よりも この信仰はわたしたちにとって 新しい光ですわ》と宣言させていたことに 厳然とあらわれているように思われた。テオドリックは 背後から鈍くなぐられたように ゴートの松明を握ろうとしながら すくなからず ちゅうちょをしなければならなかったのである。
師のアルテミドールスならば 《人びとは 神を共有することを共有している》と説きながら みづから葛藤するかも知れないという 明かりがふと差し込んだ。
ここで 思考の糸が ふたたび途切れた。 
(つづく→2006-03-11 - caguirofie060311)

*1:アタナシウス説からの三位一体論:キリスト信仰にかんするわたくしの文章は間接的にすべて 三位一体論にかかわっています。直接あらわした決定版はないのですが たとえば次を参照してください。→聖三位一体論:2005-05-26 - caguirofie050526