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哲学いろいろ

#8

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-02-26 - caguirofie060226

青春

cinq

テオドリックは 十五歳である。かれにまだ 思想はなかった。
夏である。コンスタンティノポリス宮廷のなかの テオドリックの部屋には ほかに誰れもいなかった。夕刻である。しかし けだるい夏の夕刻。――
広さは 端から端まで走りまわろうとおもえば 余裕をもってできなくないほどである。しかし まるで殺風景なテオドリックの部屋。――まず すべて白い無地の寝具・それを載せた大きな鉄の寝台・〔その上に 両手で頭をかかえた無造作な恰好でテオドリックは今 ねころんでいる〕・その寝台とは反対側の壁に沿って 入り口の隅に 立った人の腰のあたりまでしかない小さな木の箪笥・そして 中央に 極端に低い石の長椅子および石のテーブル これがすべてであった。
いや それにもうひとつ 忘れてならないと思われるのは 窓枠にはいつもテオドリックの部屋つきの女官が置いていく鉢植えの草花。――
したがって この部屋の色彩はといえば 石と寝具と壁と窓枠の白 木の黒 日によって花の赤やみどりや何やかやである。
テオドリックがいま ながめている天井は 宮殿の一室としては 低く 草花を持ってきてくれる人も とりたててきれいにしようと思わないのか すすけて薄汚くなったままの天井。――この広いような狭いような部屋 ここがテオドリックの住み処であった。いわば青春の。
この棲み処を出ようと思えば とうぜんのことながら 入り口と窓とである。入り口は やはりきわめて狭いものであった。もっとも カーテンがかかっているだけで特別に密閉されてはいない。入り口を出ると うす暗い廊下をつたって 小姓・小官の部屋のつづく前をとおって 中央に達する。そして窓――窓枠の花鉢を越えて中庭に通じる窓は 光を申し分なく採ってくれるものであり その点は テオドリックの気に入りである。そして 東風のよく訪れる外界への窓――である。
ただ 入り口にも窓の外にも そして宮廷中に テオドリックを監視するためでもある衛兵がひかえていたことは 言うまでもない。
夕刻。――
外は ほぼ 黄昏れていた。しかし――テオドリックの部屋は 窓が北向きであったりしたが―― 夏の盛りへと向かう午後の太陽の残していった暑気は へやにはまだ充分あふれていた。テオドリックは北の国の者であるので 照りつけるような陽射しをむしろ歓迎するのであったが いま 例によって――ちょうど夕食後なのであるが――放心にふけろうとしても この熱気には いくらか閉口気味である。
テオドリックは ほとんど臥したままのかっこうで 蜜柑酒をすこし含んで また杯を寝台の隅にもたれさせるようにして置く。気だるい黄昏。――
中庭をはさんで 向かいにはさらに一棟の館がつづいている。しかしその奥にはもう大きな建物は何もない。小高い丘のうえに立っている宮廷の この北側は あとは丘を降りて海に達するのみである。精確には 対岸のカルケドンの街などアジアの陸地とこちらの岸とでつくる海峡 その南にひろがるマルマラの海 北に海峡を突き抜ければ 黒海 これらの水域である。
空にさらに 闇がおとずれれば この海峡は波立ってくるはずであった。このことを思って
――もうすこし たそがれれば 風も吹きはじめるだろう。・・・・
テオドリックはその蒸し暑さを なかば あきらめたようすで つぶやく。みかん酒の湿りは すぐさま乾いて 意味をなさない。
こんなテオドリックのもとへ 乾いた空気のなかを 時折 中央広間のほうから ざわめきが漏れて来る。
この夕刻は 宮廷の大広間では ある宴会が催されていた。テオドリックは さきほどその席をはずしてきたところであった。テオドリックは 思いのおもむくままに ぼんやりとこの今の自分について思う。
その位置。――テオドリックの部屋は もちろん宮廷の一隅である。それは 皇帝の住む第一の宮廷。――そして この帝宮の位置は コンスタンティノポリスの街は ちょうど扇形を成しているのだから そのいちばん奥の要めの部分にあたっている。上に述べた海を背にして 丘の上から 扇のようにひろがる全市街を見下ろしている。さらにこの市街は 扇の両脇を それぞれ 北に金角湾 南にマルマラ海とに囲まれ まん中の弧の部分(西の陸地の境界)には 過去の皇帝の手による城壁がいくえにも 築きめぐらされている。
すなわち コンスタンティノポリスが創設されたときの・つまりコンスタンティヌス帝による城壁と さらに街の発展にともなってその外部にはテオドシウス帝による二重城壁とである。街は コンスタンティノポリスとしては百年あまりのあたらしい都であるが これらの条件のみによっても きわめて堅固な要塞として君臨しうるものであった。
そしてそれは ひとつには テオドリックにとって ここから逃亡をくわだてても無駄だということをおしえていた。言いかえると 毎年二回 祖国からやって来るゴートの使節たちとともに 攻撃をくわだてても 容易に攻めきれないということをおしえていた。
テオドリックの位置。――このみやこの中で テオドリックは 帝宮の一隅をあてがわれている。それは 皇帝が 前提として捕らわれの身であるということを除けば そのそばにおいて あたう限りテオドリックを 自由に振る舞わせていたことを意味する。その皇娘とおなじように さしつかえのない限り 宮廷の行事に参加させたりした。
その点では この夕刻の宴会にも――それは 負け戦さであったが長い遠征から帰ったある将軍そしてその兵士らをまねいての宴会であったが これにも――テオドリックを招んで 皇帝は 胆の太いところを見せていた。さらに 日課として ひとりの哲学者の教師が テオドリックの教育にあてがわれている。
そんなわけで たしかに 生活のすべてにわたって 皇帝――レオである――はテオドリックをもてなしていた。テオドリックは 優遇された位置にあった。
ただ テオドリックが 満足のうちに生活をおくっているかどうかは そんな優遇とは別の問題である。あるいは それらすべてにもかかわらず むしろ例によって みづから招くようにして 少なからず不満をかこっていた。
宴会のおこなわれている大広間は テオドリックの部屋とは 宏壮な帝宮のなかで数百歩も離れている。ところへ その雑談のざわめきが 寝台の上のそんなテオドリックの耳もとへ時折 達してきた。
この宴会では テオドリックは その場ではないと知りながら やはり人質という境遇の終焉をねがう要求をふと漏らしてしまったのである。――この日の翌日には ゴートからの夏の使節が到着するという報せがすでに届いていた。これを待ちきれずに そうしてしまったのである。
これは 皇帝にかんたんに退けられてしまった。そうして そのまま 宴に居つづける気にはならなかったというのである。
――コンスタンティノポリスからの脱出。
これは テオドリックの第一の望みであることに まちがいなかった。みづからの意向を完全にかくしとおせない性格が かれであった。
ただ そのほかに かれの憂鬱の因ってくるものが なかったかと言えば かならずしもそうではない。
いづれにしろ テオドリックは意気が上がらず その意味では 皇帝の懐柔策は 功を奏していた。テオドリックは すでにいくらか捨てばちに このように取り止めなく思いを運んで 時を過ごさねばならなかった。そしてときおり 手を伸ばして寝台の隅に置いたみかん酒の杯をつかみ 中のものがこぼれない程度に頭を上げ ひと含み 口のかわきをいやすのであった。
(つづく→2006-03-06 - caguirofie060306)