caguirofie

哲学いろいろ

#10

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-02-26 - caguirofie060226

青春

sept

夏である。夏の到来である。
それはちょうど テオドリックがドナウ河をくだって人質という旅を ローマの使節らとともに敢行しはじめた季節でもある。テオドリックはひとり部屋にいて しばらく漠然とそのことをおもっていた。
窓の外では たそがれが徐々に熟して黒い陰影が垂れ込めていくのに気づいていた。テオドリックは 放心にまかせて部屋に灯をともすこともしないでいる。それはまた 部屋に居残る夕凪ぎの暑さをのがれるためであったが ようやく吹き始めた海からの微風を感じながら 薄闇のなかにひときわ目立って白い大きなベッドのうえにひとり仰向けに寝ころんでいた。
しずかにしていると大広間のほうから 宴会の歓声が たしかに聞えてくる。そして 海風の起こるにつれて 近くの海峡がかすかに 目覚めたように ざわつき始め その音が 大広間の歓声の途切れているあいだには 聞こえはじめた。この海峡のざわめきが テオドリックにとって かれが初めてコンスタンティノポリスにやって来たとき この部屋に落ち着いたころ 毎夜聞かされた音楽だった。
テオドリックは なつかしいとも うるさいとも おもわなかった。考えようによれば すでにその音楽に手なづけられてしまったかのように しかしむしろ不貞腐れるという感情を抑え難いというかのように それほど取り合わない。
ただ それでも あつい季節に窓を開け放って この波の演奏を聞くようになると また一年が過ぎたかと これまでにも思ってきたことども このことに少しの感慨がないわけはない。心のそぞろにまかせて今度のあたらしい一年は 何年目になるのかと みづからに問うてみる。今年は 西暦四百六十八年である。ゆっくりゆっくりとかぞえていたが やがて八本目の指を折り終えると また闇のなかに一段と暗くなった天井をながめる。やがて 頭の先のほうにある窓のカーテンがいくぶん 揺れたように感じると 海峡はさらにちからづよく みづからを洗いはじめたようすで 波音は ひと寄せづつ とおく 舞い込むようにおとずれる。


夏が来るとテオドリックがよく想い浮かべることにもうひとつのことがらがあった。
それは 俗に言われていることで この月が 《皇帝》の月であるということだ。つまり 七月は ユリウスという皇帝の月であり 自分がゴート族の王家に属するものであるかぎりは ローマ皇帝ということばには ばくぜんとではありながら 反応しないではいないものが ある。初めにテオドリックは 愛に生きようとし それがすべてだと言ったが その点 第二の条件である政治が――学問という第三の条件とともに――完全にわすれ去られたということではなかった。
もしこのことについて 触れておくとするならば テオドリックが愛という条件において満たされていないというとき それは かれ自身のかんがえる愛を生き得ていないということであって とうぜんのことながら 愛の密室にのみ閉じこもろうというのではなかった。
そのことで ひとつ確かなことは かれ自身の思い描く愛のなかには やはりゴートの首長としての身分をどうするかという問題が 含まれていたからである。逆に こんな問題が むしろまったくあいまいであったゆえに テオドリックは なにひとつ 解決していなかった。また それでよい とさえおもっていた節がある。
ここですなわち 《ゴートの種族のことをかんがえる》ということは パンノニアというローマ領土のひとつに移住した現在では ローマ皇帝の存在を抜きにして かんがえられなかったからである。そういった 後々おもい悩まねばならない問題が 放心しきっているといっても 忘れ去られはせずにどこかに残っていて ただそれらは今はまだあまりにも 漠然と心にひっかかるほどでしかなかった。
テオドリックは その愛の対象は ほかならぬエウセビアであると――言ってみれば 相手がどう想っていても よほどのことがないかぎり そうだと強引に―― おもい決めていた。それは テオドリックの性格である。そして その愛の中味は なにひとつ解決されずに いわば混沌のままであった。愛に生き得ていないというのは この限りにおいて 自業自得である。
たとえば ゴート族の上に立つとならば とうぜん ローマ皇帝を相手に――いい意味でも――戦わなければならぬ・・・。だがもし 生まれは捨てるとなれば ずばりエウセビアを奪ってどこか北のほうへでも逃げてひっそりと暮せばよい・・・。そして そうだ ゴートの祖先の土地であるスキティアがいい・・・。などと思いが あたまをよぎったとしても その先をさらに考えが襲うようではなかった。
もっとも 愛に生きるというとき 種族を率いる立ち場をになおうかどうか 思いなやむというのも おかしなものだが いづれにしても まるで放心がみづから止むのを待つようにして そういった選択をもっと後へ引き延ばそうと考えている。十五歳 人質 ゴート人 首長の後継者(かれに男の兄弟はいなかった)などといった事柄のすべてが織り合わさって これらの考えがあたまの中をよぎるのであり また その点 明確なイデアを形成しきっていない。
この未完成でよいというのが いまのテオドリックであった。ただ ひとつ テオドリックの名誉のために付け加えておくとすれば それは なににも増して 今はどこかに潜んだままの すさまじいその気概である。
のちのち 西のローマ皇帝を降ろして立ったゲルマーニアのスキリ族のオドアケルに挑み それを見事に倒して イタリア半島にゴートの定住地を持とうとするそれ(気概)は今は措いても コンスタンティノポリスにいるあいだ 愛に生きるその愛の対象といったん決めたエウセビアへの執心は これからすさまじいものへ発展していこうとするのであろう。それは エウセビアによって たとえ拒絶から 忌避 侮蔑といった恥辱を受けることになったとしても その屈辱の湖底から なにひとつ汚点をつけて残すようなことなく 浮上しないではいないというのが この気概のひとつの内容なのである。
見方によれば ひとりの いわゆる男にとっての《ベアトリーチェ(永遠の女性)》をめぐって ゆえなく 執拗にこだわりつづけることは 女々しいということである。男性の女性化と言った。そして 男であろうと女であろうと 愛に生きるという限りにおいて それは 到底 動物の感情によってのみは為し得ないひとつの名誉であろう。とおもう。義に生きる あるいは 思想に生きるということが それぞれ人間の名誉であるのとまったく同等・同様にである。
さらにそこに邪曲(よこしま)な思いを抱く者には 災いあれ( Honni soit qui mal y pense. )である。


愛は しかし どう転んだところで ひとつの幻想である。虚構の部分がある。もし けなすべきでないとすれば ひとつの互いの協力による芸術作品である。こういった男女のあいだの愛ないし性の関係を 対幻想と人は よんでいる。そしてこの対幻想の中味が テオドリックにはまだ何ら固まっていない。
けれども或る意味で 幻想をふくめて大きく思想というものは 行動をあらかじめ規定しようというよりも むしろすでにおこなわれた行動によって逆に規定されるところが大きいと言われる。むしろ行動の軌跡が おおきくおのづからその人の思想の基調を形成するのだと。
鶏と卵のあとさきを問うことではないが この意味では テオドリックにとっても その愛という二角関係なる幻想の中味は その相手であるエウセビアという現実の個体に直接あたってみることによって 事後的にないし同時並行的に形成されていく部分のほうが おおきいということになるはずである。これは 少なからず あたっているかも知れない。男にとって 肉と心をもった現実の女性に接しないで 性関係が はっきりと意識されるとは まず考えられない。
この点 テオドリックは エウセビアに現実に目のまえに相い対していたが それは ことばを通じてのみ――これは ある意味で とうぜんだ―― その芸術関係を形成しようとしていた。しかも このとき ゴートの種族が ローマの皇帝が そういった思いまでが 顔を出してくる。
このことは 矛盾である。二角関係の想像世界は あくまで男女一対のあいだの関係のみにかかわり 社会や国家あるいは一般に共同体が そこに差し挟まれることは 明らかに物事が錯綜している。(あるいは このような錯綜こそが 現実であり むしろ理論的にも 正解であるか。)
もっとも この錯綜は 転倒・倒錯ではないのであって 事実は テオドリックの 共同体について抱く観念と 対関係の観念とが 葛藤するべくして葛藤していたのであろう。
ひとつの結論を先に言ってしまえば テオドリックは 共同幻想――ただし かれの個体にとってのである――を 対幻想の上に置くことはあっても 後者を前者の上位に置くことは難しかった。かと言って テオドリックは ひとつの信念としてあくまで 対関係つまり愛に生きるというのである。
その意味では だから 共同体の観念――このばあい 個体の観念としてのみである――と二角関係の観念とは 互いに互いを差しつらぬいている形状を示していると言ったほうがよい。さらに。――
さらに それがやはり事の本質において矛盾しているのであろうと思われ あるいはそこに 悲劇がおきたとするならば それは まさにこの矛盾に原因があったと言わなければならない。それは 端的に言ってしまえば 愛においておおやけとわたくしとの合一といったかれの理想もしくは幻想と言うことができるかも知れない。
いづれにせよ このようなところにも テオドリックの気性があたまをもたげて来ている。さらに言ってしまえば のちの悲劇にも通じていた。(悲劇のさらにあとのことには ここでは触れないことになる。)
ひとまず要約するならば プラトンの愛ではないが ことばをつうじて テオドリックは エウセビアとふたりして おおやけへと向かう意志と連動したかたちでの私的な愛を――つまり言ってしまえばそんな官能の世界を――分かち合おうと ゆめみていた。その行動ないし非行動は つぎの章から展開するはずである。そのまえに くどくどと論じておきたかったのである。
ただ さらに繰り返してことわっておかねばならないことは 現実の性の行為を ここでは 時期尚早とみた――から プラトンのそれに通じてしまうと見られる――のであって 排除したままで そのゆめが完結するとは思っていない。それは 《ことばによる》と 《肉体による》との間に テオドリック自身 それほど明確な一線を画してはいなかった。それぞれ おなじものの右腕と左腕とであるととらえていた。
いちばんいいのは 結婚――そうだ かれの恋愛は この結婚と 分離しがたい――をしなくとも 自己の問い求めるものを実現していけるものなら そうすることである。
テオドリックの葛藤と そして名誉と悲劇との種子とは このようである。
テオドリックの この夕刻を放心のうちに過ごす姿を覗いてみようとして思わず脱線してしまった。つぎに その姿を見てみたい。かれの青春についての理屈づけは これで一応おわりとし あとは テオドリックが エウセビアとのあいだに 恋が生まれないものかと考悩する場面が展開するはずである。
(つづく→2006-03-08 - caguirofie060308)