caguirofie

哲学いろいろ

#2

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-02-26 - caguirofie060226

幼年

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その日は 夜がなかなか降りて来なかった。
まず 夕凪ぎが居すわっていた。


西の方 チロルのやまなみには 陽は沈もうとしていたが 目のまえのバラトンのみずうみは いつになく 映えつづけていた。いちにちが終わり すでに漁の小舟も帰してしまっていたが 水面は 執拗にちらちらと 淡いかがやきを保っていた。水鳥まで凪いだように 低くゆるやかに翔び交い だれも鳴かない。どこかでなにかが 燠のように燃えつづけていた。


テオドリックは 故郷のパンノニアでの最後の夜を迎えようとしていた。いまは 夕凪ぎも 落日も 湖水 夕映えも すべて眼中にないかのようであった。
すでに 土堤のうえを歩いてみていた。引きかえしたり 腕を組んで空をあおいだりしていた。けれども おもうことの いくぶんもその焦点の定まらないまま かれは 岸辺に下りてみていた。
テオドリックは うづくまって 手で湖水を掬ってみていた。なまあたたかった。かれは 生ま温かいとおもった。膝を折って かかとを上げたそのままの恰好で みずうみをながめた。
ほのかな夕映えが かすかにみえる対岸のようなところまで 静かに伸びていって みずうみの両翼へ分かれてひろがった。両翼は いづれも奥深かった。視線を追って 気の遠くなるまで果てしなく延びていく。けれども しかもほんの手の届くところで 陽炎は消えているようにみえた。
みわたすかぎり 海原が逃げていって 水平線のくっきり浮かぶ海よりも 大地のなかに すっぽりとおさまったみずうみの方が しばしば 神秘的である。みずうみを航くほうが おのれの帰還を想定するのに はるかに容易である。けれども それはぎゃくに 垂直に引き摺り下ろされる不安をかき立てる。テオドリックは まだ 海を知らなかった。その湖が 風の凪いだとき 一様になめらかな水面をたたえる光景をみるのは ひとつの神秘である。
ここでは テオドリックにとって 夕映えが ただ すくいであった。水面とともに いうならば こころの襞をも かすかにあたためられた時のような記憶のよみがえる歴史。
こうしてテオドリックは ようやく夕景色が 目に入った。
湖水も かすかなかなたに存在するであろう対岸も 見なれた光景だなどと知って テオドリック
――バラトン・・・
と つぶやく。


湖畔は 静寂であった。
テオドリックは ひとりでおどけて見せて 足元の小石をひろい 投げてみる。ポチャンという水音とともに 何個目かのその波紋がひろがるかに見えたとき ふと 意を決してのようにかれは そこに突き立った。だが すぐそのあと おれはここに居てはいけないという時にもつ感覚のようなそれも かんたんに消えて ふてくされた時のようにただ そのまま みずうみの一端を視界に入れる。無造作に その湖水の広がりを追いかけると それはやはり どこまでも 逃げていった。
突き立ったまま テオドリックは なにか自分のゆめを確認したいとおもった。あった。それは 駆けてこのみずうみを一周するという夢である。それは ギリシャの昔ばなしに聞いたように とほうもなく遠いみちのりを 何時間も走りつづけるということ・・・。おとなたちが斧をもって今日は狩りに明日は戦いに出るというなかで 仲間とともに 子どもとしては バラトン湖に沿って走り回っていた その仲間たちとは いつかこの大きなみずうみを 残りなく一周すると語りあったことども。そうして その対象であるバラトンを目のまえにして ゆめを果たせないで このパンノニアの土地とも離れなければならないのだと あらためてそのことに思いを停めた。とようやく テオドリックは ここに戻ってきた。
ふと湖畔の樹々が 目にうつると 岸辺はみどり一色である。しづむ陽に照らされて淡くひかっているまわりの身近の樹にはすべて 柔らかくてあたらしいみどりの繁っているのが わかる。テオドリックはそのことに初めて気づいたと気づいたのである。
――夏だ。
とまた ひとこと つぶやいた。


テオドリックは しかし こころが決まっていなかった。かれは この夜 真夜中になれば ドナウ河をくだって長い旅に出なければならなかった。単身 ローマ帝国へ捕らわれの身となって コンスタンティノポリスまで赴かねばならなかった。
おさななじみとは もう別れのことばを交わしていた。ちちや ははとも このことは すでにじゅうぶん語り尽くしていた。もっともテオドリックは かれのほうから 取り立てて告げる話も見つからなかった。もっぱら両親のほうから このことの重大な意義を諭して聞かせられていた。
それは こうだった。
事情は テオドリックの父である王が率いるかれらゴート族は コンスタンティノポリスの宮廷の同盟部族として この土地パンノニアの防衛をまかされて 王子テオドリックは その防衛資金の身代わりとして要求されて行くということであったのだが まず父は それは種族みんなのためなのだからといったことは 説かなかった。ひとことで言って それは 正面からこの人質のみちを歩め その勇気を持てといった調子で説いて聞かせていた。
これに対してテオドリックは かれはまだ 七歳と半ばであり 親元を離れる不安が考えれば考えるほど募った。ただひとつ テオドリックには 端的に言って ひとと同じ平坦なみちを歩むことへの極端なほどの嫌悪が 不安に勝っていた。そうして 父の申し出に すでにはっきりと承諾を表明していた。
もっとも 父・テウデミルは 厳しい説得をしたものの わが子を愛しており 宮廷から 人質の要求があってから テオドリックにそのことの重大をそれとなく匂わせており それまでに長い日数をかけていた。これらのことは テオドリックにも うすうす察せられていた。そのように察せられたことには かれは意を用いなかった。長い日にちのあいだには テオドリックの周囲で ことばはみな尽くされていた。と言ってよかった。テオドリックは このように育った。母・エレリエヴァのかなしみを察することばを用意するということも なかった。泣くこともなく ただ いつまでともはっきりしない遠い見知らぬ国での生活に敢然と向かおうというはらに まちがいはなかった。
テオドリック自身 すでに 人質に赴く態勢は整っていた。と言わなければなるまい。ただ これにも増して 人質の不安とは 別のところで言いようのなく何故か くすぶるものがあった。かれは こころが決まっていなかった。どこかでなにかが ちらちらと しつように燃えているといった様子がある。


夜は 予想どおり なかなか降りてこなかった。
やがて 山並みがすっかり陰影に覆われようとしており さらに遠くアルプスの峰みねには 陽が残っているのが はっきりとわかり チロルの山脈は 稜線のうえになおも残照が ちらついている。
バラトンのみずうみの横に広がるパンノニアの草原は 夏の到来を宣言して無風のまま まだしばらく闇をかぶるのを拒んでいた。そこへ
――ティウドゥリークス!
と 岸辺にたたずんだテオドリックは 背後から呼びかけられた。その声は すぐに母エレリエヴァだとわかった。振り向くと やはりそうだった母は
――ティウドゥリークス こんなところにいたの? と呼びかけていた。大事な最後の夜にひとりで出かけたものだから 心配しました。
エレリエヴァは まだ歳も若かったが いつものかがやく面持ちでそう言った。
――すみません 心配かけて。
とこたえて テオドリックはまた みずうみの方へ向き直った。どうしました? とエレリエヴァは 横に坐って 着古したどす黒くなった羊の毛皮の上衣とふさふさと伸ばした髪の中から ほほえんだ白いかおをのぞかせていた。テオドリックは 微笑みを返したものの また 湖のほうを向いた。そんなテオドリックに エレリエヴァは 一瞬 こころの中で退くのだったが それに打ち勝って こう言った。
――ティウドゥリークス さあ ファダル( fadar = father )も ローマの使節の人たちも 待っていますよ。
――・・・。
テオドリックは こうしてもの思いにふけっていたことがらの中で打ち明けるべきものは何もないと悟りながら ことばに詰まるのだった。なぜか ちらちらと映える水面を吸いつかれたようにながめているテオドリックを見て 母のなかに 子にたいする不憫さがうまれた。テオドリックは ぎゃくに しめっぽい空気を感じた。そして 母が ことばを添えた。
――やはり ふあん なのね?
――いいえ モゼル( mother 〔ほんとうは aithei 〕) ひとりでローマの国へ行くのは たしかに怖いです。でも それが不安なのではありません。
テオドリックは すぐさま そう むきになって言った。
――・・・?
――・・・。
――・・・?
――よくわからないのですが たとえばむかし ギリシャマラトンの走者は ながい道のりをひとり走りつづけたと言われています。・・・このマラトンの走者には 戦勝のしらせを国に持ち帰るという使命がありました。ぼくたちには そういったものが・・・。
――ないと言うの?
――・・・。
《蛮族》とよばれるゴートのではありながら 王妃でもあるエレリエヴァは それを聞いて すこし意外な気がした。かのじょは すぐに気を取りなおして ゆっくりとさとすように はなしはじめた。
――そんなことはありません。あなたには しょうらいゴートの王となるりっぱな使命があるじゃありませんか。ゴートは まだあのフン族から独立をかち取ったばかりです。いつかは ファダルに代わって あなたは 種族(くに)の人たちとともに この自由を護りとおしていかなくちゃならないのですよ。 
このことに違いはないとテオドリック
そしてテオドリックは よく聞かされてきた自分の出生のときの話を思い出した。それは あのフンの帝王であったアッティラが死んだのち 瓦解に向かったフン族の支配を逃れてその翌年 ゴートは そのフンの残党たちとたたかってようやく隷属を脱したときのこと。首長であった父テウデミルは そのときちょうど身重であったエレリエヴァを伴なって 転々とたたかいをおこなっており そして最終の勝利がもたらされたときは まさにエレリエヴァが 男の子を・つまりテオドリックを出産したときだったという話である。
テオドリックは最初 この話の意味を解するようになったとき 《おれは生まれながらにして 生きるみちを――その枠を―― 決められてしまったのだ》と反撥したときのことをおぼえている。だがここには結局 ある劣等な感情以外に なにもないことを思い したがって 種族を離れてひとりローマの傭兵にでもならないかぎり どうしてもゴートの松明をかかげてゆくみちしか自分にはないとしたこと。
出生にたいする悔いは たとい持ちつづけたとしても 持ちながらしかも現実の生活をつづけてゆく以外にないだろうと観念したことども。このことはすでに承知したことなのであり しかもなおその道を自分にゆえもなく課すことに反撥する気持ちは よく動いていた。この気持ちの行き着く先は 幼年であるとはいえ 端的に言って あるいはコツジキ(乞食)のみちである。ただ テオドリックは 以上のことを論理立てて 自覚したのではなかった。
めんどうなことを考えずに たとえば今度のコンスタンティノポリス行きは 危険な賭けであり乱暴な話ではあるが いちどその宿命とやらの枠をはずしてみるにいい機会であると考えられなくはなかった。しかしこの考えもどこかちがうと思ったのであり これは はっきりしていたのである。自分でも この胸のうちに起こる気持ちを しかし何故だかわからないこの思いを ここで母に打ち明けねばならぬと思った。母が ことばを継いで こういったのであり テオドリックには ことばが浮かばなかったのである。
――いいですか ティウドゥリークス あなたは ゴートの代々つづいたアマル王家の王子です。いつかも話したように アマル王家は あの黒海の北の岸にひろがるスキティアの平原に二百年 ゴートの王国を統治していたのです。フン族が東からやって来たとき 押し寄せて来たとき 謀反が起きて 敗れました。それからは ちょうどあなたの生まれる年まで八十年 フンの王のもとに従属していなければなりませんでした。
スキティアからパンノニアまでは それは ながい放浪の旅でした。・・・ティウドゥリークス あなたにはまだわからないかも知れないけれど モゼールたちの小さかったときでも どうしても戦争を仕かけて村々から食糧をうばって食べていかなきゃならない辛いときもあったのです。いまやっと こうしてパンノニアの領土をあずかって 自由に暮してゆけるようになりました。あなたにはつらいでしょうけれど そのあずかった約束をあかしするため だれかが宮廷に行ってしばらく辛抱しなければならない。
テオドリックは 母の話の中には おそらく真実があるのだろうと思った。しかし残念ながら その話の真実と 自分のなかに欠けるものとは――あるいは はみ出そうとする自分のなかの動きとは―― ちがうと感じた。どのようにかは 容易にはわからなかった。だがこれ以上 母に話しをつづけさせることは できないことだった。
――ティウドゥリークス しっかりしなくちゃいけません。
との母のことばをさえぎって うん と大きくうなづいた。
もっとも 母も 子を信じていないということは ありえなかった。
エレリエヴァは テオドリックの物腰にどこかしっくりこないものを感じていたが それよりはむしろ そのうなづいた返事の反面で テオドリックが なかなか自分の意志を曲げないところがあることを知っていて 都であるいは衝突を起こしはしないかという方面のほうが 心配である部分も大きかった。
エレリエヴァは やがて――放浪することを日常茶飯事としてきたゴート種族の重みといったようなもののなかから みづからも意を決して―― そろそろ暗くなったあたりを見回して テオドリックを家路へ促した。母は子の手を取って歩き出し テオドリックもその母にいま従うことに 不満はなかった。内では しきりに問い求める動きがあり この燠が消えることはなかった。


バラトン湖に夕映えが消えれば かなたの峰みねの残照も おなじくそれに先立って消えてしまったはずである。山並みの陰影に向かってふたりは歩いていった。エレリエヴァといっしょに家路をたどるテオドリックが思ったことは コンスタンティノポリスに行っても必ずもう一度 このパンノニアに帰って来ようということ。いまは 確かなことは この一点であったが それは 手をつないだ母の手をとおしてつたわってくるものが かれに誓わせていた。
夜は いったん降りてくると急激に降りた。岸辺のゴートの集落は ひっそりと静まりかえっていき ところどころ野の獣を防ぐ火が焚かれていた。これを除いてあとは まったくの闇のなかに いつものように ただつぎの太陽ののぼるのを待つ態勢に入っていった。この日は 国王の小屋では まだ静かななにものかが うごいていた。
(つづく→2006-02-28 - caguirofie060228)

Aquincum

In the middle of the first millennium BC, the Celts came out of the region around the Black Sea and moved up the Danube River. One of the many places they settled was Ak-Ink, on the southern edge of today's Budapest. What attracted them? Perhaps it was the many hot mineral springs in the area, which seemed to be a gathering place for large mammals. Later, the Romans arrived and built a large fort which they called Aquincum (Five Waters). They, in turn, were replaced by the Huns, Gepids, Langobards and Avars, to name just a few in the long history of Hungary.