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哲学いろいろ

#10

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

Ⅶ 愛が 信仰と思考とをつなぐ(2)

――ジラール論に寄せて――

§29

はじめに 前章の余録として次をさらに引用する。そこでは 《単なる信仰》という語句から 《単なる》という形容を取り払い それを《人間の社会的本質》という語句の上に つけ加えるとよい。そのばあいの《単なる》とは 《経験領域における》という意味である。

人類学の報告によれば 未開と文明を問わず 人類はいたるところで どんな時代にも 供犠をやりつづけてきた。供犠(サクリフィス)は 人間の奇癖ではなくて 人と人とのコミュニケーションが必然的に生みだす儀礼である。あらゆる宗教的儀礼は ホーソンメルヴィルの文学にもあるように 《人間の社会的本質》から生ずるもので 《単なる信仰》といったものではない。《供犠》とは 宗教形式をとった社会的交通の《価値》を表現するものである。
暴力のオントロギー p.95)

なおこの《宗教形式》は 思考の産物としてのそれである。従って 基本原則の信仰領域と ここでの《宗教およびその儀礼》とは 全く別である。
暴力論にかかわって 供犠の問題は なお執拗に顔を出してくるのかも知れない。しかも いま 信仰の具体的な一形態として キリスト・イエスをその対象(純粋欠如)として 受容する場合がある。ここでは この信仰形態と かかわっている。
しかも かれの十字架上の死は 一つに 供犠における犠牲身体と見なされる余地があり(イエスは 人間たる経験存在でしかないのだから) もう一つは だとしたら あらゆるものの中から 唯だ一人の者を除外(排除)することになるのだから まさしくそこに 暴力が生成されており かつ この暴力にかかわって――キリスト信仰という一つの自由意志の形態は――その基本原則が こしらえられている ことになる。つまりまとめて言って キリスト信仰は わたしたちが無効だと主張するところのスケープゴート効果の一つの具体形態であるということになる。
この点あたりが いまの焦点である。主題は 引きつづいて 愛が信仰と思考とをつなぐ である。
ここでは ルネ・ジラール論が参照される。

§30

まず《ジラールは 《暴力と聖なるもの (叢書・ウニベルシタス)》から《隠された事物(世の初めから隠されていること (叢書・ウニベルシタス))》にいたるまで いわば暴力と格闘してきた特異な学者である》(暴力のオントロギー p.234)と捉えて たとえば 次のように総括されている。

ジラールの基本テーマは 《供犠》という宗教的儀礼である。《供犠》の構造を分析することで 社会形成の基本的論理を解明しようとするのが ジラールの常なる課題である。したがって ジラールの社会理論は 根本的に宗教の理論である。
暴力のオントロギー p.235)

そうして 一方では 《ジラールの暴力概念は つきつめたところ 物理的暴力の域を出ない》(批判への意志 p.175)とも評されており けっきょくジラール論で捉えられたものは 供犠にかかわってまさしく 第三項排除効果が見てとれるということになっている。この限りでは 《貨幣は 十字架上の犠牲者なのである》と同じ考え方が キリストと貨幣とは 第三項排除効果にかんして 同一だということになっている。
これを認めたうえで――つまり 経験思考は自由であるから そのことを認めた上で―― わたしたちは いくらか別様に ジラールの議論に触れておこうと思う。今村理論ではいまのところ ジラール論のあとに K.バーク論も展開されているが そこでも それ以上の新しい事柄は見られないようであるから。

§31

たとえば《世の初めから隠されていること (叢書・ウニベルシタス)》について ジラールのいちばんの問題は 《福音書のテクストの非供犠的な読み》(第二編・第二章)なのである。《非供犠的》である。かれは 一方で 《暴力とは あらゆる文化の秩序のなかで 常に 結局は 儀礼制度上のあらゆる構造の真の〈主体〉である》(同訳書p.342)と言って 経験領域そのものの暴力本質論をのべる側面がある。そして 聖書の読みとしては この暴力と供犠を超えようとする方向を 打ち出している。この打ち出し方を わたしたちは吟味する。(またこの方向を打ち出していること自体は 基本的に 今村理論も同じである。)引用文について通し番号をつけた。

(1)まずキリストの死の非供犠的性格を強調しなければなりません。イエスはまさに 供犠のさなかに死ぬのではなくて あらゆる種類の供犠に逆らって死ぬのです。もう二度と供犠が行なわれることがなくなるように願って死ぬのです。
(p.343)

この点は まなり明らかな形で述べられており 一つの基本的な主張内容だと考えてよいと思われる。しかも このことが その理論背景としては かなり複雑な内容を持っていると考えられる。
必ずしもはっきりした結論(ジラール批評)にたどりつくとも思えないのだが その要点を 賛成・反対の二つに分けて のべておきたいと考える。――応用原則としての愛からも踏み進んで まさに経験行為としての応用そのものに入ることになると思われ その妥当性のみを問うかたちとなり その点で 唯一の定まった結論が出るとも思われないとまず お断わりしておきたい。――しかもこのことを通して 信仰と思考との区別論についても いくらかの事柄を補うことができるとも考えている。あるいは 図式的に言って 近代以前の供犠における犠牲 そして近代以降の貨幣としての犠牲者 こういった第三項排除効果の議論に あらたな展開を少しでも 補えればよいと思う。
ジラールはつづけて次のように言う。

(2)それはイエスのうちに《神のことば》そのものを つまり《私が望むものはあわれみであって いけにえではない》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 9:13 12:7)を認めることにほかなりません。このことばに従う者がいないところには イエスはとどまることができません。イエスは意味なくこのことばを口にしているのではありません。イエスはどうしても死ななければなりません。《神のことば》は 暴力のしもべとなるよりもむしろ――われわれ自身のことばは いつもそうならざるをえませんが――この暴力に対して 否と言うのです。
(承前)

このあと さらに

(3) 人間の共同体が暴力に支配されていることに目をつむれば 人間には次のようなこと つまり いかなる暴力とも無縁な者 暴力といかなる共犯関係を持たない者は 必ず暴力の犠牲になる ということが理解できません。
(承前)

などとつづきます。
この点についてまず ジラールが 物理的な暴力のみを扱っているという今村理論での批判は 成り立つと思われる。そして そのただし書きをつけた上で 今村理論は むしろ抽象的な概念でありはたらきであるところの第三項排除効果が この事態の深層に見てとれると結論づけている。
このことは――つまり ジラールの主張の内容よりも その打ち出し方として―― 片やジラール理論は 十字架上のイエスにかんして直接 それは 一方で供犠と暴力の思考形態で読むこともありうるだろうが 他方で〔直接に〕それは その思考形態におさまりきるものではなく まさに イエスその人は 犠牲になったのではないという・非供犠的な読みを 提示する。
片や今村理論は 直接の物理的な暴力を問題にするのではなく まさに抽象的な構制としての第三項排除効果の中に 暴力の問題をとらえているということである。そのようにして どちらも 暴力からの自由の方向を――アンチ・スケープゴート化=非供犠的な読みを―― 志向しているということになる。
ジラールが イエス・キリストまたは聖書のテクストにかんして 直接に非供犠的な読みを提示するということは かれの十字架上の死がそのまま 経験領域の供犠の暴力にからまっていると同時に 非経験の信仰領域にも その代理としてのことばの表現をとおして 触れたものであると主張することである。そういうことは――すなわち 非経験と経験とが 同じ一つの社会的な事態にかかわると見ることは―― ないだろうというのが 今村理論である。
わたしたちも入れて三者ともみな 信仰領域の有効性の存在と持続とを 志向している。わたしたちとしてはここで 愛が信仰と思考経験とをつなぐという命題のもとでは ジラール理論に沿って いくらかさらにその内容を考えておこうと思う。以下 上の引用文(1)〜(3)について 考える。 
(つづく→2006-02-10 - caguirofie060210)