caguirofie

哲学いろいろ

#11

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§20 《転ぶ・転ばぬ》に関係なく

わたしたちは それでも 《沈黙》の議論は ここに至っても つづくと思うのです。たとえば次のような一節を聞くとき。

・・・フェレイラはこの日本は底のない沼沢地だといっていた。苗はそこで根を腐らせ枯れていく。基督教という苗もこの沼沢地では人々の気づかぬ間に枯れていったのだ。
 ――切支丹が亡びたのはな お前が考えるように禁制のせいでも 迫害のせいでもない。この国にはな どうしても基督教を受けつけぬ何かがあったのだ。
フェレイラの言葉は一語一語 司祭(ロドリゴ)の耳に刺のようにさす。
沈黙 (新潮文庫) Ⅶ)

ここで 第一に 《切支丹》であろうがなかろうが 人間はその身体とともに朽ちるべき存在である。
第二に 《この〈切支丹の教え〉がたとえば国教・藩教として根付かないこと》と 《その日本が底のない沼沢地であるかどうか》は 別である。別でない可能性もあるが 別であるところから議論は出発する。第三に 人間凝視の義務という仕事 これは たとえばこの切支丹の教えをひろめるというその仕事の専従者によって あるいは専従者のみによって 行なわれるものかどうかが 第一点二点との関連で 争われるべきである。
このような三点について 前章までにも考えてきたけれども その問題の焦点は 第四点として――すでに 仕事の専従者であるかどうかの区別を止揚してしまったとするなら―― この世で朽ちるべき存在としての人間が 自己を見つめ 朽ちざるどうでもよいのではないものを思うとき それは どうでもよい事柄による想像倫理を 復活の像とすることではない。
言いかえると 人間イエスは この世の小さな存在であり かれの形態的な顔を想像することによって 復活に将来すべきものとして臨むのではない。想像によるキリストのイメージ これは 復活つまりキリストそのものではない。心理学の美は なおこの世のどうでもよい事柄に属している。
第五点は それでも ロドリゴが 転んだのちには 専従の仕事人でなくなったのにかかわらず なお《自分は切支丹司祭である》と言っているなら この意味での仕事の性格について吟味してみなければならない。この吟味にも 第四点と同じこと すなわち 仕事が想像において思われていないかが 争われなくてはならない。
そして第六点は 第一点から第五点の前半までは おそらく 経験的な真実であろうと思われるとき その第五点の後半すなわち 仕事が想像において――なぜなら 想像・心理・倫理・その美は 移ろい行くものである―― 思われること これによって 《切支丹も亡ぶ》のだということが それである。
第二点の《日本が底のない沼沢地であるかどうか》は ここにかかっている。もっぱらの聖職者としてではなく 生活日常人として人びとに仕事がつづくかどうか それは 《日本国がキリスト教を受けつけぬかどうか》の問題ではなく つまり《教えの苗を根こそぎ腐らせていくかどうか》の問題ではなく とうぜんのごとく 《教え(または西洋一般)をどう止揚していくか》の問題であるからだ。
いや 《教え》じたいが そのままこの世のどうでもよいものに属していない復活の言葉であるとしたなら そのまま確かに教えの受容の問題であるが まさにここでも この教えを人間の想像によって想像において 人間の同伴者であると観念し 倫理規範とする つまりこの世のどうでもよいことにしてはいまいかが 争点となるはずである。
フェレイラは ここで絶望したのである。
かれは 《教え――復活という意味での教え――》を 倫理的な人間の同伴者と捉え善意の市民となって生きることに そしてその専従者としての仕事にはもとより 明らかに限界を悟ったのである。それは 当然の初めの大前提であったが かれは そこで停止した。つまり 《宣教という愚かな手段》(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)1:21)なのだから初めからわかっていた。つまり仕事にもっぱら従事することのそのような性格については はじめからわかっていたことである。フェレイラは ただこれを確認して そこで停止した。その先が ほんとうの仕事であった。この世のどうでもよいもの これではないものとのかかわり これがほんとうの仕事であった。
ロドリゴは 転びのあと ここに到達して なおかつ 《切支丹司祭》という仕事はつづくと考えたという遠藤さんの設定である。これについて吟味してみなければならない。
われわれの結論はすでに提示しているが なお結論からの具体的な出発として 考えていくことができる。キチジローの意味を 総論として把握するのではなく 個々の具体的な場面場面において かれと現実につきあうという仕事が 実際であったように。
ロドリゴの回宗の場面は もう一度あらためて問い直すなら 次のようである。

・・・青年が遠い旅先で親友の顔を思い描くように 司祭は昔から孤独な瞬間 基督の顔を想像する癖があった。だが捕えられてから――特にあの雑木林の葉ずれの音が聞える夜の牢舎ではもっと別の欲望からあの人の顔をまぶたの裏に焼きつけてきた。その顔は今もこの闇のなかですぐ彼の間近にあり 黙ってはいるが 優しみをこめた眼差しで自分を見つめている。(お前が苦しんでいる時)まるでその顔はそう言っているようだった。(私もそばで苦しんでいる。最後までお前のそばに私はいる)
・・・〔中略〕・・・
・・・懸命に主に祈ろうとしたが 心を途切れ途切れにかすめたのは 《血の汗を流した》あの人の歪んだ顔だった。今はあの人が自分と同じように死の恐怖を味わったという事実も 慰めとはならなかった。
沈黙 (新潮文庫) Ⅷ)

さらに引用を続けたいところだが 途中で切って ただちにこれに議論をくわえたいと思う。《あの人の十字架じょうの死を想像し 想像をとおして 復活に自己が関係づけられる》とわたしたちは言うのであって 《かれの顔を――復活のイメージでもよいのだが その顔を――おもい浮かべ この想像において あの仕事に自分がつらなる》というのは 錯覚であり虚偽である。《吾が顔を見る能はじ》と受けて そのあと イメージを仮りのものとして・どうでもよい人間の心理として持つのは (そうする必要はないが)ありうることである。

 ――あの人たち(穴吊りにされて呻いている信徒たち)は 地上の苦しみの代りに永遠の悦びをえるでしょう。
 ――誤魔化してはならぬ。――フェレイラは静かに答えた。――お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない。
 ――私の弱さ――司祭(ロドリゴ)は首をふったが自信がなかった。――そうじゃない。私はあの人たちの救いを信じていたからだ。
 ――お前は彼等より自分が大事なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となることが怖ろしいからだ。・・・
(同上)

だから これらは 真理(復活)ではないが 人間の真実である。どうでもよい事柄に属しているが 人間の自由な議論にとって一個の基準となる真実である。章をあらためてつづけよう。

§21 《

つづけて――すでに転んだフェレイラといま迫害にあっているロドリゴとの対話である――

そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱々しくなって――わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜 わしだってお前と同じだった。だが それが愛の行為(=あの《仕事》・・・引用者註)か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら。
フェレイラは一瞬 沈黙を守ったが すぐはっきりと力強く言った。
 ――たしかに基督は 彼等のために 転んだろう。
夜が少しずつあけはじめてきた。今までの闇の塊だったこの囲いにもほの白い光がかすかに差しはじめた。
 ――基督は 人々のために たしかに転んだろう。
 ――そんなことはない――司祭は手で顔を覆って指の間からひきしぼるような声を出した。――そんなことはない。
 ――基督は転んだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても。
沈黙 (新潮文庫) Ⅷ)

前章末尾のフェレイラの議論は 真実であった。そう考えられた。しかし それにつづくこの部分は 真理(基督)でないばかりか 人間の真実でもないだろう。われわれと同じかれの弟子たちも 転ばなかったのであり キリストは 転ばなかったが 人間の手による人間への転びの強要 これの不必要 少なくとも経験的にはその転びをのり越えることを教えるために 犠牲になったのだ。
これを証言するために キリストは ヨハネを除く弟子たちに 転ばないことによる殉教を強要したのである。
《宣教という愚かな手段》をかれが必要とみなした限りで 使徒たちとともに いくらかの聖徒たちにも これを課し殉教をも 人びとの証言となるように強要したのである。
復活が誰の目にも見えるようにしたのではない。けれども このこの世に属していない復活をこの世で肉体的にも捉え得るように 人間凝視の仕事がつづくことを人間に告知した。これが わたしの考えでは 愛である。かれのこの愛は この世に属していないが この世の人間の愛――夫婦愛についてわれわれはいくらか論じた(§14・15)――も この愛を経験的に・要するに生活日常の中で 分有することが出来る・そのように罪がおおわれることがありうると聞いたのである。
人びとは 復活に関係づけられるとき キリストの自由な奴隷となってのように あの仕事を与えられるのだと思われる。要するに 太陽によってこの海を航くようにして 生活する。時代と社会の違いと情況によって宣教という愚かな手段がとられたり 殉教があったりする。
ここで 殉教するかしないか 転ぶか転ばないか――つまり転ばないで 仕事をつづけるか 転んだあとに仕事が与えられるか――は 問題ではなく また人の自由である。
《基督は 愛のために 人びとのために 転んだだろう》って?じょうだんではない。
弟子のいわば筆頭であるペテロは もともと仕事に就くように選ばれていたが――つまりペテロ自身 これを欲し そう宣言していたのだが―― キリストを三度 否認したあと つまり転んだあと たしかに復活に関係づけられて 仕事に就いたのである。
人間は 少なくとも人間が転ぶか転ばないかは どうでもよい。使徒パウロつまり仕事に就く前のかれサウロは ユダヤ教徒として キリストに従う人びとを迫害していた。かれらを殺そうとした張本人である。フェレイラの理屈は ここでは通用しない。
これに対して ロドリゴは 《これ以上 わたしを苦しめないでくれ。去ってくれ。遠くに行ってくれ》(承前)と言うのは 道理にかなわない。このような回宗への経過のお膳立ては この転びをただ 想像において美化するためのものであろう。じょうだんじゃにゃあ。
かくて

黎明(しののめ)のほのかな光。光はむき出しになった司祭の鶏のような首と鎖骨の浮いた肩にさした。司祭は両手で踏絵をもちあげ 顔に近づけた。・・・
 ――ああ――と司祭は震えた。――痛い。

  • かれは酔っている。・・・引用者註。

 ――ほんの形だけのことだ。形などどうでもいいことではないか。――通辞は興奮し せいていた。――形だけ踏めばよいことだ。・・・
沈黙 (新潮文庫) Ⅷ)

かくて この《美しい》転び。《烈しい悦びと感情をともなった》転び(§17)。
かくて

私は転んだ。しかし主よ 私が棄教したのではないことを あなただけが御存知です。
(同上 Ⅸ)

そしてこれも 言葉としては 真実なのです。しかも このように 想像において美化する必要のまったくないこと そのように確かに仕事がつづくということは簡単にわかること なのです。
ロドリゴは酔うている。そして これが ただ登場人物の問題であって 作者・遠藤さんの問題ではないとするなら われわれの仕事は いやでも 自分に逆らってでも つづけなければならない課題がまだほかにある模様である。

侍

この作品が問題である。

一種の私小説と思ってくれてもいいんだ。ただ従来の私小説の概念と 僕の私小説の概念が違うだけのこと。自分のいろいろなものを放りこみながら それを隠してフィクションをこしらえなくてはいけない というのが僕の考えだから。
・・・
侍がいかにも日本的なイエスにぶつかったという点で 僕としては《沈黙》の主題を発展させているつもりなんだ。《沈黙》はややネガティブだったけれど 今度はポジティブなかたちで肯定してね。それとも一つ 世界的なディメンションの中で一人の人間を捉えるということ。キリシタンの時代というのはそれができるんだけれど 《沈黙》では そこまで手を拡げなかった。
遠藤周作三浦朱門との対談:〈王にあいに行った男――書下ろし長編《侍》をめぐって――〉)

《侍》は 遠藤の《私小説である》ということ そして 西洋と東洋との出会いをあつかっているということ この二つの点に注目しつつ わたしたちは議論を発展させていかなくてはならない。
ことわっておくのですが 今述べていることは どうでもよいことに属している。しかも それゆえ自由な議論を呼んでいいということです。


わたしは しかし こう書いたところで これ以上あきらかに 批判点を補足していっても 人びとは飽き飽きしてくるだけだということに気づいた。きわめて保守的に 余韻をもっているほうが よろしいということに決めた。
あとは むしろ興味本位に――と言っても優雅さを失わないかたちで――いくつかの話題を提供してみようとおもう。うまく行ったら おなぐさみである。
次章から そのことを付録としておこなうことにするが その前に《侍》のかんたんな紹介を記しておこう。作者じしんの発言を引くことが 好適であろう。

三浦 常長(支倉――小説では 長谷倉)が日本を出るのは一六〇〇何年?
遠藤 一六一三年。そういう興味(大航海時代における各国の動きへの)で ちょっと調べてみると あの男(常長)は旅をして王様に会いに行く スペイン国王に ローマ法王に。ところが その王たちは 心の中で偽使節と思いながら ただ儀礼的に面会するだけなんだ。それは当然だよ だって幕府の意向が禁教にはっきり固まってきていて そういう情報がマカオなどを通じてどんどん入ってきているのに 布教認可と交易を求める書簡をもってきているんだからね。結局 彼を偽使節と思わないで迎えてくれたのは もう一人の王 惨めな王たるキリストだけなんだ。《王にあいに行った男》という題でもよかったと思うくらい。日本の一人の王のために行って むこうの王に会い それから彼の予期しなかった王にめぐりあって帰ってくる。
三浦 そして最終的にその王のために死ぬんだね。
遠藤 彼は七年の旅をしたのだが その七年の旅は人生という旅だと思えてくる。この旅で彼は人生の縮図を生ききったんだ。そういう興味と もう一つは 当時の日本の政治家の駆け引きと 西欧の外交の駆け引きとの闘いがあるし 日本のキリシタン布教史の中でも宣教師や教団同士の醜い争いとかもあって 実に興味深いんだ。
(前掲 三浦朱門との対談)

もう一点 先に《遠藤さんの私小説である》と見た点に触れておくなら すでに聞き飽きたというようにだが 《同伴者イエスの発見》として次のように。――

支倉関係の記録などを調べてみると 旅行から帰ってくるまでは どうも信仰があったとは思えない。帰ってきて 殿にも評定所にも見棄てられて独りぼっちになったとき 彼がはじめて対話したのが惨めなイエスだったと思う。自分の惨めさを投影してね。しかし だからといって確たる信仰があったというのではないよ。つまり 惨めなイエスに 同行者あるいは影法師みたいな感じをもちはじめたら それはもう信仰だと 僕は思う。だから仮に最後に逃げて 私は心ならずもなんて言って打首になったとしても やはり殉教だと思うね。
(同上)

それでは 付録に移ろう。
(つづく→2005-11-14 - caguirofie051114)