caguirofie

哲学いろいろ

教会制度

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

基督帝への表敬は西洋人の短絡的なサ〜ビス?


 ★ 基督帝への表敬
 ☆ これはですね。つまり要するに 儀式のことを言うのですよね?
 だとすれば けっこう深い意味合いを持った成り立ちも ひとつの側面として 考えられるように分析されてもいます。

 そのひとつの側面に ふたつの場合があると思われます。

 ひとつは キリスト・イエスをはりつけにしたとの思いから これを悔いて そうする場合です。
 ユダヤの高等法院の連中や一般の民衆やあるいはユダヤ駐在のローマの総督らといっしょに〔後世の〕自分も 磔の刑に処したということ 加害者であったということ こう受け留めてこれを悔いる。


 この場合ややもすると その気持ちがどこかで自信を持って来ます。自信を持って来ると そこで キリストを言わばまつりあげる。たたりのないようにと 丁重にあつかう。ようになる。

 

 そこでもうひとつは そのような《悔いるこころ》を通り越えて 開き直った場合です。
 心の中で次のような展開を経て最後に開き直りによって キリストをたたえるまつりをおこなうようになった。
 悔いる心からたしかに葛藤を持ちつつも やがて何でしょうね 自敬というよりは自尊でしょうか その自尊心からの開き直りを経て――いつまでも卑下してばかりもいられないと考えた結果―― キリストをうやまい奉ればよいのだと《さとる》場合です。
 《たたり》をおそれての行動になるのかも知れませんが 言ってみれば性質(たち)の悪いものです。

 自分たちは このように盛大な儀式をおこなって キリストにわびつつキリストをたたえ そのキリストのゆたかな心からのめぐみをあたえてもいただくのだと語って 人びとをその《まつりあげなる儀式》に連ならせ この〔あまり使いたくない言葉ですが〕ザンゲを基礎とした和解を 社会にも築こうとする。
 人間関係ならびに社会の成り立ちや仕組みが つねに後ろ向きになると同時に そのザンゲなる祭りをつかさどる務め人を中心として築かれて行く。
 もし仮りにキリスト・イエスがじんるいの罪をみづからに背負ってみづからの命をもって〔神に〕支払いを済ませたのだとすれば この罪なる債務の返済という行為をあたかも真似てわざわざ重ねて演じている。というのが まつりあげなる儀式である。

 言いかえると このいわゆる教会における《基督帝への表敬サービス》につらなるとすれば その人は まだなおキリストのめぐみを受けていないことを意味します。
 もし世間と和解し得てまたみづからとも和解し得ているのならば わが原罪よさようなら イエスよありがとうと言って キリストなる神に きよらかなおそれをいだいている。そのようにして生活する。これだけでよいはずである。
 わざわざ儀式をおこない これを制度としてつくりあげこれを主宰する。人びとはそこにつらなる。のならば キリストの威を借りて 自分たちの身分を高めその地位を保全しようとしている。と勘繰られてもおかしくない。そうしないほかの人びとを 野蛮だとか彷徨える霊(迷える子羊)だとかと言って見下すのならば すでに精神錯乱である。国家ともなれば 戦争をして人殺しをする。キリストに反する。




 臨月のマリアが夫にともなわれて例の馬小屋でイエスを産むというとき――物語によれば―― 近くの野にいた羊飼いの青年たちにそのことを天使がやって来て知らせた。
 イエスの誕生を祝ったのは そのように名も無い人びとであった。
 はりつけのあと キリストの誕生を祝うのも われわれ一人ひとりその主観のうちで しづかにはげしくしっかりとそうすればよいはずだ。
 いやしくも聖職者を自認するのならば 世界を・人びとをそのような方向にうながそうとしてもよいはずだ。何がクリスマスだ。何がまだなお 人びとよ悔い改めよだ。

 そんなことでは 人びとを イエス・キリスト以前の時代に戻しそこに閉じ込めようとしているに過ぎない。ではないか。
 



 ★ 基督帝への表敬は西洋人の短絡的なサ〜ビス?
 ☆ 《短絡的》と言いますか ひとつには もうその必要もないことを自覚しなければならないのに わざわざそれでもなお何故か《悔いる》ことをおこないつづけているという引っ込み思案で恥づかしがり屋のはにかみ屋・・・。

 もうひとつには 《わが身とわが身分の保証》を追い求めこの世での地位の安泰を《短絡的に》図った教会野郎ども。キリスト・イエスをたたえまつりあげておけば その司祭たるおれたちに人びとはついて来るだろうと。誰もが脛に傷を持つのならば・持つのだからと。