caguirofie

哲学いろいろ

言語記号の恣意性説への批判

 これは 構造主義の基礎に横たわる仮説としての《歴史は 無主体の過程である》という見方をくつがえしたいという目的のもとに問うものです。
 

 《恣意性》説は じんるいの歴史において《自然》と《人為(その意味で 文化)》とが切り離されたと見るものです。
 この見方がくつがえれば 人為と自然とがつながっているということ。たとえ本能がほとんど壊れてしまっていてもなお 自然の痕跡は残っていて ひとは 生物としての存在性そのものであるという意味での《自然人》でありうると見ることになります。
 構造主義は 人間はこの自然人であることから切り離された文化人(その意味での社会人)として〔のみ〕生きる生物種であり その人間は もはや一人ひとりが互いに 社会的な行為関係とその構造の中であたかも無主体として生きるほかないと言おうとしていると考えます。
 (あたかも 主体無き《縁起》の過程をあゆむと言っているとも見られます。そう言えば 通俗的にはブディズムも さとりを説いていてもけっきょく 《ひとり》としての人間は無力であり社会の縁起過程に従うのみだと言っているかにも聞こえます)。

 《関係》のみで成り立っているということは 一人ひとりが互いに違っている。《差異》がある。ということであり この差異としての関係 これが 構造である。 
 すでに《〈主体〉はない》と言っているからには 構造と言えば 《差異関係》としての人間関係つまり実際には ゆるい意味合いをもふくめて支配の関係である。時代ごとにこの支配被支配の関係構造にかんする概念装置(エピステーメー)がかたちづくられそれに従って 人びとは生活する。歴史は 差異とその関係の進展から成る。と。
 
 ここでなるほど《関係性》は そのまま認めなければならないと考えるが けれどもそれだけではない。それだけではなく 網の目の関係の結び目が存在する。人びとは 互いの差異としてだけ存在しているのではなく 結節点としてのヒトとしての存在性を持つ。そしてそれは 《自然》とのつながりであり 自然(ないし自然本性)にもとづく存在のあり方だと言える。


 構造主義は ソシュールの《言語記号の恣意性》説から 《差異関係のみ》を導き出したのであるから この《恣意性》説をくつがえせばコトは足りる。

      *

/ nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアン(≒音素)が同じなら シニフィエ(≒意味)も同じく《障害の除去》だという例です。
 / n / や / g / などのシニフィアンとその意味であるシニフィエとのつながりには いかなる自然のそして論理的なる絆はないというのが ソシュール説ですから。
 (1) / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・
  心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・
  これが消滅する というシニフィエとなっている)

 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)

 (3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)

   *

 こうして 自然(ヒトの出す声音)と文化(音素の持つ意味)とがつながっているとするなら 両者は絆を持つと考えられます。人間は《自然人かつ社会人》であると言えると思われます。
 《自然人》としてかたちづくる――つまり 感性にもとづく――《好き嫌い⇒ くせ⇒ 価値観 ∽ それにかかわった意志行為》が 人間をして経験有限相対的な存在であるかぎりでの《主体》たらしめる。《無主体の過程》というのは この個人としての自由な意志行為のあとの相互に作用して錯綜する構造つまり縁起の過程総体のことを言うと見られます。
 そしてそれは(つまり 過程総体は) 逆説的にひびくかのように 大きく《自然史過程》をたどると言ってよいごとく 個々のわれわれ人間の手に負えなくなるほど《無主体の過程》であるかに見える。
 と考えます。

 ソシュール説ないし構造主義には与し得ません。