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哲学いろいろ

#3

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§4 《月光のドミナ (新潮文庫 え 1-4)

若い女だった。白人の女だった。のみならずその人は一糸もまとってはいなかった。顔をふって額を覆った栗色の髪を払うと 長い脚で砕ける波をふみしめながら ゆっくりと浜に近づいてきた。
月光がその人の濡れた髪や顔や真白な立派な体にかがやいていた。僕にはその肩や乳房や脚に光っている玉のような水滴まではっきり見える気がした。
その人は僕をじっと見つめながら浜に上ってきた。それから立ちどまって僕とむきあった。
長い間 二人は黙っていた。突然 彼女は右手をあげると激しい音をたてて僕の頬を撲った。
水によろめいて倒れた僕の眼の前に彼女の濡れた細かい砂のついた両脚があった。その足の指を月光に輝いた波が押しよせては洗い 洗っては退いていく。僕はその人に打たれた痛みに酔っていた。その痛みは頬だけではない 五体の隅々にまで痺れるような不思議な感覚を伴ったものだった。口惜しさも怒りも僕は感じなかった。なにか暗い世界に引きこまれ 落ちていくような気がする。その暗い世界は人間が死後 すいこまれていくあの涅槃のようなもの 考えることも 苦しむこともなくただ眠ることのできる涅槃に似ていた。
波は幾度もうち寄せ 僕の両手 僕の衣服を濡らしていった。その人の足はもう眼の前にはなかった。(ドミナ)という言葉がその時 流星のように僕の頭を横ぎった。なぜ そんな言葉が脳裡をかすめたのか知らない。でも僕はあの人の名がドミナであり ドミナと呼ばれねばならぬとわかったんだ。それから・・・
それから長い戦争の日が続いた。
(?)

月光のドミナ (新潮文庫 え 1-4)

月光のドミナ (新潮文庫 え 1-4)

《暗い波間から現われた全裸の金髪女性に頬を打たれ 自己のマゾヒストとしての運命を確認する画学生・千曲の暗い欲望を描く》(文庫本の表紙カヴァー)のが この作品であると言われています。
《ドミナ》とは 女性の主人を意味するわけですが 《涅槃(ニルヴァーナ)》とは ゆたかな心を意味するかどうかを別として(そのときには 寂滅などと訳されると思いますが) 死であり 死の一つの心理的なイメージであるでしょう。女あるじが 人間として この世のものであるのと同じように 死も 時間的・経験的なこの世のものであります。復活は 経験的なものではなく 時間の世界に属していない。したがって 人間凝視の姿勢は ここまで 少なくともここまで 言い出すべきであり それ以上に もともと カトリック作家ならずとも その作品の大前提に含み置いていると考えなければならない。といった課題をふくむ内容をもった作品のようです。
物語の世界に関する限り 遠藤は 《遠藤》という実名で この画学生・千曲について次のように語っている。

私は千曲を軽蔑はしていたが 他の連中のように特に嫌ってはいなかった。ただ 世間によくある人間嫌いな変人たちの一人だろうと思ったのだ。しかし廊下や階段で偶然 出会った時の彼の怯えたような表情や鉛色をした顔色や とりわけ あの赤黒い唇にはなぜか生理的な嫌悪感を持った。なにか不潔な隠微なものを私はそこに想像したのである。・・・
月光のドミナ (新潮文庫 え 1-4) ?)

わたしは  《どんな人間も疑うまい。どこまでも信じよう》という言葉は ここで聞かれるべきだと考えます。作品を勝手に横断してそう考えます。どうでもよい事柄の世界で ここでは ただちに 人間を凝視しようということが――たしかに想像力が問題であるとするなら その限りで―― 正解だと思います。こういうと きわめて倫理的な規範に関わっての発言と受け取られるかも知れないのですが 倫理はもともと 時間的な世界の反省的な意識と認識に属しているのですから ここではそのまま そのような倫理としてでも かれを凝視していけばよい。
《なにか不潔な隠微なものを想像すること》は あの心理的なドラマにかんする想像でも人間凝視でもなく ただ この時間的な人間の世界の観察でありまた追認のようなものでしかない。(そういう第一次的な反応を持つこと自体は 別であって いいも悪いもないしょうけれど。)画学生・千曲にとってあの女性が月光のドミナであるとしたなら――《主》と言う場合 ある種の《同伴者》であるとしたなら―― それもまだ この時間的な倫理ないし心理の世界の出来事なのであるから つづいて《おバカさん (中公文庫)》のガストン君のイメージが いわばドミヌス(ドミナの男性形)のイメージであると言っても 同じことに属し それらはじつは カトリック作家にとって なにほどのことをも語らないと言ったほうがよい。
わたしたちは 《気味悪い》千曲に対して 《生理的な嫌悪感を持》ってはならないと言おうとしているのではありません。《政治家は理想を信じんし インテリは人間を信じとりはせんですたい》という言葉は ここで聞かれるべきだと思われます。そうでなければ 人間のこの世の心理的・倫理的な事柄による想像が この世のものではないものに当てはめられて そのように常に類推されていくにすぎなくなるのではないだろうか。
《月光のドミナ / おバカさんのガストン君 / 同伴者イエス(その発見)》 これらは 人間の心理の世界であり 復活またキリストは この世に属していないと言わなければならないという大前提を再度 確認したいと思います。
けれどもわたしたちは キリストの像や復活ということを 思惟したりその観想を得たりすることがあるとしても 当然の如く この思惟や観想そのものを キリストであるとか復活であるのだと言うことは 出来ないし ありません。人間の・この世の存在の根源として 唯だ物質のみと言う人びとも 実際には この唯物論ということじたいは 人間の思惟や観想にほかならず この唯物論という思惟そのものが 存在の究極の原因(あるいは神)だと言うのではないでしょう。というようにです。
したがって 月光のドミナもおバカさんも同伴者イエスも まだ 人間の心理的なドラマの世界に属している。言いかえると わたしたちも これが キリストだと言って何か形あるものを指し示すことは出来ないのですが これこれはキリストではないと また キリストはあれそれではないと言って 人間凝視の姿勢に立つことは出来る。
したがって 単なる一女性(それは 人間として 時間的な存在である)を 自己の月光のドミナとしてあがめるようになるほどの人間・千曲に対しては その人間を信じ凝視していかなければならないが 《どんな人間も疑うまい。どこまでも信じよう》という仕事を自己に課したガストン君に対しては かれが いわば日光のドミヌスであると取られかねない時には むしろ疑ってかからなければならないと思うのです。千曲君の人間を信じるところの自己を信じるわたしは 《どこまでも人間を疑わず 信じよう》とわざわざ自分の仕事として表明するガストン君を――そのような一定の表明とイメージに拠って―― 信じてはならないと考えざるを得ないことを余儀なくされると思います。
けれども 復活は この世のものではありません。この世のものとは 心理・倫理・時間的な経験・可変的な出来事などなどです。ただしわたしたちは どうでもよいのではないこのキリストの復活を もし問い求めようとしているのならば この世にあって何とかしてかれを見まつろうとあえぎ求めているとしたならば 復活は 将来すべきものとしてこれに臨むのがただしいと言われたことになる(アウグスティヌス)。
この倫理的にではなく 観想的な精神によって得られる構造的な視点は この世のわたしたちのものであると考えられます。人間凝視の姿勢をつらぬくとき その過程で 時に得られる観想だと言われています。
言いかえると 遠藤と同じようにわたしたちも この単純なかたちで逆に言えば 表現としては あたかも二段構えのごとく この人間の生またその歴史の観想を 求めており じっさいこれを生きていると考えられます。
次章に継ぎたい。

§5 〈悪魔についてのノート〉《吾が顔を見る能はじ》

復活 しかも肉の復活ということは もし人が表象しうる限りでそれを言葉に表わそうとおもえば 永遠の生命を得るということだと思います。そしてこの表象があるとする限りで 永遠の生命というのですから そこには 嘘がないと言わなければならないでしょう。ところが この時間的に事が生起するのではない神の国とはちがって この世では 倫理的にも心理的にも 人は虚言をいうことが出来る。論理的な思惟にもまた信じるということにも ウソが生じないわけではありません。このゆえに この世の出来事は どうでもよいものであるのだと考えることも出来るでしょうし あるいは 人間は このウソをそれとして知っているという知恵をもって 自立し 共同自治をおこなっていると言うこともできます。
ウソもそれをウソと知る あるいは 時に致命的な虚偽をもったウソである場合には 人はこれを 内的に棄てていく これも人間の知恵であると考えられている。

  • ここでは 問題の社会的な広がりについてはとくべつ触れません。

§1で出てきた《敗北感》とは このウソの横行に対する挫折であるでしょうし またこの挫折の中で《卑小を装い 実はそうであっても自己の信仰の――つまりその自己の態度は真実であると信じているのですから その信仰の――心理的・倫理的・科学的な裏付け》をしてゆくことは 人間の知恵に属することです。《おバカさん》の主人公・ガストン君は 人間はウソをつくが ウソもつくところの人間そのものはどんな人でも疑うまい どこまでも信じようと考えたのでした。《月光のドミナ》の千曲さんは あのドミナにはウソがないとあやまって信じ込んだのかもわかりません。そしてこのとき われわれは 少なくともひとこと おそらくそれは間違いだとはっきり言ってあげようと言ったのでした。これは 人間凝視の姿勢であって ドミナを信じ込んでいくかれをそのまま観察することが それではないのですと。もっとも物語の中の遠藤さんは 千曲氏の破局のあと その破局を知ったというかたちですが。
遠藤周作は この知恵をもって キリストのイメージを問い求めている。つまり《同伴者イエス》とは この人間の知恵による言葉(認識)であり それは ウソを超えようとする姿勢を示すことだと考えられます。つまり《同伴者イエス》といった一つの像は そこに人間の知恵があってその限りでウソをのり越えようとしている一方で ウソの全き欠如といった復活そのもののことではない。《同伴者イエス》は そのような知恵として・思惟として なおウソを許容する人間の世界に属している。その意味では 人間凝視の姿勢をつらぬくと同時に 永遠のというほどにその同伴者イエスを あたかも想像裡において暖かいイメージのこの世の存在としてのように 抱こうというかたちなのではないか。
復活とは われわれにとって 将来すべきものとしてこれに臨むのがただしい。そのようにして ウソを許容しうる人間の言葉で かんがえ捉えることができる。
復活はこの世に属していないとのみ言うのではなく もし人びとが――わたしは言いますが――きよらかな心でそれをあえぎ求めているとしたなら そしてそこには真実があって真実しかないのだとしたなら 将来すべきものとして臨むのが正しい。少なくともこの思惟によって ウソをのり越えることを ウソを許容しうる人間は 果たそうと考えているのだと。
遠藤は言っている。

《神は在ると思うか》とたずねられれば現代人は必ずしも笑わないであろう。しかし《悪魔は在ると思うか》と問われれば彼等の大部分は苦笑するであろう。
(〈悪魔についてのノート〉《吾が顔を見る能はじ》1979北洋社)

と悪魔についての一考察を始めているのですが われわれはここで逆に この悪魔の問題をかんがえようとするとよいはずです。なぜなら すべてのウソが悪ではなく 悪魔はすべて本心からウソをつくと考えられるからです。言いかえると ウソの全き欠如が真理であるとすると――そしてそれは この世に属していなかったのですが さらにそしてそのことを将来においてわれわれは待ち望んでいるとも言えたのでしたが―― 真実の全き欠如のことを悪魔であると言うのですから この悪魔のこととして考えていくのもよい。
もっともだからといって 神と悪魔との戦いであるとか そのような二元論を言おうとするのではありません。神はこの世に属しておらず そしてここで悪魔を問題にするということは 人間がこの世でウソをつくことができるという点にかかわって これを考えておこうというのですから。
遠藤が次のように――女性差別の発言ですが このような議論が通用した時代がありました――すなわち

女のウソと男のウソはどう違うか。その答えは明快です。
《男はウソをついている自分を知っているが 女は自分のウソまで信じてしまう》つまり女は口先だけでウソをつくのではなく 体ごと 全身全霊でウソをつき しかもウソをついているうちに自分でそれを信じてしまうらしい。
ぐうたら生活入門〈女のウソと男のウソ〉)

と述べるとき 《全身全霊でウソをつく》というのが 《本心からウソを言う》ことだとすると 論理的な帰結として すなわち 女イコール悪魔だということにもなりかねないですが ともあれ この懸念に対しては断じてそうではなかろうと言って 消しておき(かんたんに言って 人間の存在イコール悪魔だとは考えられない) しかも このように経験的に虚言を語りうるという点にかんして 悪魔の問題をとりあげておこうと思います。
すなわち この作業が キリストの像の問い求めということにかかわるというのは 《復活がこの世に属していない》とのみ言うのではなく 《将来すべきものとして臨むのが正しい》と聞かれるときに じつにこの世にあってこの世に属していないものの問い求めとある種の観想が得られることを意味している。そしてこのことが まったく空しければ われわれがウソを乗り越えようとすることも 空しいわざに属している。そうであるか そうでないか ここで問うてみます。
しかし 事はそんなに難しいことではない。なぜなら あのガストン君が 《だまされても信じよう》というのは それによってかれが欺かれたウソあるいはその或る種の力に対して それらを乗り越えようというのであったから。逆に言いかえると そのような一つの信条の表明にはわれわれは疑ってかからなければならないと言ったのですから 必ずしも悪魔の力を乗り越えようとするのではなく 何か或るものを信じようとするときに そのこと自体が むしろ悪魔によって ほんとうはウソであるものを真実なのだとして思い込まされていはしまいか このようなごくありふれた経験にかかわっていると言っておくことができる。
この後者の点についてただちに言っておくべきことは 自己の信じるところにしたがって真実と思われる事柄について その限りでこれを信じても一向に差し支えない つまり 真実と思われる事柄をさらに超えて次に起こる何らかの事柄にかかわった場合 しかもそれがウソだとわかった場合 そのときにはこのウソまたは悪魔の力について行かなければよい。これが ガストン君の信条表明のある種の固定化に対する疑いの――つまりガストン君の人間を信じることの――経験法則であるものだと考えられます。

誘惑する悪魔は同時に神に嫉妬する者である。
遠藤周作:〈悪魔についてのノート〉)

まず遠藤は このような認識を確認している。これは 悪魔が肉(また肉の死)とは無縁であって 悪霊といわれるごとく この世に属しておらず その限りでその世界で 神に敵対するととらえられたところから発しています。我々は現代において

ウソをつくことを愛する者は 真実をのべる人を嫉妬する。

と言い換えておくことができます。このような経験的な世界の出来事として考えていくことができる。そこで

悪魔はかつて〔上のように霊的な存在として神の世界で神に敵対するというふうに考えられていた時代に〕第一の手段によって 人間に反抗することができぬほど強力な存在であるごとく見せかけた。それは多くの宿命論やマ二ケイスムのような神と悪魔の二元論をもたらした。
しかし現代において悪魔はこの手のほかにもう一つの手を使ったのである。全く無視されること 黙殺されること――それ以上に人間の念頭にさえも浮かばぬこと つまり存在しないと信じさせることなのである。
(同上)

と考えられるウソの問題が わたしたちの前にありうる。上に一つの経験法則としてわたしたちが語ったように 悪魔の第一の手段といわれるものも なくなったわけではないが この現代的な問題に考察の中心をおくべきであろう。
遠藤が ドニ・ド・ルージュモンの《悪魔の分け前》から引用して把握するところは 次のようである。

悪魔は〔神と同じように〕自分の作品がほしい。しかし彼は人間の手を借りなければそれができぬ。だからこそ芸術家や作家がその危険にさらされるのだ。彼等が画筆を握り筆をとる時 悪魔は彼等をみちびくために そこにいる。

  • 作家らに 自分はもはや存在しないと信じさせておいて そこにいるというのである。

そしてその名に価する作家はもとより すべての芸術家は自分がなぜこの言葉をえらび このリズム この音をえらんだか その最も深い動機をきかれるならば 眩瞑するような矛盾を感ずるだろう。計りしれぬ混乱のなかから やっと外見のはっきりとした一つの句が浮かび 終るからである。真実 創作の意志や必然性はその深部において悪魔の誘いに符合する。つまりそれは自分を神にし 創造者になし 自分の世界での支配者になろうとする感情だからだ。だから悪魔がそこに侵入してくるのは宿命的なことだ。
(〈悪魔についてのノート〉)

かんたんに言うと ウソであるかどうかをもはや問わず 自分のことばが 自分がその始原となって繰り出されること しかもそのときウソはないであろうと信じ込むということ これが 現代における・現代人にとっての悪魔の問題だというのでしょう。わたしは これに対して 同じくかんたんに こう答えたいと思います。
すでに考察を重ねてきたように 復活の世界の問い求め キリストのイメージの認識 これは やはり人間のどうでもよい事柄に属している。そうしてなおかつこの世界で これらの事柄を通じて ウソをウソと知り 時に致命的な虚偽はそれを内的に棄て乗り越えつつ どうでもよい有限な真実をのべあって行くこと これです。人間凝視の姿勢としてです。
ここで言えることは したがって次の問題点としてのように 人間の虚偽は――すべてのウソが犯罪ではないが 時に虚偽のウソは犯罪であり―― 内的にでないなら どこに棄てるであろうかという問題です。
(つづく→2005-11-06 - caguirofie051106