caguirofie

哲学いろいろ

#12

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

付録 史観の断片

§22 《想像をとおして》と《想像において》と

付録の第一話。
第一話として 総合的に論じておこうとおもう。テーマは 《想像をとおして》と《想像において》とは どう違うかである。
《同伴者・同行者・影法師》というキリスト・イエスのイメージ これは 想像における視像です。うっすらとこの視像をわたしが持っているというのが 人間の記憶(その能力と行為)であり この記憶における視像を その想起にもとづき 知解したものが この《同伴者》なら同伴者という人間の言葉による表現である。知解(その能力および行為)は 精確にはこの意味で 視像の視像 つまり記憶における或る視像を視観したもの である。
じっさいには ものごとを知解したものを記憶の倉庫にしまいこみ 新しい知解がこれを ふたたび取り出して 吟味するという過程をとおって行くのであるから 或る視観(記憶)とその視観の視観(知解)とは どちらが先行しているのか言うことはむずかしい。ただ この遠藤さんの想像に即して言うと じつは 無意識的にこの像を記憶していたとも考えられる。
あるいは ありうべき経過として 影法師といったイメージでないものを記憶していたところへ この新たな像の知解が かれに訪れたというのかも知れない。つまり いづれにしろ想像という行為において 記憶行為と知解行為との二つがあるということ。
しかも ついでに言っておくと これら二つの行為(またその能力)のほかに 人間には この記憶の視観と それを知解した視観とを ちょうど結びつけて保持するというような第三の行為能力 つまり一般に 意志がある。遠藤さんが 記憶したまま あるいは知解したままに この像を放っておかなかったというのは この第三の意志による。
ところで 人は 記憶しなかったものを覚えておらないし 知解しなかったものを知っているのではないし また 意志しなかったことをじつはおれは意志していたのだということは出来ない。この意味で これら人間の三行為能力は 一つの精神 一つの本質(存在)である。また わたしという一個の精神 あるいは身体をもって存在として一個の本質において 記憶が記憶するのではなく 知解が知解するのではなく 意志が意志するのではなく このわたしが 記憶し知解し意志するのである。
こう考えると イエス・キリストを《同伴者》として想像したということは わたしが想像(記憶の想起および知解)をとおして思惟し この思惟を意志をもって保持しようとしたことである。言いかえると この一つのイメージは わたしの有(もの)である。そしてこれは どうでもよい事柄に属している。
ところが 想像においてこのイメージがわたしを支配するなら わたしが記憶したのではなく記憶がわたししたのであり わたしが知解したのではなく知解がわたししたのである。なぜ イメージが――わたしの有であったイメージが――わたしを所有し支配するならと言うかというと わたしは これこれのイメージを記憶し知解し意志する一個の存在であるのに――この存在をわれわれは凝視していく―― この《影法師》のイメージの中で やがてわたしは 殉教なら殉教 要するに 死んでゆくと言っているからである。どうでもよい事柄に属してわたしの有であったイメージが どうでもよいのではないものとして 倒錯して捉えられたからである。我々はこの点をるる説明してきたとおもう。
遠藤さんのキリスト・イエスの像と その意志による共有によると すべからく人間は善意の市民たる兎にならなければいけない・つまり 《罪を犯すなら 死ぬであろう(または 法律によって罰せられるであろう)》と言っているのである。われわれは 仮りに《同伴者イエス》のイメージを持ったとしても これを想像をとおして わたしの有として 生きるのであって わたしの有たるこの像のために生きるまた死ぬのではない。
わたしが 記憶し知解し生きるのであって それは 《このわたしの有たるこの世のどうでもよい事柄に属する或る像が――またはその像に――生きるというほどに 自己が死なないならば わたしはわたしではなくなるであろう》というような教えを受けた覚えはない。と言いつづけていることになる。
逆にいえば 《或るイメージ(なぜなら これも罪の世界に属している)が 死なないならば わたしは わたしとして 生きないであろう》。

  • イメージを持つことが 悪いとは 一言も言っていない。

なお問題は 《或るイメージに 死なないならば わたしではなくなるであろう》とも言ったのであるから この表現は じつは遠藤さんの議論に酷似している。表現の仕方によって 微妙な内容が生じてくる。
しかしながら この二つの議論には 百八十度の方向の違いがあって それは 《想像をとおして》と《想像において》との違いにかかわっていると言えよう。わたしたちが 《或るイメージに死なないなら わたしは 生きないであろう》というのは 《罪を犯すなら死ぬであろう》ではなく 《罪を犯さないために死ぬべきである》と考える場合につながる。なぜなら イメージ(記憶の視像やその知解としての視像=ことば)は わたしの有(また社会科学的に 私有財産 つまり 知としての私的所有)であって どうでもよいこの世の事柄に属していると わたしは 記憶と知解と意志する主体として 憶えており知っておりまた意志しているからである。

  • このイメージやその言葉によって 罪(虚偽)を犯さないために わたしは そのイメージに死ぬべきである。ふつうは 死んでいる。つまりそのようなイメージを 後生大事に 復活の事柄そのものとして いだくことは まちがっている。踏み絵とて そうであろう。分かりきったことである。  

この後者の主体としての存在は この世で有限な変えられるべき人間としてながら 真のわたしである。ちなみに 殉教という観点からみても このようなわたしが殉教するのであって わたしは あのイメージのために あるいは 物の富および知の富たる私有財産のために 殉教するのではない。
つまりこのわたしは もはや いわゆるわたくしのために 生きるあるいは死ぬのではなく いわゆるわたくしの罪がおおわれて 生きているということになろうし また 死にゆくということにもなるのである。しかし 人はだれも 殉教のために殉教するのでもなかった。なぜ イメージのために 生きたり死んだりしなければならないのだろう。
整理してみよう。
《想像において イエス・キリストを思う・抱く・愛する》というときには わたしは この経験的な思惟や愛(いわゆるそれとしての抽象物)の奴隷となっている。ロドリゴが 踏み絵に描かれたイエスの像を 《いっしょに苦しんでいる同伴者 だから 踏んでもいい 踏むがよいと言っている者》として 想像したというのは 自己の記憶にもとづいてそう知解しまた意志しようとするロドリゴなる一個の存在のわたしが そこに存在していることになる。
《侍》が 《自己の惨めさを投影して 惨めなイエスの像をみとめ かれと対話した》というのは 侍なる一個の存在における記憶と知解と意志つまりそのような想像行為および実践であるが その持ったイメージの如何にかかわらず 侍は長谷倉六右衛門なる一個の存在として ここに人間しているのである。これが 想像をとおして生きるその矛盾構造の動態であるにほかならない。
その余の想像と想像物は みなどうでもよい事柄に属している。わたしたちの想像も 言ってみれば同じなのであるが つまり どちらの想像も 仮りのもの(いわゆる似像)であるが わたしたちのは このように人間そのものを見つめたものであって 遠藤さんの場合は 人間の有(つまり想像や心理や倫理や法律)を凝視したもの つまり人間をただ 経験的に観察したものである。
遠藤さんの想像によると わたしは わたしの経験的な有に連れ去られてゆく恐れがある。わたしたちの場合は わたしがわたしの経験的な有に連れ去られてゆくことへの快活な恐れをはじめに見出して いわばわたしに到来している。
わたしたちは この自己に到来したわたしという似像によって歩む。遠藤さんは この似像なる存在が想像した何らかのイメージにおいて歩む。わたしたちは イメージをとおしてイメージをただ人間の有として認識し 同じようにそれでも空しくされようとも この海を航く。遠藤さんたちは この海を航く術を想像し この想像の心理と倫理と法律とにおいて 社会的な安全の道をきづこうと言って 進む。
ちなみに 法律という点は 社会的な交通ルールたる想像規範として キャピタリスムまたはキャピタリストたちも 同じ類型である。社会主義の体制・国家・法学というとき そのソシアリスムまたはソシアリストたちも 同様である。
わたしたちは――おおはばに単純に言わば――この想像されたイメージ(その社会的な規範=安全の道としての共同の観念)また法律に 死んだのである。《罪を犯すならば この想像規範のイメージによって死ぬであろう また 法律によって罰せられるであろう》というのではなく 《罪を犯さないために 死ぬのであ》り――そのとき われわれは 罪への快活な恐れをもっている なぜなら この世ではまだ義とされないただ似像としての自己つまり人間の言葉に到来しただけであるから―― 《死なないなら わたしが わたしとして生きないであろう》と聞いた。なぜなら すでに時代は殉教の時代では――つまりキリストの証言者の時代では――なく キリストの復活とともに これら殉教者も復活して来る時代であるから。
なぜなら マルクスも ソシアリスムの経済制度・法学やその社会を創れとそのものを 主張したのではなく これらの視像や理論をとおして 人びとが自己に到来すること つまりあの人間凝視の義務をとおして自己に還帰せよと言ったのであるから。
また このような仕事がつづくコミュ二スム社会つまり要するに生活は それの中で人びとが生きるところの理想や想像ではなく いまここで行なわれる矛盾構造の動態であると言ったのだから。
これが 付録のいくらかの話題のための総論である。要するに このような人生を送る社会と時代は 時として――たしかにキャピタリスムの発展につれて――実現するのです。ただし このこの世の時代と社会との事柄は どうでもよい世界に属しているということだと思います。

§23 原史・前史・後史・本史(!?)

付録の第二話。
ここでは 任意に言葉の問題に触れておきたいと思う。それは 西洋と東洋との出会いにかかわっているものとして。――
》の中から 想像を表わす二つのうたを取り上げる。

(A)
弥陀成仏のこのかたは
今に十劫をへたまえり
法身の光輪きわもなく
世の冥盲を照らすなり
第六章)
(B)
その人 我等のかたわらにまします。
その人 我等が苦患の歎きに耳かたむけ
その人 我等と共に泪ぐまん
その人 我等に申さるるには
現世(うつせみ)に泣く者こそ倖(さいわい)なれ その者 天の国(パライソ)にて微笑まん。
(同上 第十章)

これらは 時に 教訓または教えとして受け取られるが この二つのうたを持って 東と西との出会いとして考えてみようということである。
われわれは いづれにしても これらのうたの表わす想像をとおして 人間するという過程にある。
言えることは 《阿弥陀仏》にしても《その人》にしても この想像の言葉(ものごとを規定しうるもの)そのものにおいて 生きるのではない まずこれであった。
言いかえると 《現世を超えてある天の国》あるいは《世の冥盲を照らす法身の光輪》 これらが この世に属していないなら それに関係づけられるということである。
《弥陀は成仏(あるいは復活)したのは 十劫の昔である》あるいは《いま泣いているものは 天の国に受け容れられよう》というのは この想像をとおして あるいはこの教訓を受け容れて わたしが この復活に関係づけられることを 問い求めていることになる。
これが じつはそのまま すでに西と東との出会いにかんする結論なのであるが ここでは 《天の国》にあてられる《パライソ》の語に注目してみたい。
パライソあるいはパラダイスという語は じつは 東洋に起源をもつことばである。もしこれがペルシャ語に発するとすると ペルシャ語(その民族)は インド・ヨーロッパ語族に属し ヨーロッパ人と親戚であり その限りで西洋起源ということにも逆になるのだが 少なくともアジアの地で発祥したことに変わりはない。
キリスト教のいう天の国と アミターバ・ブッダの浄土とは 異なるが ブッダの浄土とパライソとは そんなに違わないかも知れぬ。また キリスト教(ないし旧約聖書)でエデンの楽園というときは 形態的な地上の国を言っているのであるから これも パライソとあまり違わない。ただし この形態的な国土という意味では これらと仏国土とは また異なることになる。
要するに この世の地上の国と この世に属さない天の国とが ――人間にとってどうでもよい事柄とどうでもよいのではない事柄とがあると考えられるとき――まず識別される。《天の国》はそのまますでにそのように把握され 《パラダイス》あるいは《エデンの園》というのは 地上に属し 《ブッダの浄土》というのは 想像として《彼岸》であるなら 地上に属しておらず 《彼岸》として想像する人間の産物としてのイメージであるなら 地上のものである。
エデンの園ももちろん オリエントに発するのであるから この語とパラダイス(パライソ)の語とで いわば東と西とが まず結ばれることになる。《天の国》は 西の人がこの語を持とうと東の人が持とうと 人間的な論法でいえば いわば極北に位置している。《仏国土》は 想像においてそうであるとするなら パライソやエデンとそう遠く隔たるものではないとも言いうる。
ここで問題は 仏国土を その宗教性にかんして 止揚することであり 天の国を――西の人にとっては同じくその宗教的な性格を止揚しつつ――この地上の存在たる人間としてわたしの中に受け取ることである。それは パライソやエデンの語(概念)とかかわってなされる。という情況ではあるまいか。
エデンまたはパライソにあるとき 人はこの地上において 天の国(神の言葉)とむすびついていたと考えられた。ブッディスムはこのことを 想像としては心理学的に倫理学的に思惟したのである。
現代において エデンはなくパライソはもう残されていないと考えられる。その限りで 彼岸なる仏国土をうたうところのブッディスムは しりぞけられている。天の国は・その教えは 時に根付かず それが明らかにした人間学が 議論されることになった。なおかつわたしたちの一つの課題は 復活にわれわれがこの地上の生で関係づけられることである。
われわれは これらの概念や思惟を総動員して進まなければならないか または 一度 吟味をし終えて新しい出発をするといったかたちである。
わたしはここで歴史学的に一つの仮説を示そうとおもう。すなわち 突飛なことではなく エデンとは 人類のはじめ 狩猟・採集・漁撈によって自給自足の生活をしていたと言われるところの原始的なコミュニスムの社会であると考えてみる。単純である。そこでは それなりに わたしがわたしであったと。
ところが わたしたちは このエデンを追われたのである。または自由意志をもって 自給自足の経済を打ち破り エデンをわれわれが離れた。少なくとも他のエデンの社会と交通することによって 自己のパライソをパライソとして知った。だから ここから歴史が始まると言うことが出来る。
ブッディスムは これを 非歴史学的に 観想しようとした。天の国の考え方は この歴史を その前史と後史とを通じて 教えた。ところが マルクスは このエデン以後の歴史を 人間の前史とした。なぜなら 新約以後のキリスト教が後史(つまりマルクスの言う前史)の栄光から本史の栄光へ人間が変えられる復活にあずかると教えたからである。
われわれは ここから問題点をひろうなら 一つに エデン以後の歴史から人間が変えられて復活する本史というのは エデンの歴史(つまり歴史以前)の人びとの復活との関係よりも 優れていると聞くことである。
歴史の大区分はここで 前史(エデン)と後史(エデン追放以後)と本史であり または原史(エデン)と前史(エデン追放以後)と後史とである。マルクスが明らかにしたのは この後史から本史へ または 前史から後史への移行は キャピタリスム(それは大きくは 狩猟・採集の経済のあとのものである)の世界史的な発展とともにであるといったこと。わたしがここで主張してきたことは このマルクスの観想が 想像において――あたかもブッディスムの残響のように 彼岸として――保持され理論されて行くか それとも想像をとおして いまがマルクスの言うコミュニスムの動態的な矛盾構造としてわたしする現実であるかの違いを明らかにすること。
そしてこのことは エデン追放以後の後史つまり 次の後史(本史)からは前史の時代に ちょうど旧約聖書新約聖書を分かつことになったキリスト・イエスが出現したという歴史によって明らかにされた つまりわたしはそう考えるということに原因する。
なぜなら エデン追放以後 あの復活に関係づけられた人びとによってというように たしかにその意味ですでに復活によって与えられた想像規範としての律法(法律)によって共同自治していた時代が 人びとは キリスト・イエスの出現以後 この律法に死ぬと言われる時代に進展するようになったから。マルクスの観想(テオリア)は この歴史に立脚している。
つまり キャピタリスム(ソシアリスムをふくむ)の世界史的な発展につれて ふたたび開かれた動態的な自給自足 つまり 社会的に有機的に人びとの生活はつながれて しかも わたしがわたしであるという新しいエデンの時代(表現として)が来るという観想である。
このような時代が 時として実現するというのは いまわたしが復活に関係づけられているのでなければ そう表現することもできなければ そう観想することもむつかしい。
》は これを待望したが 想像において描いたのである。
われわれは 矛盾構造の想像また理論という鏡をとおして この謎において 生きているということができる。
(つづく→2005-11-15 - caguirofie051115)