caguirofie

哲学いろいろ

アウグスティヌスから

・・・(2005-11-03 - caguirofie051103の引用箇所よりのつづき)それゆえ その人の心の中に隠されているものを詳しく吟味し探すことをしないで その人の心の奥で起こっている事柄とは違ったことを一般に推測すること以上に 余りにも人間的なことがあるであろうか。人間に特有なそうした暗い領域に対して つまり 他者の内的な思いに対して――わたしたちは人間であるので疑惑を解くことができないとしても――わたしたちは わたしたちの判断を すなわち 明確な確固としたわたしたちの判断を控えるべきなのである。わたしたちは 主が来たりたまい 暗い闇の中に隠されているものを明るみに照らし出してくださり 心の中の思いを明るみに出してくださる時まで控えるべきであり――その時おのおのは神からおほめにあずかることであろうが(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)4:5)――その時の来る前に先走ってわたしたちは決定を下すべきではないのである。それゆえ わたしたちが諸事に関して誤らず 悪徳を正しく退け徳を受け容れているなら たしかに人間として誤りがあるとしても 人間につきまとうことが常である誘惑は許されることなのである。
アウグスティヌス著作集 (第25巻) ヨハネによる福音書講解説教3第90説教(15章23節)二)

けれども わたしは 判断をしました。
たとえば《キリスト史観》(第一部)にて 吉本隆明について その霊を 悪魔呼ばわりしました。

わたしたちの戦いは、血肉(弱い人間)を相手にするものではなく、支配と権威の霊、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
(エペソ 6:12 )

と聞いていたからです。また次のようにも聞いていました。

人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、《霊》に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。

だれが主の思いを知り 主を教えるというのか。
イザヤ書40:13)

しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)2:11−16)

上のわたしが下した判断は 先走ったものではないと確信しつつ。――