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もくじ→はてな061223
第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成
第五十七章b もう一度 前史と後史ということ
――告白7・4・6――
ウェーバーの文章について考えます。
最後の一文 《神の力は巨大なもの 唯一神教的なもの にまで高められる》というのは ウェーバーの見方である。《ねたむ神》を そのまま実体であると思いなすことによって――つまり はじめに《やしろ資本推進力として 唯一のちからである》かれが あのアブラハムに始まる信仰が 共同主観されたとき ただいわば前史として 表現じょう そのように(《ねたむ神》というように)語り合われたにすぎないものであるのに―― ただ人間的な推論によって この共同主観が 人びとのあいだのおきてなのであり やがてそれは つまりヤハウェが 《巨大なもの 唯一神教的なもの にまで高められる》と見て説いたのである。
かれ(ウェーバー)は 前史としてのインタスサノヲイストの《ねたみ 憎しみ》さえ 感じなかった男だったのであろうか。自己が その精神主義的な徳の力によって 《巨大なもの 唯一神教的なものにまで高められた》と思い込んだのだろうか。《ありもしない無限に大きなもの》をもって神としたのではなかろうか。
- この制約条件を踏まえるなら 上の文章は 旧約の時代ということを つまり前史〔の神を――つまり むろん神が代わるのではなく 人間が変わるのであるが その人間が捉えていたところの前史の神を――〕 これをよく表現したものだと思われたので 掲げた。
あのヤボクの河を渡るとき あのヤコブ(イスラエル)が 夜通しその渡しのこちら側で ある人と組み打ちをし 腿のつがいをはずされつつも勝ったが かれが 《わたしは顔と顔を合わせて神を見たが なお生きている》(創世記32:30)と言ったとき
かれは 何を見たというのであろうか。
わざわざ 後で 《巨大なもの 唯一神教的なものにまで高められ》なければならない人間的な力であったのであろうか。しかし わたしたちは 旧約の時代 つまり大雑把にアブラハムからイエスまでの二千年の間の時代は 《イエスがまだ栄光を受けていなかった》前史だと見たのである。(これは わたしの妄推なので いま 前史と後史の問題をかんがえる上で資するのではないかという観点からのみ 省察をおこなっている。)
ヤコブは この《ねたむ神》と表現されるような力を そう表現されるようにして《見た》のである。だから かれは 信仰が愛をとおして愛による啓発として実践されるようにではなく――その実践は 十字架のあとの時代に保留された――
あなたたちも聞いているとおり
と命じられている。
(マタイによる福音5:38)
と言ってのように 《格闘》したのである。《組み打ち / ねたみ》の中に・またそれらの事をとおして観想として しかし同じ愛の力を すなわち神を 見たのである。
しかし わたしは言っておくが 悪人に手向かってはならない。もし だれかがあなたの右の頬を殴るなら 左の頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には 上着をも取らせなさい。だれかが 千歩行くように強要するなら いっしょに二千歩行きなさい。
求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に 背を向けてはならない。
(マタイ5:39−42)
と ヤコブの前史が その同じ愛(資本推進力)によって 転回せしめられたのです。もちろん《文字は殺し 霊は生かす》(コリント後書3:6)ですから イエスの語った文字に――いわば《恐れ》とともに――執着するのではなく 《霊》なるかれ自身に わたしたちは 固着しなければならない。やしろ資本推進力(真理)に属(つ)くと言う。
この共同主観が――たしかに歴史通史的でなくてはならないが―― 《唯一神教的なもの》であるかどうか そんな議論には わたしたちはなじまない。すでにわたしたちは スサノヲのミコトの八雲立つ出雲八重垣( Susanowoschaft )に この共同主観は 存在したと言っている。
また イエスは人間として小さなものであった。なるほど イエス自身 自分は《神の子》だということを否定しなかった(マルコ14:61−62)が つまりやしろ資本推進力を告知し みづからがそれであると言ったことになる(ヨハネ14:6)が これを《巨大なもの》と思いなして恐れたのは ユダヤ人アマテラス者(祭司・律法学者)たちであった。
弟子たちは 羊となってのように《かれの声を聞き分けて 一人の羊飼いに導かれ 一つの群れになり》(ヨハネ10:16) インタスサノヲイストおよびヤシロロジストとしての新しい生活をはじめた。もはや《ふたたび〈恐れ〉にみちびく奴隷の霊》を受けたのではなくなった。ねたみ 格闘 目には目をが 後史へと回転したのであった。けれども この前史と後史をつうじての本史=神が 同じ神であることをわたしたちは 知らなければならない。
さらに このようなマクロ的に見た歴史の前史と後史との回転は 一人ひとりの生涯においても あてはまることを知らなければいけない。弟子たちは かれの声を聞き分けて属いて行ったが かれらが聖霊を受けとる後史に立ったのは イエスの十字架上の死の後であった。弟子たちの《わたし》が 同じく――十字架上にのぼらしめられてのように――死なしめられ イエスによって イエスとともに 復活せしめられた。スサノヲが 八重垣コムミューヌを築いたのは アマテラス圏タカマノハラを完全に追放されたあとであった。(言うならば パンの道を断たれ 《愉快な〔かどうかは知らないが〕乞食》となったあとであった。)
ペテロたち弟子は 復活したイエスに会った(マルコ16:1−20)が 初め《婦人たちは 正気を失うほど震え上がって だれにも何も言わず 〈恐れ〉を持った》(マルコ16:8) のだが やがて その共同主観があらわれたように もはや ヤコブのように《格闘》することはなかった。この《巨大なもの》と言うならすでに初めに大きなものを《受け取れ》(ヨハネ20:22)と言われたのである。(それが《高められる》などということは 関係がない。)
《飲みまつる》のだから 一種の賭け(パスカル)なのであるが 《ユダヤ人は しるし(アマテラシテ)を求め ギリシャ人は知恵(アマテラス語理論・客観共同)を探します》(コリント前書1:22)と言われたのは かれらが 《恐れ》や《奴隷の霊》あるいは奴隷の自由 つまり 母(母斑)を愛する(執着する)がゆえでないなら なにゆえであろうか。
神が 〔八雲で〕かれらを覆っていたその手を除けたとき かれらはその背面を見てのように キリストの内なる秘蹟が 〔かれら一人ひとりの内面的に〕確立された。このスサノヲ者に――《ヤハウェはイスラエルを選びとくに愛するのは イスラエルの徳によるのではない》(《古代ユダヤ教》)―― キリストの外なる模範が 復活した。インタスサノヲイストが 外なる人の模範に属くのであり ヤシロロジストとしても内なる人の秘蹟を見たのであるが ヤシロロジストが 外なる人の模範にならう実践者であると語られることは より一層ふさわしい。
また これを制約する(あるいは 実現させる)やしろの諸条件(たとえば法治社会といった場)が 建て前としてであってもすでに確立されたゆえに(キリスト以後二千年) 建て前としてそうであるがゆえに その現代において インタスサノヲイスト共同主観者が ヤシロロジストとして自己を表現してゆくことができるし そのことは より一層ふさわしい。
《つまりヤハウェのみが天と地の神であり ほかには神がない(申命記4:39)。天と地とすべてのものはヤハウェにぞくし(10:14) ヤハウェのみが神であり ほかには神はない(4:35)》(《古代ユダヤ教》)というねたみの神が
愛はけっしてなくなりません。預言は廃れ 異言はやみ 知識は廃れます。
愛は忍耐強く 愛は親切です。ねたみません。愛は自慢せず また 高ぶりません。礼を失せず 自分の利益を求めず いらだたず 恨みを抱きません。不正を喜ばないで 真実を喜びます。すべてを忍び すべてを信じ すべてを望み すべてに耐えます。
(コリント前書13:8 / 4:7)
と 表現されて語られることは 今では
わたしたちは 《生ける神》の神殿なのです。
(コリント後書6:16)
から より一層ふさわしいと言われた。
したがって
祭りの終わりのいちばん大切な日に イエスは立ち上がって大声で言った。
――のどが渇いている人はだれでも わたしのところに来て飲みなさい。聖書に書いてあるとおり わたしを信じる人は その内部から生きた水が川となって流れ出るようになる。
イエスは 自分を信じる人びとが受ける聖霊について言ったのである。
(ヨハネによる福音7:37−39)
ということばは いまでは そのことの《イエスはまだ栄光を受けていなかったので 聖霊はまだ降っていなかったからである》(ヨハネ7:39)ということが この一節のことばを記す記者の視点と同じように 前史とみとめられたのである。
《不滅なものでなければならない》神が マルクスにおいて《内面化をともなう拡大》として受け取られたとき わたしたちはなおも意地悪く それが 〔自己の〕歴史を離れては ありえないと抗議したことになるでしょう。以上のべたことは そのような一解説としてである。ここでは 世界変革ではなく 世界の解釈として。
世界の解釈 つまり解釈するための新しい目 つまり新しい目を――身体の運動としても――与えられる後史へのアマアガリ これがなけれが 世界を変革することはできないと 抗議したことになります。
あなたたちは うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば その人は自分と同じく わたしたちも キリストのものであるということを もう一度かんがえてみるがいい。あなたたちを打ち倒すためではなく 向上させるために主がわたしたちに授けてくださった権威について わたしたちはいささか誇りすぎたとしても 恥をかきはしないでしょう。
わたしたちは手紙であなたたちを脅していると思われたくありません。というのは わたしのことを 《手紙では重々しく力強いが 実際に会ってみると弱々しい人で 話もつまらない》と言っている者たちがあるからです。そのような者は心得ておくがいい。離れていて手紙を書くわたしたちと その場に居合わせてふるまうわたしたちとは同じなのです。
(コリント後書10:7−11)
わたしたちも 個体の内外・あるいは会っている会っていないを問わず 同じであることが パウロのようにそうであるかを別としても そうであることに違いはないと強弁してのように インタスサノヲイスムが 歴史を離れては ありえないというのは 生活が主であり 理論は従だということ また
お前たちも知っているように 異邦人の間では支配者は民を支配し 偉い人たちが権力を揮っている。しかし お前たちの間では そうであってはならない。むしろ お前たちの中で偉くなりたい者は お前たちのしもべになりなさい。また いちばん上になりたい者は お前たちの奴隷になりなさい。
(マタイ20:25−27)
ということ この点を確認したかったからなのです。
(つづく→2007-04-04 - caguirofie070404)