caguirofie

哲学いろいろ

ルツの物語 #2

2006-12-18 - caguirofie061218よりのつづきです。)

§6 歴史を超えての復活ということ

「しあわせ」についてということですが わたしがこうしてお話しするのですから やはり 「復活」ということにかかわるのがよいと思います。

先ほども わたしたちの待ち望んだ人イエスの話しに この復活のことが触れられていました。

わたしは ほぼ千年 かれイエスを待っていたことになりますが こうしてお話できるのも 復活のおかげだと思います。さらにその二千年後にこうして日本のみなさんにお会いできるということなのですから。
わたしには まだ意味がよく取れないのですが 先ほどの言い伝えの中でのイエスのことばを まずひととおりここに掲げておきます。  

あなたたちは聖書も神の力も知らないから 思い違いをしている。復活の時には めとることも嫁ぐこともなく 天使のようになるのだ。死者の復活については 神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。

わたしはアブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神である」
出エジプト記 (1) (ヘブライ語聖書対訳シリーズ (3)))3:6)

とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく 生きている者の神なのだ。》
(『マタイによる福音書 (EKK新約聖書註解)』22:29−32)

人びとはこれを聞いて驚いたとも書かれています。

申し訳ないのですが わたしにはこの意味がよくわかりません。

たとえば女性は復活後なお女性であるかという問いでしたら アウグスティヌスという人が 「然り」と言って議論をしています。

しかし主は 男にかんして「嫁ぐことはない」と言ったのではないし 女にかんして「めとることはない」と言ったのでもないから 未来にも女が存在することを確信していたのである。
アウグスティヌス神の国〈5〉 (岩波文庫)』第22巻17章)

また

女にとってその性は欠陥ではなくて自然本性である。

とも言っています。かれは 主イエスの四百年ほどのちローマ帝国の時代に生きた人ですが のちにくわしくかれの思索を問い求めたいと思います。

§7 復活の 霊の身体とは

なにもわからないと言ってばかりではいけないので まなぶべき文章を掲げることはしていきたいと思います。

エスの死後ほどなく それこそ復活したイエス使徒となったパウロのことばです。

蒔かれる時は朽ちるものでも 朽ちないものに復活し 蒔かれる時はいやしいものでも 輝かしいものに復活・・・するのです。つまり 自然の命の体が蒔かれて 霊の体が復活するのです。
パウロコリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)』15:42−44)

「自然の命の体」とは まだ動物( animal )と同じような魂( anima )の存在だと思います。肉の存在です。(アニメは この言葉から来ていますね。)これを承けてまだ紹介の遅れているアウグスティヌスですが こう言っています。

けれどもその肉が復活して 「魂的な身体で蒔かれ 霊的な身体によみがえる」との言葉が成就するとき 身体においてもまた霊的となるであろう。

とまずおさえて

わたしたちはしかし その霊的身体の恩恵がどのようなものであり どれほど偉大であるかをまだ経験していないので それについて語る言葉がみな軽率になりはしないかと恐れている。

わたくしも この恐れに従っているのですが そうは言ってもアウグスティヌスも やはり次のように思い返して 自らの観想を多くの場所で述べてもいます。

だがそうであっても 神をたたえるためには わたしたちは希望の喜びのゆえに沈黙してはならないであろう。》
(以上 『神の国〈5〉 (岩波文庫)』22・21)

§8 むしろ 永遠とは

こう言ってはなんですけど わたくしルツは すでに復活しているとも言えるのですが まだ皆さんと一緒にいて存在するというかたちではないと思うのです。そのわたしの思いは やはり初めにお話しした信仰ということが いまでも おおきな位置を占めています。

たとえば 復活のあとの霊的身体というのは――わたしの考えですが―― 肉や魂の現在の精神=身体のあと 将来すべき希望において うっすらと感じていることがらではないかと思うのです。つまり いまはわからないという意味です。つまり そのわからないものを 霊ということばで表わしていると思うのです。

つまりは いまは 「なんでもないこと」という日常生活として生きていると思っています。これについては 先ほどのパウロ

たしかに わたしたちは見るところによって歩いているのではなく 信仰によって生きている。
(『コリント人への第二の手紙』5:7)

と言ってくれています。

ですから ここでわたしが皆さんに是非ともお伝えしたかったことは 上のような意味で 次の文章のなかのたとえば「永遠のもの」のことだったのです。長い引用になりますが ひとまとまりとして 読みたいと思います。

たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。

時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。永遠だけが真実の確かな住処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。

ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。

アウグスティヌスキリスト教のおしえ』1・38)

このアウグスティヌスパウロや そのほかわたしの先生でもある仲間の人たちについて このあとお話ししてみたいと思います。
(つづく→2006-12-20 - caguirofie061220)