caguirofie

哲学いろいろ

#14

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§25 カトリック作家の説く愛

第四話を――第三話の不備を意識しつつ――つづけます。
長い引用から始めます。

《自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ》(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))13:9)という有名な言葉についてもうすこしふれたいと思う。じつを言うと 長い間私はこの言葉を正しく理解してはいなかったのである。このパウロの言葉は パウロの国家観をのべた部分の後に出てくる。すなわち パウロにとって 一人の人間の生存を保証するためには 国家というもの

  • つまりわたしたちにとっては 《律法による共同自治という社会形態》のことですが・・・引用者註

は必要欠くべからざるものだということが はっきりとわかっている。

  • それがじつは 強き人びとの慣習なる安全の道が この世に築かれているというほどの意であり それ以上のものではなかったわけですが。だから

遠い将来はわからないが 今日までのところ 国家という単位を使ってこそ 人間は弱者を守り 共通の物質的恩恵を受けることができる。・・・
・・・そこで 自然に 国家を支えるため よき市民としてのキリスト教徒のあり方が要求されるのである。

  • もちろん精確には 国家を使って共同自治する人びとの生活をつづけていくためということである。要するにここでは あの仕事の具体的なあり方が 問われようとしている。

しかし 幼い私には国家というものはやはり観念であった。

  • 国家じたいは それでいいわけですが。

その当時の私は 北海道も四国も九州も行ったことがなかった。その彼方にいる 同じ日本人ではあっても見たこともない人を愛するということは 私の素朴な心理では無理であった。

  • わたしたちにとっては 心理で愛するのではなかった。この自明のことは 批判点としてではなく 備忘録として。

私は聖書のこの部分を《近き人から愛する》というふうに解釈したのである。
キリスト教は 根源的に運命を信じる。

  • 何を《根源的》というかが問題なのでしょう。字面でいえば 運命を信じるなどということはありえません。

人為で人生を百%思いのままにすることは どう考えても できないという現実を直視すれば 自然 そうなるのである。

  • 思いのままにすることが 現実または仕事であるとは 思われませんが。また思うように生きることができないゆえ 運命を信じるという結果に必ずなるとも考えられません。

しかしキリスト教の運命観は なげやりなものではない。神の意志を探るために

  • 探ってどうこうなるというものでもなかったわけですが。

努力する。それが見えたと思った時にもそれに力をそえるべく努力する。

  • これは 仕事の専従者を 制度的にではなく 個人の生活そのものとして なお予定していると思われる見解です。

しかしその結果は決して人間だけのものではないのである。

  • というのは 人があの復活に関係づけられていることを 予表しています。

私たちは この世で それぞれに与えられた立場を持っているのだった。ある人は軍人の家に生まれ ある人は音楽家になるべく育てられた。ある女は結婚し ある女は子供を生んだ。もしこれらの人々が 一せいに 近き人から愛することをすれば それは自然に 全体にひろまるのである。

  • 愛するということが そんなにかんたんにできるものなら それに越したことはないですが。

それは 物理的にも行動の範囲が限られ イマジネーションにも貧しい 私を含めたごく普通の人間の生き方を 正確に甘くなく律したものであった。

  • この総論にはとくべつ議論をひろげません。具体的な議論は 次からです。

戦前 私の近くに 一人のかわいい女がいた。その人はある日 妻子のある世帯もちの男とかけ落ちした。その男も 妻子を捨ててこの女と生活を始めたところを見ると 二人はよほど愛しあっていたのだろう。

  • 愛には《四つの顔》があるとこの筆者じしんが言っているのですが このいまの愛は われわれの仕事としての愛にあまり関係ない。もっとも筆者も この点を以後 論じていく。

男の家には二人の娘が残されたことになった。これだけなら 私はこの二人を決して悪くは思わなかったと思う。

  • わたしは悪く思いますが。また 筆者じしん そのことを論じていく。

前にも書いたが 一組の夫婦が別れる背後にある本当の事情などというものは 実は誰にもわかりはしないのである。

  • この前提なら 論じる必要はない。この前提に立っても論じるのは 愛の問題です。要するにここから 本論に入ります。

しかし 数年経つと 女の方は その後 孤児院と呼ばれていた子供たちの施設にせっせと物心両面において尽くしていることがわかった。しかも彼女はそれを《私 この頃孤児院をおたすけしていますの》というふうに私にまで吹聴した。
私は その時 改めてこの女性をインチキな人間だと思ったことを告白しなければならない。

  • 要するに 虚偽のウソがあったというのです。《インチキ》と見た判断は そういう意味になるのでしょう。

もし孤児院の子供に憐れみをかけるなら なぜこの女(ひと)は 他人の子供から父親をとり上げるようなことをしたのか。
遠い他人のために尽くすことなど大したことではないのである。大切なのはまず 自分の立っている周囲の地点から始めることであろう。自分の愛する男の娘たちから父親をとり上げないために なぜ自分を犠牲にできなかったのだろう。それは人間が一生をかけても意味のある選択ではないか。それは十分に勇気のある戦いでもある。
二人の子供たちから親をとり上げておいて 孤児院への手助けも何もないのである。確かに孤児院への援助は 周囲の人々の賞讃を得るかもしれない。反対に 自分が恋人の子供たちのために恋を捨てたからと言って それは誰からも 《偉い》と言われはしないのだ。

  • ほんとうは この後者が《〈偉い〉と言われない》ことと 前者の《孤児院への援助が人びとの賞讃を得る》こととは 両方とも どうでもよい経験的なことがらに属しているという意味にとるべきでしょう。

私はこの女性の行為に対しては闘争的であった。私はまだ若かったから このことの虚偽性に耐えられなかった。私のまわりには 《相手に 子供を捨てさせたんだから その罪ほろぼしにしているのかもしれないじゃないの》と言ってくれる人もあったが 私は《それなら もっとめだたないようにやればいいんです》と譲らなかった。
なぜなら私たちのすぐ近くには まだまだ手のとどかぬ人々の愛から忘れ去られている人がいるのである。

  • このように言うことは 何も語っていない。筆者の真意も そのようでもある。つまり――

・・・それらをほったらかして今(1975年)なら何が《ベトナムを救え》であり 《ビアフラの援助》であろう。

  • つまり 不幸な人々に手を差し伸べればよいという問題でないという問題です。確認のため。

口先だけでなら 私たちはいかなる遠い所のかわいそうな人々をも たちどころに深く悼むことができる

  • わたしたちはこれを どうでもよい世界に属していると言ったのですが。次の人間の愛も同じなのだと。

しかし愛というものは 自分が傷ついて実行することなのである。実行しない愛は虚栄である。わずかのお金ぐらい出して愛を示したと思うのも大甘である。

  • どうでもよい世界に属すことがらとして それゆえに 《わづかのお金を差し出す》ことは 逆に愛なのですが。

遠いところにいる見たこともない人を《愛する》ことの虚偽性と迂遠さを 神は何と明確に見通してたことだろう。私たちが百万人を 民衆を 人類を愛するというのも不可能なことなのである。

  • 虚偽がなければ 可能だとわたしたちは言ったのですが。

私たちは身近な一人さえも完全には愛し切れていない。

  • これは 人間の経験的な愛にかんするイロハのイです。

民衆を愛そうなどと大それたことを思う代わりに 一人を それも近くにいる人を徹底して深く愛することである それが限りある身の慎しみというものである。
曽野綾子:なにもしないことの勇気)

引用はほぼこの一編の全文である。引用文の中に註解をほどこしたことを除けば 中で《愛というものは 自分が傷ついて実行することなのである》という命題について さらに考えてみたいと思う。それは 次章につなぎますが この主張は 筆者・曽野綾子が 遠藤と同じくカトリック作家であることよりと言うべきか 言う必要はないか また 言うべきではないかを別として 要するに 想像において愛することから踏み出そうと言っているようだということが焦点となるでしょう。
そのような動きに対して なおどんなことが言われるべきか これをとり上げたいと考えました。次章です。

§26 《人を愛させよ》

前章に掲げた曽野綾子の愛についての・その虚偽についての議論を批評します。
初めに結論づけるとするなら この曽野さんもいまだ大きくは 想像においてあの信仰者の仕事の持続を思っていると捉えます。次の点にかんしてです。
なぜなら 《一人を それも近くにいる人を 徹底して深く愛することである それが限りある(=どうでもよい世界に属する)身の慎みというものである》と 記憶し知解し これを意志して このように表現するわたしがまず存在すると捉えます。このわたしを 差し置いて たとえば妻子ある男性と駆け落ちした女の行為を 批評している つまり その意味で 欠陥を憎み人を愛している。どういうことか。
わたしは ここで 必ずしも 想像倫理に連れ去られていってはいない。つまり安全の道がどうこうという問題ではなく 《あなたの隣り人を愛》そうとしている。しかしながら これを わたしを差し置いて行なおうということである。しかるがゆえに 《自分が傷ついて 自分を犠牲にして》という表現が現われてくる。
前章冒頭のパウロの言葉は 《自分を愛するのと同じように〔あなたの隣り人を愛せ〕》とおしえていたはずである。この《自分》とは 《〔他人が〕なぜ自分を犠牲にできなかったのだろう》と想像をおこなっている自分です。そして このように想像をとおして わたしがわたしである自分は 自分を傷つけるために 犠牲になるために 自分を愛するのではないでしょう。駆け落ちした女についても 同じです。
わたしがわたしである人は まず 自分自身を愛する。そして 何の危険もなく自分と同じように 他者を愛する。
このわたしが《わずかのお金を差し出す》ことが どうして 愛ではないのでしょう。それによって《愛を示したと思うのは 大甘である》かも知れない。しかしもし そうではなく《大辛》の愛は 《なにもしないことの勇気》にあるとするなら 《大甘の愛》に対して 自分を愛し 自分にも或いは潜むかに思われるその《大甘であるということの》虚偽のあたかも連帯責任性を突き止め これを内に棄てることから始めるというのは 道理です。
言わば孤児院への援助の実践をひけらかして人は 筆者の曽野さんにそのことを わざわざおもんぱかって 問うたのではないでしょうか。これは 愛です。愛にはたらかされた愛です。もっとも この女が妻子ある男を愛したというその愛は 愛ではないことは既に触れました。
けれども 女の男への愛が愛ではないということの根拠は そのとき自分を犠牲にできなかったからだというのは ウソです。それは 大甘の見方です。それは 男とそのはじめの妻の愛が問題です。このときには その事情を知らなければ またたとい事情を知っても わたしたちの経験的な愛が入り込む余地はないかも知れないし この入り込むことが出来ないというそのことによって 関係しているというものであるかも知れない。
問題は なぜ 自分を犠牲にする献身的な(身を 想像において・想像に閉じこもって 引くことによって献身するような)愛は 愛ではないかという点に移ります。つまりわたしはここで そう考えて議論をつづっているのですが とは言っても わづかのお金を差し出すことは 犠牲がともなうわけですから それも愛だと言ったのですから 一概には言い切れないのですが 《自分を犠牲にすることこそ》という場合には われわれは反対しなければならないと考えます。
なぜなら この言葉も じつは 上の想像に属しており またこの想像において じっさい 愛の行為・仕事がつづくと見ている結果であるからにほかならない。わたしたちの結論は わたしがわたしである自分の冪(連乗積)をつくるべきだと言いました(§2)。これです。これが 献身的な――復活に関係づけられる――人間の愛だと捉えます。
復活――つまり虚偽の全き欠如であり その意味で遍在性を表わしうる――に関係づけられているなら 《近くの人も遠くの人》も関係ないわけです。具体的にどうすべきか それは 近くの人にせよ遠くの人にせよ その相手によって また各地の慣習や情況によって それぞれ異なってくるでしょう。ですが 一つのことは言えます。《人を愛させよ》 これです。
わたしたちは 復活そのものを指し示すことは出来ません。また 目の前にいるにせよ遠く離れているにせよ その相手が 復活そのものを見うるという保証は 人間の力でこれを作ることは不可能である。ところが 記憶し知解し意志する三行為能力の一体性としてのわたしを 見ることは出来 また愛することは出来る。わたしが そのわたしを愛していることが 現実であるというように。
わたしが復活に関係づけられているなら――《私の中の聖書》というのなら―― このことを人間的にも欲しそれに走り また祈ることが出来る。祈るというのは その行為じたいを強調するためではなく 《限りある身の慎み》を自覚するためです。誰も人間が 復活そのものではないのですから。
《遠いところにいる見たことのない人であろうと 目の前に見ている人であろうと 人を〈愛する〉ことの虚偽性と迂遠さを 神は――というなら 神は――何と明確に見通したことだろう》は ここで聞かれるべきであって 《ビアフラの飢餓民への援助》の愛に対してではなく もしこれに対して言ったのだとすると それは ただ想像において愛の仕事を想像しているにすぎない。
《私たちが百万人を 民衆を 人類を愛するというのは――想像において復活に関係づけられていると想像することによっては――不可能なことなのである》。つまり 錯覚であり 錯覚の強要となる。
だれが 小さきものへの愛を 愛でないと つまり大甘であると言うのだろう。それは じっさい いま在る安全の道を保たんがため 保たんがために想像せんがため つまり 国家――これは 兎の道たる敬語関係から成り立っている――を支えんがためでないなら 何故であろう。
これは 現代におけるカトリック作家の問題の問題であると捉えます。わたしは 遠藤さんや曽野さんを 徹底して愛したわけです。それでも どうでもよい世界における経験的な行為には 虚偽があるわけです。けれども このような このような自由な討論が とうといものであり これを保証することに努めたのは はじめは読者(平民)であり いまは作者(地位ある人)となった愛される側の人びとであったというのは これまでの歴史的な事実でしょう。そのわたしを愛するように あなたの隣り人を愛せよと言われたのでないなら カトリック作家は やはりインチキであったと言われるということには おそらく虚偽はないでしょう。いや それでも 虚偽はあるわけです。
《口先だけでなら たちどころに深く悼むことができる》というのは 真実であるから。しかも 《なにもしないことの勇気》が 自己を犠牲にしない・かつ献身的な愛であると言って わたしたちは それぞれわたしするのです。
わたしは この文章の作者としてのわたしは これによって制約され ことばとして言えば迫害も受けるでしょうが わたしの読者はこれによって強い つまり弱いわたしがわたしであることによって強い。わたしの受ける迫害は 自己の犠牲であるかも知れない。そしてその限りで 愛ではないかも知れない。じっさい そうであって そのものではないでしょう。ただ 経験的に言っても このわたしは みな百年内外で その肉は朽ちるのです。そして そういうわたしというのは 人間みなに共通です。《Aの女とBの女》といった分け隔てはない。そこには 異邦人は存在しえない。
このわたしを だれかは 全能であると言うかも知れない。わたしは復活ではないと言っているのに。つまり かれらは 想像においてそのように想像するのです。安全の道が好きですから。つまり かれら自身 安全の道に従う兎であるからよりも この善意の市民たちを従えることに従わされているからではないでしょうか。
わたしは 安全の道に死んだのであるから 兎にとって鷹やイタチであるかも知れない。もしそういうときには かれらは この安全の道に対して例外的な猟師であると宣言しよう。心の 想像倫理において 心を捕らえる猟師であると。じっさい われわれは そういう獲物であることに甘んじていたし かれらは そのことに意を強くしたのです。
《民衆を愛そうなどと大それたことを思う代わりに 一人を それも近くにいる人を徹底して深く愛することである》と言って じつは《民衆を愛せよ》と説いているのに 時に安全の道が脅かされたと感じると 《〈それなら もっとめだたないようにやればいいんです〉と譲らない》。
わたしたちの言うのは 《人を愛させよ》 これです。じつに 信仰とは 想像において信じられるものではなく 信じさせるものなのです。《なぜこの女(ひと)は――想像規範を説き この顔覆いをかけて 人びとの目をくらませることによって――他人の子供(人びと)から父親(復活)をとり上げるようなことをしたのか》。《戦前 私〔たち〕の近くに 〔このような〕一人のかわいい女がいた》のです。《その人はある日 妻子のある世帯もちの男(国家)とかけ落ちした》のです。《その男も――昔は 邪宗門と言って禁教し 切支丹を迫害していたのですが―― 妻子(ブッディスム)を棄ててこの女と生活を始めたところを見ると(カトリック作家の隆盛――それは 内村鑑三の問題だとわたしは見ている――) 二人はよほど愛しあっていたのだろう》。うんぬん。
つまり これが 東洋と西洋との出会いであり キリシタンの教えが根付かなかったこととキリシタンの仕事がたしかにつづくということとの 内容です。
もっと言えば 《しかも彼女は 〈私 この頃孤児院をお助けしてますの〉というふうに吹聴しだした》うんぬん。福祉国家というのが それです。キリスト教徒でなくとも マルクスの流れを汲むと自称する日本社会党なども 同じく《彼女たちの駆け落ち》の跡を襲っているのです。

  • ちなみに 戦前の日本人キリスト教徒であった内村鑑三は 離婚すること(内村事件=不敬事件)によって この駆け落ちの証人となったのです。つまりキリスト教がシントウと融合したと言いたいのですが。

これが カトリック作家の問題の問題であり いま勇みこんで言うとすると 当分 国家という社会形態はつづくでしょうから いわばその夕となり夜となる前の《悪霊の午後》の時間であり また 国家の監視役を自認する《侍》たちの時間なのです。われわれは ここではじめて すべからく善意の市民でなければ 《自分を愛するように隣り人を愛する》 いや 《人を愛させよ》でなければ ならないのです。
(つづく→2005-11-17 - caguirofie051117)