caguirofie

哲学いろいろ

#10

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§10b

アブラムの九十九歳の時 主はアブラムに現われて言った。

わたしは全能の神である。
あなたはわたしの前に歩み 全き者であれ。
わたしはあなたと契約を結び
大いにあなたの子孫を増やすであろう。

アブラムは ひれ伏した。神はまた彼に言われた。

わたしはあなたと契約を結ぶ。
あなたは多くの国民の父となるであろう。
あなたの名は もはやアブラムとは言われず
あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。
わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。
・・・

神はまたアブラムに言われた。

あなたの妻サライは もはや名をサライとはいわず 名をサラと言いなさい。わたしは彼女を祝福し また彼女によって あなたにひとりの男の子を授けよう。・・・
旧約聖書 創世記 (岩波文庫)17:1−16)

ここで アブラハムは基本主観には その先行する精神じたいにさらに先行する何ものかのちからが やどったと表現してもよく そのこころは かれの主観基本が 人びとに普遍的な共同主観であることが いよいよ確立された(聖となった)ことである。

  • 最終的には 人間にとっては 確信の問題である。

当然このアブラハムの系譜につらなることを志したルターは ウェーバーの見るところによると――議論の途中からだが――

修道院の生活は神に義とされるために全然無価値であるのみではなく それは現世の義務から逃れようとする利己的な冷酷の産物であるとルターは考えた。それどころか 逆に 世俗の職業義務こそ隣人愛の外的な現われであると彼は考えたのであるが その基礎づけたるやおそろしく迂遠なもので 有名なアダム・スミスの命題に比して奇怪なほどの相反を示しており とくに分業は各人を強制して他人のために労働させるということが指摘されているのである。しかしこの 見られるとおり本質上スコラ的な基礎づけはやがてまた消失した。そして どんな環境にあっても世俗内的義務の遂行こそが神に喜ばれる唯一の道であり これが そしてこれのみが神の意志であって したがって正当な職業はすべて神の前にまったくひとしい価値をもつ ということのみがその後 指摘されつづけたばかりでなく ますます強調されていったのである。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)§1・3 p.112)

この一連の議論の中で 第一に《ルターが 旧いカトリック修道院生活での信条に反を唱えていた》ことは 後行する経験領域で 起こることであり 相対的であり 修道院に留まろうとそこを出ようと その意味で 自由である。第二に 同じこの《経験領域で 職業に貴賎がないと主張した》こと これは 理論的には もともと あったものである。ルターの登場を 過小評価したくないけれど 考え方から行けば 必ずしも新しいものではない。また そういう形で後世からでも同感をあたえてこそ 主張していくべきだと われわれは考える。
第三に ウェーバーは ルターとスミスとの比較をおこなっている。軽く触れているだけだが ウェーバーが ここで スミスの命題として例示するのは 次のスミスの文章である。

吾々が吾々の食事を得ることができるのは 屠殺者 醸造者又はパン製造業者の恩恵によるのではない。そうではなくして 彼等自身の利益に対する彼等の尊重のお蔭である。吾々は彼等の人道主義に訴えるのではない 彼等の利己心に訴えるのだ。そして彼等に対しては吾々自身の必要を語るのではなくして彼等自身の利益を語るのである。(国富論 1 (岩波文庫 白105-1)1・2) 
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫) §1・3 p.115)

これに対比させて 初期のルターでは 《分業(――または単位的に 二角関係協働――)は各人を強制して〈他人の〉ために労働させるということが指摘されているのである》と。スミスは 《各自の利己心に訴える》と言い ルターはそのことが《他人のために 強制されておこなわれる》と言ったかたちである。ところが このルターの《本質上スコラ的な基礎づけ》は 必ずしも《迂遠なもので》もなく また《観念的なもの》でもないと言わなければならない。なぜなら われわれは それでよいと言うためではなく これらの議論は まだ というか そのまま すべてが 後行する経験領域での出来事にかんするものだからである。おそらく 《利己心への礼賛》に見えるようなスミスの議論については これも同じく そうなのであって 言うところは それら利己心の活動に先行するところの各自の基本主観 における互いの連帯のようなもの これを たとえ無力なかたちででも 大前提としていること によって その有効性が裏打ちされるであろうから。強引にでも えこひいきしてでも スミスは こうまで言っていても あのアブラハムの道に立っている。
おそらく じつは スコラ的な観念操作的な説明づけをおこなっていても そのルターも この限りで この同じ一つの道を見ている その方向にある。説明づけは観念的だが その同感理論の示す方向は 現実的である。基本主観が人びとに共同の主観自由であること すなわち アブラハムの系譜に 立とうとしたのである。かんたんに言えば 《他人のために》と《自己の・もしくは利己のために》との二つの説明づけは 後行領域の問題であって 相対的であり もし互いに両極であるならば ほぼ同じ一つの経験的な同感理論でさえあると 言わなければならない。それは どちらも 《義務が まだ 観念(観念的な至上命令)として 見なされていない》ことを物語る。
この地点から さらに進んで――われわれは むさぼりを開始して と言うが――ウェーバーが言うように 《どんな環境にあっても世俗内的義務の遂行こそが神に喜ばれる唯一の道であり これが そしてこれのみが神の意志であ》ると説教するのは 後行領域の《義務》が 観念化したものである。観念的な先行精神がかかげられ さらにこれが人びとの共同主観であると 《新しく》説かれたことになる。《義務の遂行》は 後行領域のものだが 後行と先行とは同時一体であるから 先行する精神の 具体内容たる 一つの理念をかたることは出来る。しかも 理念が 基本主観の動態そのものではない。基本主観が 自己同感し自己展開していくのではなく 他の場所(後行領域)から捉えられ念観され その一つの理念が観念的に 最高の道徳的な要請をもつところの先行精神(《わたし》)そのものと見なされたことを意味する。これは むさぼりである。搾取である。しかも どこまでが むさぼりでなく どこからがむさぼりであるか その境界は われわれに容易には(あるいは 最終的な条件において) 決めかねる。重商主義の精神は ここに つけこんだ。
ある時 《それは昼の暑いころで アブラハムは天幕の入り口にすわっていたが マムレのテレビンの木のかたわらでそのアブラハムに主は 現われたまうた》(旧約聖書 創世記 (岩波文庫)18:1)。義務といえば義務 すなわちアブラハムのおこなった義の務め これを読んでみたまえ。

目をあげて見ると 三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て 天幕の入り口から走って行って彼らを迎え 地に身をかがめて言った。
――わが主よ もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら どうぞしもべを通り過ごさないでください。水をすこしとってこさせますから あなたがたは足を洗って この木の下でお休みください。わたしは一口のパンを取ってきます。元気をつけて それからお出かけください。せっかくしもべの所においでになったのですから。
彼らは言った。
――お言葉どおりにしてください。
そこでアブラハムは急いで天幕に入り サラの所に行って言った。
――急いで細かい麦粉三セヤをとり こねてパンを造りなさい。
アブラハムは牛の群れに走って行き 柔らかな良い子牛を取って若者に渡したので 急いで調理した。そしてアブラハムは凝乳と牛乳および子牛の調理したものを取って 彼らの前に供え 木の下で彼らのかたわらに立って給仕し 彼らは食事した。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫)18:2−8)

このことを 後行する経験行為の領域に範をとって スミスは 《利己心に訴える》として説明したし ルターは 《他人のために》という基礎づけで 理論しようとした。われわれは 義務とかその遂行を 否定するものではないが そして アブラハムがこうしたからそれはわれわれの義務であり《神に喜ばれる唯一の道 それこそが神の意志》であるという規範を 立てないし 持たない。アブラハムにとってかれの基本主観のよろこびが 共同主観であって なんの無理もなく かつ かれの自由意志によって それに従ったのである。そこに 義務とか義務の遂行が 排除されているのでもなかった。スミスによれば 近代市民の社会では このことを《乞食ですら》承知しているというのである。
《乞食》といった怠惰の精神では いけないことはそうだからと言って どうして 《義務の遂行こそが 各自の基本主観のよろこぶところである》などと すり替えられていくのであろうか。ウェーバーは 自分がすり替えたのではない だから 自分はただ そのようなすり替えの理論が 心理的な起動力を持った歴史事実もありますよと言いたかっただけだと弁明するとしたなら スミスに・そしてわれわれに 媚びを売っているにすぎない。自分の研究成果は 反面教師を明らかにすることができると 考えたのであろうか。だとしても かれは この反面教師たちさえをも むさぼった つまり自分の学問樹立のために搾取した。あるいは あとから ウェーバー学徒たちが この二流のノンフィクション・ストーリの作者から 搾り取って 自己の学問の方法とした。
基本主観のよろこび(意志の目的と休息) あるいはそこにおける人間の同感行為(そこで あやまちが ないのではない)についても 聖書は つづいて語った。

彼らはアブラハムに言った。
――あなたの妻サラはどこにおられますか。
彼は言った。
――天幕の中です。
そのひとりが言った。
――来年の春 わたしは必ずあなたの所に帰ってきましょう。その時あなたの妻サラには男の子が生まれているでしょう。
サラはうしろの方の天幕の入り口で聞いていた。さてアブラハムとサラとは年がすすみ 老人となっており サラは女の月のものが すでに止まっていた。それでサラは心の中で笑って言った。
――わたしは衰え 主人もまた老人であるのに わたしに楽しみなどありえようか。
主はアブラハムに言われた。
――なぜサラは わたしは老人であるのに どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。主にとって 不可能なことがありましょうか。来年の春 定めの時に わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生まれているでしょう。
サラは恐れたので これを打ち消して言った。
――わたしは笑いません。
主は言われた。
――いや あなたは笑いました。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫) 18:9−15)

先行する精神は なぞであるから ここでは そのなぞを一層 濃くしないようにと 後行する経験領域の具体的なことがらで 語られている。これが しかも 先行する基本主観のよろこび――無力にされていても 自由で有効で共同であること――を 語ったものでないとしたら そのほかの何であろうか。そこから 義務は 何の無理もなく 人びとによって 果たされるであろう。単位的に二角関係の協働が 共同主観どうしの社会的な展開となって 歴史されていくことであろう。ここに 観念の作用は ない。もしくは あったら それは われわれにとって 対岸の火事である。
経験科学は 利己心とか利潤(二角関係協働の第三角価値 という信用差額)とか あるいは 勤勉関係の経済価値量の社会的な総体とかを 語る。経験的・具体的なことがらで 議論をする だけである。少なくともスミスあるいはマルクスにとって。このアブラハムの系譜を逸れようとする あるいはそれをむさぼろうとする観念的な経験科学ないし宗教社会学は そのむさぼりのガリ勉の精神を 精神として立てた。ひとまず むさぼりの精神をも むさぼろうとして それを立てた。経験的なことがら(たとえば利潤)にただ付き従うような 同感(あるいは 異感)の理論家では それは ないが あたかも このただ経験的な異感の精神(いわゆる個人主義の精神)の 経済的に達成したものをも含めて 人びとの二角関係協働(学問を含めよ)の成果から その文化的な歴史事実を取り出して来て 自己の城を築き上げるための材料とする。スミスやマルクスから 搾り取っている。
すなわち ウェーバーは こうして取り上げてきたルターを こんどは 例によって けなして あるいは少なくとも もう用はないとして お払い箱に入れ 自己の《思想》の城の構築へと さらに進む。

こうしたルッターの職業思想は既にドイツ神秘家たちによってひろく準備されていた。わけてもタウラーは僧侶の聖域と世俗の職業とを原理上 同価値のものとしたし またエクスタシス的黙想のうちに霊魂(基本主観)が神の聖霊を受容することをば至上と考えたため 伝来の形式による禁欲的業績にはさほど価値を認めなかったのである。そればかりか ルッター派は或る意味で神秘家たちに比して退歩しているとさえ云える。というのは ルッターにあっては――ルッター派教会ではなおさらのこと――合理的職業倫理の心理的基礎は 神秘家たちの場合(この点についての彼らの見解は敬虔派及びクエイカーの信仰の心理を想起せしめるところが多い)に比して一層 不確実なものとなっている点である。しかもその原因たるや のちに示すように ルッターが禁欲的自己訓練〔――《自己訓練》は 基本主観の同感行為にかかわる。しかし わざわざ《禁欲的》であることによって それが持つところの性格。つまり 遠くのちの資本主義の精神――〕の傾向を行為主義として危険視し そういった自己訓練はルッター派教会ではますます背景に退かねばならなかったからである。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫) §1・3 pp.127−128)

そうして 次には ルターはではなく《カルヴィニスムとプロテスタント諸教派とが 資本主義発達史の上に顕著な役割を演じた》(§1・3p.131)という研究課題に ウェーバーは 移っていく。
ウェーバーがこのように用いる材料――歴史の行為事実――そのものの点では おそらく 経験科学的な落ち度は ないであろうと わたしたちは見なければならないのである。そして スミスの近代市民の社会を もし単純に 資本主義と表現するならば その資本主義の精神は むしろ逆に こうしてウェーバーが退けたルターのものであったろうと われわれは 考えることになるはずである。
ウェーバーは この場合 超資本主義のほうに焦点をあて それを主役としたが それでも それら一切のことも承知していると言うかも知れない。
(つづく→2005-10-04 - caguirofie051004)