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哲学いろいろ

#102

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第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十八章 同じことを アマアガリとして

――§13――


エスは答えた。

・・・君たちの父アブラハムは(――ちなみに 表現じょうの仮りの例として 負の内容としてだが 雄略オホハツセワカタケのスメラミコトは――) 《わたしの日》を見るのを楽しみにしていた。そして それを見て 喜んだのである。

はっきり言っておきたい。アブラハムが生まれる前から わたしは《主》である。

ヨハネによる福音8:56 / 58)

アブラハムに生起した信仰 その霊的な共同主観は やしろ資本推進力なる霊・愛であったという基本内容の確認である。雄略ワカタケのばあいは 葛城山でヒトコトヌシの神に 実際に出会ったという事件があり 歴史通史的な視点としてかかわっているようだということの確認である。

  • 人間とそのやしろがいとなまれていれば やしろ資本推進力は 愛として 歴史をつうじて はたらいているという想定のことである。多分に 表現の問題ではある。

とはいうもの ここで 時代がすでにイエスの出現以後であるという喰い違いがあるにもかかわらず 表現じょう アブラハムを オホハツセワカタケのスメラミコト(雄略天皇)にあてはめてみたのは――むろん 同一人物だという意味ではないし 似かよった人物像だということでもないのだが―― 次のような共同主観の原型ないし類型が 知られているからである。

また一時(あるとき) 〔雄略〕天皇 葛城山に登り幸(い)でましし時 百(もも)の官(つかさ)の人等(たち) 悉(ことごと)に紅(あか)き紐 著(つ)けし青摺(ず)りの衣服(きもの)を給はりき。
その時その向へる山の尾より 山の上に登る人ありき。既に天皇の鹵簿(みゆきのつら:行列)に等しく またその装束(よそひ)の状(さま) また人衆(ひとかず) 相い似て傾らざりき(同じであった)。
ここに天皇 望(みさ)けまして向かはしめて曰(の)りたまひしく
――この倭(やまと)の国に 吾(あ)れを除(お)きてまた王(きみ)は無きを 今誰しの人ぞかくて行く。
とのりたまへば すなはち答へて曰(まを)す状(さま)もまた天皇の命(みこと)の如くなりき。ここに天皇大(いた)く忿(いか)りて矢刺したまひ 百の官の人等 悉に矢刺しき。
ここにその人等(ども)もまた皆 悉に矢刺しき。故 天皇また問ひて曰(の)りたまひしく
――然(しか)らば その名を告(の)れ。ここに各(おのおの) 名を告りて矢弾(はな)たむ。
とのりたまひき。ここに答へて曰(まを)しけらく
――吾れ先に問はえき(問われた)。故 吾れ先に名告りをせむ。吾(あ)は悪事(まがごと)も一言(ひとこと) 善事(よごと)も一言 言離(ことさか:言い放つ)の神 葛城のヒトコトヌシ(一言主)の大神ぞ。
とまをしき。天皇ここに惶畏(かしこ)みて曰(まを)したまひしく
――恐(かしこ)し 我が大神 現(うつ)しおみあらむとは覚らざりき。
と曰して 大御刀(たち)また弓矢を始めて 百の官の人等の服(け)せる衣服を脱がしめて 拝(をろが)みて献りたまひき。
ここにそのヒトコトヌシの大神 手打ちてその捧げ物を受けたまひき。故 天皇の還り幸(い)でます時 その大神 満山(みやま)の末より長谷(はつせ)の山の口に送り奉りき。このヒトコトヌシの大神は その時に顕(あら)はれたまひしなり。
古事記 (岩波文庫) 倉野憲司&西宮一民)

時に主はアブラム(のちに アブラハム)に言われた。

――あなたは国を出て 親族に別れ 父の家を離れ わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし あなたは祝福の基(もとい)となるであろう。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し
あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは
あなたによって祝福される。

アブラハムは主が言われるようにいで立った。
(創世記 12:1−4)

あのヒトコトヌシのオホカミは すでに 百の官をしたがえるスメラミコトのA圏〔の人びと〕より前に S圏において 知られていたであろう。このアブラハムの主は 人類史上はじめて 霊的な共同主観の根源として 知られた。アブラハムにはじめて信仰が生起したとき(おおまかに言って 人類にはじめて信仰の動態・史観が生起したとき) その共同主観は 時を遡るなら 人類の始祖にまで 観想(テオーリア)として 及んだのである。かれの後史から 次のように復活がなって 共同主観された(そのように世界の解釈 と変革が生じた)。

〔アダムとエワが へびの誘いに応じて 園の中央にある善悪を知る木から採ってその実を食べたあと〕 かれらは 日の涼しい風の吹くころ 園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで 人とその妻とは主なる神の顔を避けて 園の木の間に身を隠した。
主なる神は人に呼びかけて言われた。
――あなたはどこにいるのか。
かれは答えた。
――園の中であなたの歩まれる音を聞き わたしは裸だったので 恐れて身を隠したのです。
神は言われた。
――あなたが裸であるのを 誰が知らせたのか。食べるなと 命じておいた木から あなたは取って食べたのか。
人は答えた。・・・
(創世記3:8−12)

すなわち アブラハムに起こった信仰=共同主観によれば その人類の歴史を遡って 始祖である人びとに おそらく このような主観とその共同性をめぐる事件が起こったであろうと推し測ったその結果だったのではないか こういう議論です。
信仰=共同主観は すでに・初めから あったが 一旦 われらが始祖なる人は これをみづから破ったという歴史的事態がからんでいるのではないかと。
ヤコブは イエスの前史において 或るひとりの人と格闘をしたとき 《ねたむ神》(出エジプト記20:5)と表現されるようにして知られる愛を 見た。アダムとエワとは 《恐れ》を持ったとき これをとおして 《園の中に主の歩まれる音を聞いた》という。これらの愛が 共同主観されて すなわち アブラハムの以前(アダム)と以後(たとえば ヤコブ)との時代をとおして 共同主観(常識)が歴史をつらぬいて ヤコブを経て くだって モーセのとき この共同主観の源を知るための律法として――律法じたいは 善悪を知るためのものである(もちろん しかし 神の律法である)―― つまりかたちある言葉として共同主観されるようになった。これが 《まがごと(悪事)も一言 よごと(善事)も一言 言ひ離(はな)つ神 ヒトコトヌシのオホカミ》であると考えられる。

  • 《あなたは いかなる像をも造ってはならない》(創世記20:4)という一つの律法 これは 《神》がいかなる人間の推理・想像によっても いかなる精神の徳と美によっても代えられないことを言っている。神を《霊》と言いかえるのは 神が人間には分からないゆえである。《愛や やしろ資本推進力》とよぶのは むろん 人間のことばによる代理表現である。《神》という語じたいもそうである。《かみ》という文字・発音 このような経験上のものごとも とうぜん 神ではないのだから とにかくいかなるものでも 人間の想像物をもって 神としてはならないと。

オホハツセワカタケのスメラミコトは モーセにあたるではないかではなく はじめのS圏におけるアブラハム(あたかも《人びと(ハム)の父(アブ)》と解しうる)のことが かれ雄略ワカタケに仮託されたかたちと考えられる。すなわち そのとき同時に 雄略天皇(一般に A者 また 日本への新しい渡来人)にも カミが現われたのである。
《ねたむ神》とも表現されたこの神が 《ふたたび恐れに陥しいれる奴隷の霊ではなく 神の子とする霊》(ローマ書8:15)を イエスの誕生と死と復活と高挙をつうじて 自らすなわちキリストと神の心とを告知しつつ 与えたと考えられる。恐れとねたみと格闘をとおして アダムとエワの自然本性への到来によって人間の言葉に到達するアマアガリの力を 受け取るよう 出現した 言いかえると イエスが 第二のアダム(コリント前書15:45−49)として すべての者のはじめ(コロサイ書1:18)となって あらわれ生きたまうたと考えられる。
わたしたちは いま 前史および後史として すでに歩んでいる歴史を さらに総合的に 方法として 考察している。

主はマムレのテレビンの木のかたわらで アブラハムに現われられた。それは昼の暑いころで かれは天幕の入り口にすわっていたが 目を上げて見ると 三人の人がかれに向かって立っていた。かれはこれを見て 天幕の入り口から走って行ってかれらを迎え 地に身をかがめて 言った。
――わが主よ もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら どうぞしもべを通り過ごさないでください。水を少し取ってこさせますから あなたがたは足を洗って この木の下でお休みください。わたしは一口のパンを取ってきます。元気をつけて それからお出かけください。せっかくしもべの所においでになったのですから。
かれらは言った。
――お言葉どおりにしてください。
そこでアブラハムは急いで天幕に入り サラの所に行って言った。
――急いで細かい麦粉三セナをとり こねてパンを造りなさい。
アブラハムは牛の群れに走って行き 柔らかな良い子牛を取って若者に渡したので 急いで調理した。そしてアブラハムは凝乳と牛乳および子牛の調理したものを取って かれらの前に供え 木の下でかれらのかたわらに立って給仕し かれらは食事した。
(創世記18:1−8)

アダムとエワとは 園の中を主が歩まれる音を聞いた。ヤコブは 或る人との格闘をとおして 神を見た。もちろん アブラハムに神が《国を出て わたしの示す地に行きなさい》ということばを語る声として臨んだように アダムたちやヤコブやらに このような声としても のぞまれた。が ここで アブラハムには 《三人の人》が現われた。そして 《主が現われられた》と書いてある。これは 三つのペルソナにして一つの本質(存在)である三位一体なる神のことであるが 共同主観の霊的な土台である愛なるやしろ資本推進力が 真実の一つなる神にして 三つのペルソナであることに 誤解があってはならない。
また しかし 父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神の三位格(ペルソナ)一体であることによって このやしろ資本推進力つまり本史のもとに わたしたちは 前史と後史とを持つようにさだめられていると考えられる。(逆に言えば 前史も後史もともに同じであるということになるが。つまり 後史に入ると その後史の共同主観が 前史のすべてをつらぬき 包み込むようである)。
アブラハムの時代 言いかえると ここではおおきく取って ヤコブモーセやを含めた第一のアダムの時代 つまり 第二のアダム(イエス・キリスト)に至るまでの時代 あるいは イエスの時においても まだ十字架上に上られていない時代 これらの時代が 前史だというのは 《イエスはまだ栄光( doxa =憶測>共同主観)を受けていなかったので 聖霊はまだ降っていなかったのである》(ヨハネ7:39)ということにもとづいて考えられる。
そうして 肉においてイエスの内なる人の秘蹟および外なる人の模範が つまり真正の原理(はじめ)としてのアマアガリが 成ったとき 《君たちの父アブラハム(つまり かれに三人の人が現われた)は 〈わたしの日〉を見るのを楽しみにしていた。そして それを見て 喜んだのである。 / はっきり言っておきたい。アブラハムが生まれる前から わたしは〈主〉である》(この章の冒頭に引用)ということばが わたしたちに与えられたと考えられる。
これは やしろ資本推進力に固着してすすむわたしたちの歴史に マクロ的にもミクロ的にも 栄光から栄光への 日から日への革命が過程されることであると 知らなければならないと思われたのである。ほかならぬ方法の滞留とその確立であると考えられる。ヤシロロジストとして自由に実践するとき 自由に実践するゆえ その《拡大》に際して このような《内面化》がともなっているはづなのである。
三位一体について――これを説明し得るとする意図のもとにではないが―― 方法の滞留において――ほかならぬ日本人として――必要な程度に 次章で考察するであろう。
(つづく→2007-04-05 - caguirofie070405)