caguirofie

哲学いろいろ

#12

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§12

それでは どうでしょうか。律法(――基本主観の内なる法秩序。理念は これを代理する。そして ある種 外的に・後行するものとして 倫理規範・掟・道徳・法律として ある――)は罪でしょうか。けっしてそうではありません。しかし 律法によらなければ わたしは罪を(――基本主観の違反 無効の同感行為を――)知らなかったでしょう。
たとえば 律法が《むさぼるな》と言わなかったら わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。しかし 罪は掟によって機会を得 あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし 掟が登場したとき 罪が生き返って わたしは死にました。そして 生命をもたらすはずの掟が死に導くものであることが わかりました。罪は掟によって機会を得 わたしを欺き そして 掟によってわたしを殺してしまったのです。いずれにせよ 律法は聖なるものであり 掟も聖であり 正しく そして善いものです。
ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))7:7−12)

からと言って――つまり ふたたびくりかえすと この律法を守るおこないによってではなく だから禁欲的な職業倫理たるエートスを実践することによってではなく 基本主観の内における自己の自乗過程たる同感行為を 人間的な論法で言えば 中核としたところの信仰 これによって人は 正しい者とされる すなわち 先行精神が 自由で有効な共同主観とされる そして そのときには 後行経験の領域での勤勉が どこからが むさぼりのガリ勉となるか 一概に 既定できないからと言って――
先に引用したパウロの文章の中の 《働く者に対する報酬は 恵みではなく 当然の報い(信用また その経済量たる信用価額の所有)とみなされている》ということがらを わざわざ 律法のような 倫理・職業義務・エートスとする必要は 生じない。
それでもウェーバーが これのやがてなる資本主義の精神をとらえて その発達史として研究し成果を発表することは パウロがつづけて

それでは 善いものがわたしにとって死(――ウェーバーの言う《この無なるもの》――)をもたらすものとなったのでしょうか。けっしてそうではありません。じつは 罪がその正体を現わすために 善いものを通してわたしに死を(――だからウェーバーに従えば 《搾取される立ち場》を――)もたらしたのです。このようにして 罪は限りなく邪悪であることが 掟を通して(――《伝統主義的な定式化》を通して――)示されたのです。わたしたちは 律法が霊的なもの(――基本主観の精神・理性――)であるということを知っています。しかし わたしは生まれながらの本性の弱さをまとった者であり 罪に売り渡されています。
ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))7:13−14)

うんぬんと言うことを ウェーバーはこの書物で 明らかにしたかったのでしょうか。資本主義の精神を 価値自由に歴史的に認識して その心(かれの価値判断)は そこに あったのでしょうか。
だけれども 《わたしは生まれながらの本性の弱さ(有効な自然本性が 社会全体の必然経験によって 無力とされうること)をまとった者であり 罪に売り渡されています》というパウロの 後行経験のことがらに譲歩して述べた表現を・その内容を 一時的にせよ ウェーバーは自己の先行精神とみなしたことを 意味しないであろうか。いや やがて発達しその頂点を究めたと言ってのように栄光を帯びたとうぬぼれたとき そのはじめの無効が 証明されたと かれは 論証したかったのでしょうか。あるいは はじめは有効であった だが のちに無効へと堕落したとでも言いたかったのでしょうか。
まずこの問いをもって――もしくは いま問い求めるそのわれわれの場じたいは すでに確定したとさえ言って―― わたしたちは 蛇足として この書物の《第二章》(訳書の下巻)に入っていくことにしよう。すなわち 次の構成にのっとって。

第一章 問題の提起
  一 信仰と社会階層
  ニ 資本主義の《精神》
  三 ルッターの職業観念――研究の課題
第二章 禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理
  一 世俗内的禁欲の宗教的諸基盤
  ニ 禁欲と資本主義精神

しかしながら 実際問題として わたしたちは もはや この《第二章》への批判としても これまで述べてきたわたしたちの見解をくりかえすのみなのです。そのことを読者は 感得されるでしょう。
たとえば おそらく次のパウロのことばにもとづいて カルヴァンのあの《選びの予定説》がウェーバーは成り立つと考え その教説は 価値自由的に見るところの歴史的な因果関係の上で 重要な役割を果たした すなわち やがて資本主義の精神をかたちづくるであろう影響力を持ったのだと 捉えたと考えられてきます。

ところで あなたは言うでしょう。《それではなぜ 神はなおも人間を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか》と。いったいぜんたい 神に口答えするとは あなたは何者ですか。造られた者が造った者に 《どうしてわたしをこのように造ったのか》と言えるでしょうか。焼き物師には同じ粘土から 一つは貴いことに用いる器に 一つは普通のことに用いる器に造るる権限があるのではないでしょうか。・・・
ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))9:19−21)

これが ウェーバーによると カルヴァンにおいては――要点だけを示せば――

永遠の昔から究めがたき決断によって各人の運命を決定し 宇宙のもっとも微細なものにいたるまですでにその処理を終えたまうた 人間的理解を絶する超越的存在となってしまっている。神の決断は絶対普遍であるがゆえに その恩恵はこれを神からうけた者には喪失不可能であるとともに これを拒絶された者にもまた獲得不可能なのである。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下 (岩波文庫 白 209-4)§2・1p.23)

と。だから 《すでに 自分が救われているか否かという問題が前面に現われてきた限り 少なくともカルヴァン自身のように 恩恵が人間のうちに生み出す堅忍な信仰がみずからそれを証明するということを指示するだけですますことは もはや不可能となってきた》(§2・1p.49)のだと。同じパウロ

モーセは 律法によって正しい者とされることについて

掟を守る人は掟によって生きる。(レビ記 (デイリー・スタディー・バイブル (4))18:5)

と記しています。しかし 信仰によって正しい者とされることについては

  • 基本主観であること・人間であるというそのことによって ただで かれは 共同主観の人であるという点については

心の中で《だれが天に上るだろうか》と言ってはならない。(申命記9:4)

と述べています。これは キリストを引き降ろすことにほかなりません。また

《だれが底なしの淵に下るだろうか》と言ってはならない。

と述べています。これは キリストを死者の中から引き上げることになります(申命記30:12−14)。
ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))10:5−7)

と言っているというのに。である。だからウェーバーは ここで 自己の価値判断はこれを おこなわないわけである。ともかく 不安な人びと 孤立した人びとの不安 という《心理的な》土壌が 当時 あった限りで 基本主観の無効から発する思想が――もしくはパウロたちの伝えたのとは違うまったく新しいキリスト宗教としての思想が―― カルヴァンを介してそういうふうに ひろがったと その因果関係を ひたすらに 捉えおさえようというわけである。
そしてその結果には 《二つの類型》があって 《その一つは 誰人も自分を選ばれたものと思い すべての疑惑を悪魔の誘惑として拒けることを無条件に義務とすること》 《いま一つは そうした自己確信を獲得するための最もすぐれた方法として 絶え間ない職業労働がきびしく教えこまれたということ / つまり 職業労働によって むしろ職業労働によってのみ 宗教上の疑惑は追放され救われているとの確信が与えられる》(§2・1pp.49−50)ということになったのだと。
ところが――わたしたちは 価値判断(主観)を 自由に さしはさむのであって―― パウロがなおも議論して言うには

ところで 信じた(受け容れた)ことのないかたを どうして呼び求めることができるでしょうか。聞いたことのないかたを どうして信じることができるでしょうか。・・・じつに 信仰は聞くことにより しかも キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは 尋ねますが かれらは聞いたことがなかったのでしょうか。もちろん聞いたのです。
ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))10:14−18)

なのだから こんどはわたしたちも価値自由になって その因果関係を見ようと思えば ここでウェーバーは まさしく 《すでに聞いたのに聞かなかったという人びとの 不安なパニック状態における恐怖の心理学》 これを 講義しているということになるでしょう。だから わたしたちは その当時のふつうの人びとも このような不安の中で恐怖にとりつかれた人たちに対して 死の墓場から起ち上がりなさいと言って それらの人たちの自己到来を ねがう ねがいつつ 同時に かれらに 好きなようにさせたのだと 論じるわけです。
好きなようにさせてもらったかれらは そこで ある種の仕方で 精神の支柱をふたたび得たかも知れない。《職業労働をひたむきに 自己目的化》しつつ じつは 《そのことじたいの倫理・禁欲的な精神》にではなく 《労働をとおして 先行する自己の精神をとらえた》といったような支柱を 得たかも知れない。ウェーバーの説くのに反して そうであったかも知れない。要するに かれらは 馬車馬のように はたらいたかも知れない。アブラハムの系譜・だからたとえばスミスは かれらに そのように好きなようにさせなければならなかった。利己心に譲歩しこれを認め あたかも利己心説にたったかのように 馬車馬の勤勉をも受け止めた。後遺症は 残ったのである。
後遺症は残って たとえばスミスからなら 二百年――ただし 《支柱をもはや必要としなくなる》事態は ウェーバーがすでに言っているのであるから その二十世紀のごく初めまでとすれば もっと短い もう一度ただし カルヴァンからなら 十九世紀いっぱいまでとして 三百年余――つづき 《資本主義の精神》も 醸成されたということである。ウェーバーは このことを  《客観記述の心理学》として 明らかにしようとし その成果を 自己の《学問》の記念碑とした。《偉大な城》なのだ。

つまり宗教的信仰および宗教生活の実践のうちから生み出されて 個々人の生活動態に方向と基礎をあたえた心理的起動力をば明らかにすること〔がわれわれにとって重要〕なのだ・・・。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下 (岩波文庫 白 209-4)§2・1p.9)

というのだから。わたしたちの態度は――たとえばスミスもそうであったと見るごとく―― 《先行する信仰および後行する生活の実践 これそのものが 個々人の生活態度(勤勉なら勤勉)である》である。《起動力》は――《起動力》も――ほんとうには 後行する経験領域の心理には ないと見る。恐怖から逃れようとする行動を促したものをもって ふつうに 起動力とは言わない。生活態度の《方向(意志)と基礎(知解)》は 起こりうる心理的なちからに対して 判断する主体であっても そして その心理経験の有力に押されて 無力にされえても 心理的なちからによって 自己(自己の回復)を与えられるということは ない。《ある〔かのように影響されている〕》とするのは 《宗教〔における観念・念観。念力でもよい〕》であると じっさいウェーバー自身 知っていたはずだ。
したがって――この再開した議論のはじめに しかしながら それは 《第一章》への批判と同じことをくりかえすのみだと ことわったように――ウェーバーは ともかく歴史から研究課題を拾ってきて 自己の学問の素材とし その成果を明らかにしたか あるいは 歴史経験を 殊に心理学の領域で 客観記述したかである。前者のばあい ただし いくらか意地悪くみれば すでに その素材に対して・素材にかんして人びとを 最初は持ち上げつつ 徐々に搾取をしていくことになるかのようである。
しかも 後者のばあいでも じつは かれの文章の調子といったものとしては この《宗教心理》が もはや後行するものではなく 先行する精神だと言っていると聞こえる。つまり のちに見なければならないかも知れないが そのピューリタンたちの初発の《職業倫理》には 《〈宗教的信仰〉の心理的な起動力》がすぐれて発揮されて これは 《思想》(即ちウェーバーにとっては 思想としてのエートス)であり ほかならぬ《先行する基本主観のちから つまり普遍的な共同主観》と同じものであったと言っていると 聞こえるのである。
ただしこれは わたしの間違いであるかも知れない。その点は ウェーバーは 巧みなわけである。わたしが間違っていなければ ウェーバーのそれは 間違っている。
(つづく→2005-10-06 - caguirofie051006)