caguirofie

哲学いろいろ

#6

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§7

利己心や博愛心による二角協働関係は 一般に同感による信用関係の過程のなかに 無効の・もしくは曖昧な有効のかたちで 棲息していると見ることができる。ということは 通常では 利己主義的な勤勉と信用の関係過程のなかで そのほうが有力であるように見えて 同感行為は これのほうが あたかも まぼろしのようになって ただし生きて いるといったことにもなる。のであるが さらに その間に棲息しうるかも知れない詐欺や暴力による二角関係は 無効であって 議論の問題ではなく 法秩序の問題である。具体的に法治社会でいくなら 法律による経験的な同感行為の対象である。
そして この同感主体たちの社会の周辺に ガリ勉と怠惰とが 隠れている。ガリ勉は 重商主義であり 怠惰は 身分制(あるいは悪しき伝統主義)である。
身分制は 勤勉の徳たる信用の主体である人格――具体的に身分・地位・財産の所有としての信用―― これを 外において 特定・固定してしまったものである。二角関係協働を 一定の外の二角関係のかたちで 停滞させようとする動きである。怠惰あるいは無知である。
この身分制といった伝統主義は 精神の勤勉ないしガリ勉の協働関係の場合にも 一定の二角関係の・階級関係といった社会総体的な到達段階でも そのような怠惰をはたらかせうる。惰性にまかせるようになる。勤勉のための勤勉の一方で 怠惰のための勤勉。この場合は 個体的な歴史経験の上に立って 停滞ではないように見えることによって ただしく同感行為に裏づけされた一つの信用動態であると言って争そおうとするし 争っている。
したがって ここで 最後の一つに重商主義ガリ勉が 見え隠れして 問題である。見え隠れしてというのは それは 帝国主義植民地主義のようにすでに明らかに誤謬だと判定されたものは別として いわゆる資本主義の精神としての場合は それが 正式の同感理論であることを 旗印に掲げており ガリ勉であることは 隠れていなくとも 自由で有効な先行する基本主観にもとづくと主張することによって 矛盾を持たないと信じられているから。
すなわち ガリ勉の重商主義は それが根強く問題となるのは スミスの同感と信用の理論に自己が立っていると主張する場合である。重商主義は スミスがまさしく批判したように かれの以前から起こっていたが そしてスミスの近代市民の社会のもとにいちど影をひそめたが ふたたび息を吹き返してのように 愛欲(所有欲)を追い求め 愛(同感)を呼び求めている。合理的な禁欲という支柱――これによって 自己が 同感理論に立つと主張する――を持っていたときでも 叫ばなければならなかったのだから 支柱をなくした(あるいは はずした)ときには たとえ叫びが聞こえなくなったとしても なおさら所有欲なる心理的な起動力の衰えることがないだけではなく ほんとうのところ 先行する精神の同感としての愛を 呻きつつ あえぎ求めているのであろう。周辺に見え隠れして この周辺から と言ったが 雲の上からとも見えるところの 墓場あたり・あるいはその中・あるいはすでに下から ではないだろうか。

外面的には

  • =後行する経験領域では

利潤

  • =二角協働関係の信用の差異の経済量

の獲得を指向するにすぎぬ活動が 個人に義務(あるいは倫理)として意識されて 《使命としての職業》という範疇にまで構成されるに至ったという事実は いかなる観念の世界にその源泉をもつのであろうか。けだしこの観念こそが《新しい型》の企業家の生活態度に倫理上の基礎と支柱とを与えたものにほかならなかったからである。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)§1・2pp.84−85)

普通に人間としての・また《わたし》としての《支柱》が与えられたなら その支柱じたいは 損なわれることはない。また これによって 《職業》に《使命》を見出すかどうかは 自由である。すなわち わたしたちの考え方は 先行する精神たる支柱において 使命が与えられる(=召命を受ける=つまり基本主観が 同感し合われる有効な基本主観であるとなる・つまり共同主観となる)と見ることに いちばんの命題が あり そしてとうぜんその上に立って職業をいとなんでいる。だから ここでウェーバーが 《観念にその源泉を》求めて 《使命としての職業》なる一つの同感理論が起こったと見て これが資本主義の精神となったと俯瞰するのは そのウェーバーにしてみても 危険な綱渡りのはずなのである。《観念》があやふやであると われわれからは見える。
つまり《観念》にかかわって《心理的な起動力》という後行領域での 一種の同感理論の生成と展開を あくまで客観的に捉えたと かれは断わっていると考えられるが それが 《同感理論》であるとする根拠は まだ明らかにしていない。《〈倫理上の〉基礎と支柱と》は まだ 後行領域であり そういう意味ではどうでもよいものである。禁欲するかしないかは どちらとも決め兼ねることであり どちらでもよい後行領域である。《生活態度》が 基本主観の自己同感行為のことだとしても それは 《倫理上の基礎と支柱とを与え》られることによって 自立するものではない。逆のはずだ。
こう批評するのは きわめて我田引水のようだけれども もし 初めの大前提が同意されているならば 強引にでもそう我田引水しなければならないのだし また他方で同じく もしこのような研究課題をもって その成果をウェーバーが われわれに問うたとしたのならば それも――つまり今度はその学問が―― 確かにかれの我田引水なのであって かれは そのときには 自身の基本主観にかんする大前提を 明らかにしていなければならない。その大前提が明らかに より一層納得しうるものであるならば かれの我田引水のほうが 普遍的な共同主観であると理解されていくであろう。さもなければ かれは このようなプロテスタンティズムの《使命としての職業》なる同感理論を 研究したというよりは そうではなく その研究主体たる自己の学問ないし同感理論を 世に問うているのであって われわれにとってみれば それは かれが破廉恥にも われわれに 愛(同感)を 心理的に・あるいは学問そのものとして よびもとめているのである。
最終的には この《使命としての職業》を説く同感理論は 資本主義の精神となって 支柱をなくしたと言っているのであるから その間 有力であったとしても もともと有効でなかったと認めた恰好なのであって その言うところは こうして今 研究しその成果を明らかにしているところの自己の学問こそが 支柱を継承して 有効であると 暗に――じっさい価値判断をおこなって――主張したかたちである。われわれも 不用意に発言するなら こうしてウェーバーは かれ自身たしかに 雲の上にいるというわけである。
どんな企業家であれ その支柱は――支柱というならば―― かれの《わたし》であり その《生活態度の基礎》は 知解また経済活動であり その勤勉と信用関係に 《倫理》や《職業精神》は生じてきているけれども 《生活態度》が勤勉で 信用を得て 倫理を形成しまた職業精神を持ちえているのであって いったいどんな《観念》が 《生活態度に倫理上の基礎と支柱とを与え》るというのであろうか。
《時は金なり》とフランクリンも言っているじゃないかというのは たしかに《観念》なのであって《心理的な起動力》を発揮できるが それは 気休めか気働き すなわち 同感理論ではなく 同情か非情の倫理か である。これに対して 《倫理上の――倫理上のである――基礎と支柱とは 与えた》と言って 後退するのは あとでこの支柱は はずされたとも同じく言うのであるから やはりそれは 同感理論では初めからなかったと認めることである。
《職業倫理こそが 先行する精神の生活態度となった》と見ることは したがって実際 先行する基本主観が 催眠術にかかって はたらかなくなり 無効の狂気によって禁欲の想像を逞しくして  その一種の同感理論をつくりあげたと証明することである。もしこのことが正しければ ウェーバーも われわれの大前提を認めている。しかも そこには 立たないし 別のところ(つまりとにかく学問)に立って 一方で ピューリタンたちの同感理論もともかく認めてやれと 変な主張を披露する自分の学問の同感理論にも同感を寄せてくれたまえと 拝み倒していることにしかならない。
わたしたちは ウェーバーという人間自身 あるいはピューリタンその人の基本主観そのもの これは すべて認めているというか 信じて(信頼して)いる。同感理論の欠陥はこれを 憎むし 指摘する。これ以外に 基本主観の自乗過程はないし そうでなければ 共同主観――共同主観というわたしの主観――に立てない。

《合理主義》は一つの歴史的概念であり その中には無数の矛盾が包有されているのであって われわれの究明すべき点は 過去及び現在において資本主義文化のもっとも特徴的な一構成要素となっている《職業》観念と――前にもみたとおり純粋に幸福主義的な利己心の立場からははなはだ非合理的な――職業労働への献身とを生ぜしめるに至った あの《合理的》思惟と生活の具体的形態はいったいどんな精神的系譜に連なるものであったのかという問題でなければならない。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ワイド版岩波文庫)§1・2 p.94)

という表現での捉え方は おそらく次の一点を留保して わたしたちの見方でもあると思われる。すなわち 《思考の集中能力と 〈労働を義務とする〉この上なくひたむきな態度 しかもこれに結びついてこの場合とくにしばしば見出されるのは 賃銀とその額(信用の経済量)を勘定する厳密な経済的合理主義 及び労働能力のいちじるしい向上をもたらす冷静な克己心と節制》(§1・2p.68)という 《その中には無数の矛盾が包有されている》ところの倫理観は 《純粋に幸福主義的な利己心の立場からは非合理的な――つまりそんなに宗教心をもちださなくともよいではないかと考えられるような――》ものと見なされるだけではなく ふつうの勤勉の立ち場からも その信用理論は 狭い強迫観念のような同感理論にしか立っていないと考えられるのである。
そんなことはわかっていて そうして 客観記述の学問研究に移行したのだと反論するばあいには 移行の大義名分――古臭いことばだが――が 必要である。しかもウェーバーは この移行したあとの学問の立ち場からは 必要にして十分な理論だと 言えると考えたし そう言った。
この点は こだわらなければならないと考える。スミスが

寛大で人情のある(――同感の主体である――)人がもっとも残念に思い勝ちなのは かれらが いっしょに生活している人びとの背信と忘恩(――そういう必然の世界における信用関係の過程と時には起こるその破綻――)によって 失うものの価値(――文化行為とその成果――)ではない。かれらが失ったかもしれないものがなんであろうとも かれらは一般に それなしにもきわめて《幸福》(――自己到来的――)でありうる。 
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) 1・3・3)

というのが われわれの《幸福》理論である。そこでは 《職業労働への献身》を 自由に幸福な二角関係協働の過程としておこなっているのであるけれども いったいどこから どんな《観念》が その人びとにアマクダッて来ているというのであろうか。《冷静な克己心と節制》とは 同感による勤勉過程に付随する徳=信用である。それが 心理的に倫理的に《自己目的》となるのは ガリ勉の精神である。そこで ただし わづかに 《信用の経済量の 分配されたあとの個体的な所有》には 人びとのあいだで差異があり しかも可変的・流動的であるから 一定の所有関係が築かれたときには それが 怠惰の精神によって固定され勝ちである。

  • 怠惰の精神によって掻き立てられ 怠惰のためにはたらく勤勉がありうる。

したがって この後行する経験領域では そういった必然の世界での慣性の法則に従うような側面が 支配的なほど有力となって はじめの同感は やがて無力とされる。と同時に 本来のまま 有効でありつづけ 無力とされていても《きわめて幸福でありうる》。あとは 後行する経験領域での 必然的な 勤勉と信用関係の情況に対して しかるべき社会科学的な対策をもって 実践しつつ進むというのみである。
ここには 《観念》の入り来る余地は ありえない。そして それが入り来たったとしたなら――それは 有効なものではありえず しかもその無効が実効性をもって有力となりえて 資本主義の精神が起こりえたとしたなら―― それは 《いったいどんな精神的な系譜につらなるものであったかという問題》。わたしたちは 《ガリ勉の重商主義の精神の系譜》だと答えたわけである。その一定の成果を保守するガリ勉だと。
これは 無効だが 無効が実効性をもって――なぜなら かれらは 自分たちも 同感の理論に立っていると主張し(または ウェーバーによって それが 保証されようとして)自由な言論の争いに持ち込み――実際じょうは有力となっていった限りでは そのような歴史的な事態でもあるから そういう脇役であったと捉えておくしかない。ウェーバーでは この脇役が 主役の位置に押し上げられている。(たしかに 現象として 事業の成功を見た人びとは 金持ちであって 社会的に影響力を持つゆえ その限りで 主役ではある)。このウェーバーは いったいどんな《観念》をもって かれなりの同感理論を提出するのであろうか。
そして と言っても おそらくそこに 神秘はないのであって ただ われわれの《先行する基本主観》・この精神に立つかの如くして しかし これを自乗していくのではなく 傍らから《念観》しているのだと思われる。《精神》じたいには 触れており それを捉えている。そうして そうでなければ 《無効がひろく実効性を持つ》ことはできないわけである。《利己心のみ》という一つの無効 あるいはさらに《詐欺》という無効 これらは ある種の資本主義的に 起こりうるが 社会全体にわたって一つの時代を作りうるほど だまし続けて有力であることはできない。そういう信用理論は 容易に崩壊する。
だから ここで言わんとするところは ガリ勉の重商主義は 資本主義以前の時代におけるのとは違って 正式の信用理論を自己に帯びさせたということである。そんなことは 知らない・言わないという場合が いちばんの曲者である。
このゆえにウェーバーは このエートスを 資本主義の精神の正式の出発点であり主役であると見たし 論じたし その見解が注目を引く余地があった。《主役》がやがて《支柱》をなくしたときには 《この無のもの》と言って けなしにけなしたのである。この《巧みなわざ》が けっこう多くの――注目だけではなく――《同感》を勝ち得たのである。
おそらくアダム・スミスのもとに戻ったにすぎないのであって ――少しでも好意的に見るならば――その議論のえんえんと続く本体の過程は ウェーバーの紡ぐ一編の夢なのである。つまり――夢も心理的な起動力たりうるけれども―― 悪い冗談である。
(つづく→2005-09-30 - caguirofie050930)