#7
もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923
§8
《ウェーバー学派の倫理と学問至上主義の精神》 こういう妖怪が スミスの系譜の人びとの心の中をも さまよっている。その意味で このウェーバーの悪夢をもわれわれは 取り上げて議論しなければならない。
ウェーバーの妖怪が スミスの系譜に忍び込むそのやり方といった観点から もう少し議論を継いでおきたい。
- ちなみに こういう批判のしかた 傲慢で我田引水に見える表現のしかた これをもし しないとしたなら わたしたちは――つまり 無効の同感理論を有効だと言いくるめた学問 これは 無効だと主張するわたしたちは しかるべき我田引水をしないとしたならば―― もっとも傲慢で あたかも独裁的な意味での人民裁判を 勝ち誇って おこなう無効の・狂気の同感者の群れとなる。
- ところが ひそかに――ひそかに――ウェーバー自身が この裁判を その犯罪調書をもって プロテスタントたちに・またその成れの果てである ウェーバー当時の資本主義の精神のもとにいる人たちに・そして現代のわれわれに 行なっている結果をしか持たないとわたしには思われる。我田引水に見えるかたちを取らなかったから。先行する基本主観の同感理論を明示しない場合である。
そして
労働(――或いは学問――)を自己目的 すなわち《使命》〔たる《職業》〕と考うべきだという あの資本主義の要求にまさしく合致するところの考え方は このような場合
- すなわち 《思考の集中能力と 経済的合理主義と 冷静な克己心および節制》の場合
もっとも受け容れられやすく 伝統的習慣を克服する現実的可能性は 宗教的教育の結果としてもっとも大きくなるのである。
(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)§1・2 p.68)
とウェーバーも言うごとく 事は《宗教》の問題である。ピューリタニズムなどのプロテスタンティズムの宗教――すなわち 広く解して 《先行する基本主観》が それにさらに先行する何ものか(すなわち神もしくは無神)に対する関係 これの把握のしかた―― これにかかわる。すなわち信仰の問題である。何者かが 《最先行する》というのは すでに 超越的だということでもある。そうでもあると同時に それを認識するというときには 信じると認識するときも信じないとするときも共に 人間存在たる《先行の基本主観》の問題でもある。したがって 《先行精神》じたいが なぞであるということは 《精神に最先行するものが 精神に宿る》といった表現も可能かと思われる。
- 信じないと認識する場合には 《精神には なぞがあるが そのなぞの主体の存在をいっさいわたしは認めない》といったかたちで そのなぞと精神との関係を――つまりそういう信仰=つまり無神論という信仰を――表明していることになる。
- 有神論も無神論も なぞであり 思考ではなく信仰であるゆえ 思考として論証しきることは むずかしい。
経験科学の論法から行けば 《基本主観(その動態)》は なぞを含意させて《信仰》と言えるし 経験科学の概念そのものでは《同感の理念および理論》である。《宗教》は 広く解釈すれば 信仰のなぞの領域そのものを扱うことを 一つの中心として それは 経験科学の視点から見れば ほとんどただ 想像力の世界・その表現の問題 物語とか文学の問題である。スミスの場合は 理神論という 同感理論の一端であった。
- 組織や儀式の問題もあるが 理論上は 小さいと見うる。
おそらく しかしながら スミスも これを 《見えざる手に導かれて》という表現ですませたように わたしたちも もしこの問題に表現を与えなければならないとしたなら 《基本主観――自然本性――に なぞがある》という言い方で 説明するはずである。《神》ということばを用いてもよいが それは 《なぞにおいて》見られるものであって 《神という〈観念〉》なのではない。
- 《観念》は 思考であり思念であって 信仰ではない。
概念(表現に用いることば)は 観念になりうる。すなわち 基本主観たる精神にかんして 《理論や思想》を超え さらに《信仰》を超えようとするとき さらにそれ以上の超えた領域がどう認識されたかを別とすれば――つまり それ以上の認識はじっさいには ありえないとわたしたちは 考えるのであるが―― 精神=理性 の概念 つまり理念を捉えて 実際にはこれを《念観》しているのである。独立=自由とか 関係=愛とか また平等とか あるいは 慈悲とか まこととかなどなどを捉えて これらの理念を念観しようとしている。その意味で 《神》と言ったとき ほとんど同時に それは 一つの観念でありうる。
- 《無神》や《物質》とて全く同じである。
けれども 基本的に・基本主観的に この《神》は それとして固定的に念観される文字のことではないから 表現に用いてもよいのである。と同時に しばしば 《宗教》は 《信仰》を超えて 観念された神を 共有する。
- 同感理論としては基本主観の共同を言うが 宗教では観念の共同となるはずである。
ここで《宗教》を 《信仰》を含むものとして広く解釈せずに《観念の同感(そのような理論)》のことだとして 議論をすすめてみる。言いかえると 何らかの観念――それは 基本主観の内容たる理念を含むのであるが――が 自然本性の文化行為=つまり同感行為によって 第一のものとして 迎えられるならば それは宗教である。同感が 実際の動態として判断していることではなくなり たかだか理念――それはつまり 判断の一定の尺度ではある――を 念観していることである。早く言えば 自由とか平等とかのことばを知っていて それを人前で発言できれば すでにそこで 同感行為を実践していると 錯覚することである。理念また観念が 言わば固定資産となる。すでに減価償却を終えていて もう残存価額のみであっても これを 知っていれば・念観していれば よいという一種のあやまった信仰である。
ただし 信仰は 基本主観(=自己)の自乗過程である。わたしがわたしする同感行為である。繰り返し言って 信仰ともそれを言うのは そこに なぞがあるからである。経験科学の有効性は 限度を持って 有効である。また 《外の社会の あるいは内の心理的な 経験領域に 精神は先行する》というわれわれの定義じたい そこには なぞがある。どういうかたちで先行するかは 容易に説明しがたいし 後行領域によって無力にされていても 有効であると定義するのは なぞを含んでいる。しかも 近代市民の同感 勤勉と信用の社会関係とその理論は この《先行する基本主観 / 自由な独立主観》に立って 進められてきたと見るし そのように歴史する。これには おそらく一点の曇りもないであろう。
《〔前近代的な〕伝統的な習慣を克服する現実的可能性》は たとえ《宗教的教育の結果として もっとも大きくなる(――つまり 宗教を狭義に解すれば その結果として 観念的に・観念共有として 肥大する――)のである》としても そうではなく ふつうの勤勉な生活態度を主張し そのように歴史したスミスの登場に 一つの出発点をわれわれは 見出すものである。
ウェーバーのおこなわなければならないことは この宗教を 広義に解して(あるいは 逆に狭義にと言ったほうがよいかも知れないが) われわれの言う信仰と 同じものだと証明することである。もしくは スミスの同感理論は まったくナンセンスだということを 証明してみせるかである。
あるいは そうではなく ウェーバーは たとえばフランクリンの思想=エートスが 《近代市民社会》の一出発点だとする見解が われわれの信仰=同感理論がそうであることと 互いに別でありつつ 両立すると言おうとしたのであるかも知れない。この最後のばあいには その《心理的な起動力》が 《同感行為の推進力》と同じだと言いくるめることは出来ないと われわれは 答えた。《宗教》を持ち出すところに その詐欺のうたがいが濃い。わたし個人としては 詐欺であり無効であると決め付けた。それともウェーバーは われわれ・いやスミスに 媚びているのだろうか。
そして このスミスの系譜に ウェーバーの妖怪 《宗教的な教育――同感理論の観念的な(知っていればいいという)普及・共同化――》の味付けが いかにして入り込むか これが 最後の問題である。
- 《プロテスタンティズムの倫理が 資本主義の精神となって 現代社会を生んだ》と知っていればよいと考える人びとがいる。
かんたんに言えば 重商主義のガリ勉 あるいは学問的な重商主義の精神は スミスが伝統的な習慣を克服したとき 不安になったのである。ゆえに 一方で もはや伝統主義の宗教および経済生活に還り得ず いな その伝統主義的な古い重商主義には 対抗しそれを克服しつつも 他方で 無力にされた自由の有効では 弱さを感じ 不安となり がまんがならなかったのである。
ガリ勉の持続のためには――労働を自己目的とするためには―― たえず 吠えていなければならなかった。ガリ勉の生活態度を保守するためには その周囲に濠をめぐらし(あるいは仲間を集め) 確固とした自分の天守閣を築いて ともかく勤勉と信用関係の動態の中で 信用差額を自己に有利にみちびく使命をおびた重商主義の城を築くのに 余念がなかった。
株式会社(貯蔵仲間 stock company・活発な無名社会 société anonyme par actions )などによる経済基礎での活動も然ることながら 宗派(セクト)の形成 いや それ以上に 宗教による一つの同感理論 これが もっとも有力となるべき好都合なものだったはずである。《人間は経済だ / 人生は営利活動だ》ではなく または それだけではなく これを同感理論に高めようとしたし それとして宗教によって裏打ちされていると説いた。しかも 《つねに きわめて幸福でありうる》人の同感行為ではなく 《不安で その不安に我慢できなくなった》人たちの 宗教観念を念観する同感理論。(禁欲ゆえに勤勉と言った)。そしてウェーバーは それらが 心理的な機動力を持ちこれを発揮しえたのなら 一たんはそれでよいと言った。
しかしながら クウェイカーと称するプロテスタントの一派は 身を打ち震えさせるまでにして 自己がふつうの同感主体であることを 証明しようと努めたのである。選びの予定説は 先行する精神に なぞをなくさせた あるいは 基本主観がみづからの自乗過程――同感の動態――であるのに これを 職業・経済活動の分野に 縮小還元していったのである。
- 《わたし》の自己到来と禁欲ゆえの勤勉およびその成果とを つなげてしまった。
しかも 《基本主観》じたいはこれを 捉えていたし なんとかして人びとからも 自分たちへの同感を得ようと 持続的に勤勉たろうとした。自分たちが《勝利》したのちには この《支柱》をみづから はずした。ウェーバーは 少なくとも学問の領域で もう一度 この支柱を建てようというのであろうか。あるいは 新しい別の支柱だと言うだろうか。
と考えると このウェーバーの妖怪は スミスの系譜の人びとに 実際のところ 忍び入ってはいないのである。わづかに 経験必然の世界の有力を盾にして 自分たち・すなわちこの妖怪は 生きていると考え これを訴え ウェーバー社会科学という城を保守しようというのみである。信用差額の利潤は われらの側に ゆたかにあるのだと。あなたたちは 後行する経験領域で 有力ですねと わたしたちは答える。
(つづく→2005-10-01 - caguirofie051001)
精神年齢鑑定(20050925〜26)のこと
若いときから変わらず 自由な言論を目指して 人脈に頼らず 仲間に対してもその方針で来たから このことは 精神年齢の判定に影響しているやも知れぬ。