caguirofie

哲学いろいろ

#37

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Excavation at the gate of Khirbat en-Nahas ancient Edom.
New archeological research from modern-day Jordan indicates the existence of the biblical nation of Edom at least as early as the 10th Century B.C., the era of kings David and Solomon, and adds to the controversy over the historical accuracy of the Old Testament.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十一章b ヤシロロジにおけるアマテラス予備軍批判

――マニ教徒たちの罠にいかにして捕らえられたか――


ウェーバー(その方法)は 《罪を犯すならば きみは死ぬであろう》(刑死にまで達する処罰を受けるであろう)という律法=法律の自覚を――このような罪の共同自治に対する明晰を・したがってそれを扱う学問の位置を―― 与えたにすぎないのではないだろうか。これを学とすることによって 神々の永遠の争いなる必然の王国に 明晰なる《無関心の法則》を与えた。もしくは すでに自然成長的に出来上がったその法則を あたかも権威づけ是認したのである。こうして はからずも 死の制作者・罪の仲介者である悪魔に――《道徳的な力に仕えている》との見せかけによって・あるいは 時に ほんとうに仕えているという本心によって―― 《罪の共同自治》の中で 〔悪魔たる空中の権能に〕仕えているという結果を余儀なくされたのである。
《道徳的な力 精神の律法主義》が 《究極の世界観上の根本態度》の中の根本態度であるとするのは うそである。ますますこれによって 人間的となるが なりつつ しかも ついに 《究極の内的整合には到達》しえず 虚偽を見出さざるを得ないと 正統のキリスト教教義においてさえ 考えられた。教義などなく 宗教でもないわれわれの信仰=共同主観は この方法を それが (1)精神を神としている および (2)精神に反する闇の世界を精神と組ませた二元論に立っているとの二点において 妥当ではないと判断している。それでは 如何にして人は この罠に捕らえられるか。
わたしたちは すでに 《宣教という愚かな手段》(コリント前書1:21)によって(これを 社会的に強固な枠組みにまでしたところでは) 《或る立ち場を強いる》ことになり宗教慣習となった そのカトリック信仰から しかしながら 脱することができた。また アジア社会では すでに初めに脱していた。脱することを得たヨーロッパ社会では ウェーバーがこれを しかしなおも 学としたのである。すでに初めに脱していたアジア社会では このウェーバーの学が 或る種のカトリック(普遍的)信仰となったかの観を呈している。
けれども 《宣教という愚かな手段》がなかったなら ついにわたしたちは《かの神々の永遠の争いのみより成る世界》に呻吟しつづけなければならなかったであろうという幼稚な議論も ここで一言さしはさんでおきたいとも思う。
けれども 《罪を犯すならば 死ぬであろう(死刑を初めとする刑罰による罪の共同自治)》という律法(アマテラス語普遍理論)統治方式は すでに 《罪を犯さないために きみは死ぬ(譲歩す)べきである》との――宗教教義ではなく――史観=共同主観(つまり常識)へと移行したとも考えられる。殊に 神々の永遠の争いの場としての・戦争(兵役)にまで至る《国家》の要請によってわたしたちがすでにそこで《死を引き受けていた》という事態と情況が現実だとするならば そのまま実現するはこびとなったのである。罪の共同自治の様式は すでに変わって来ている。
なぜなら スーパーヤシロ(国家・A圏)の強制によって 大雑把な言い方だが S圏のやしろが侵略され 人びとはそれに譲歩していたからである。かつては 《罪を犯すならば きみは死ぬであろう》とわたしたちは聞いていた――ウェーバーがこれを自覚させ権威づけようとした―― しかしいまは 《罪を犯さないために 死ぬべきである》《死をこばむなら きみは背向く者となろう》が ごく日常の生活(資本形成)の中で 聞かれる。
《この神にのみ仕えるとき 他の神〔々〕にはわたしたちは 侮辱を与えることになる》であろうか。ウェーバーは《この神》を人間的な論法で 人間の精神の道徳的な力であると錯覚したのである。(また 精神とその知解力によって 変化した情況にも ついて来て対処しようとする。)この精神の知力で ますます人間的となることによって 他方で 《罪を犯す(《おかね》っていうものの)世界》に対して 無関心となった。《罪を犯す者が死ぬ(罰せられる)》ことは当然だという無関心をよそおうことが アマアガリする人びとの共同主観だと 錯覚したのである。――結果的にそうなる。また 必然の法則で結果的にそうなっていたこの地上の国に ウェーバーの学問ないしその学問という神で さらにその蔽いをかけ 結果的にそうさせようと考えたのであろう。
このような学のやり口に 《悪魔の罠がひそんでいた。すなわち 神の御名の音節をこね合わせて作ったとりもちがふくまれていました》(告白3・6・10)とアウグスティヌスは言ったことになろうか。

すなわちいわく

人ありエドムなるセイルより我をよびていう

斥候(ものみ)よ 夜はなお長きや。

ものみ答えていう

朝(あした)は来たる されどいまはなお夜なり。汝もし問わんとおもわば再び来たれ。

イザヤ書21:11−12)

かく告げられた民族は その後二千年余の長きに亙(わた)って 同じことを問いつづけ 同じことを待ち焦がれつづけて来た。そしてこの民族の怖るべき運命は我々の知るところである。
このことから我々は 徒(いたづら)に待ち焦がれているだけでは何事も為されないという教訓を引き出そう そうしてこうした態度を改めて 自分の仕事に就き そして《時代の要求(日ごとの要求)》に――人間的にもまた職業的にも――従おう。このことは 若し各人が夫々(おのおの)その人生を操っている守神(デーモン)をみいだし且(か)つそれに従うならば 極めて容易に行なわれうるのである。
職業としての学問 (岩波文庫) 結語の部分)

ウェーバーは 《預言》した 価値自由的に。このことは 《自己のデーモンにつき動かされ為した行為はなにごとも 仕方のないことであり 許しあわれ かつ 律法によってしかるべき刑罰に処せられる〔のみ〕》と言っているようなものである。わたしたちも このウェーバーの学的方法は 現代キャピタリスムの王者のごとくであると思う。ただそこに 《究極の内的整合》を見出さないだけである。
もっともウェーバーは この精神主義 昼ともいうべきアマテラス語理論によって成る学の世界では 夜・必然の王国とちがって 内的整合・心の平安を見出していると言ったことになる。もし この無関心(精神の自殺である)が批難されるときには 肉体的な実践としてもあるいは お金の面でも かれらはすすんで援助の手を差し伸べるのにやぶさかではない。どこまでも この心の 精神一辺倒の内的整合の世界が はてしなく――《赤信号も みんなで渡れば(共同自殺) こわくないと言ってのように――つづくと確信したからである。
わたしたちは このような学的方法に対して 関与不可能を見出さざるを得ない。また そう言うとすると かれらは 自分たちは《この世に属していない》(ヨハネ17:16)と言って反論するだろう。しかし 《何のむくいも望まないで 〔このような関与不可能な〕あたし(=つう)をかわいそうに思って矢を抜いてくれた》(夕鶴)のは 与ひょうのほうであった。この話は おそらく ウェーバー学徒にあっては 聖書からはあの《善きサマリア人》(ルカ10:25−37)の譬えを引き出すに恰好の材料であるにちがいない。また そうであると宣言するかれらの中の人びとは 身体の面でもお金の面でも この善きサマリア人の例にならって 人びとに援助の手をさしのべることを惜しまないであろう。
しかしすでに この第一次的な《与ひょう あるいは サマリア人》の実践(心および身体の運動)を 《つう》のようにあるいはウェーバー社会科学のように もちあげることは みづからがすでに神のようになって 自分たちと同じ人間を 《裁いている》(マタイ7:1−6)のでないなら 何であろうか。つうは この与ひょうの実践(資本形成)をもちあげ 実は神となってのようにかれを裁いたその神の立ち場を 死ぬまで固執しなければならなかった。与ひょうは 知ってか知らずか 神に仕えつつ つうの矢を抜いてやった。しかるに つうは 道徳的な力に仕えつつ(それを神と思った) 与ひょうをもちあげつつかれを裁いていた。これは つうの神による与ひょうの神への侮辱である。なぜなら そのような価値自由的な認識 明晰および責任感を与えるという義務が 神に立つ自分の生だと錯覚(確信)したからである。
なるほど これは 《自己の守神(デーモン)に従う》やり方であるとは言わなければならないが そこに誤謬が存在することも 一目瞭然である。これらに対する批判(なんなら裁き)を わたしたちは 《価値自由的》に 時として語るのである。
わたしたちは 日本においては 大塚久雄その人の方法を 批判しています。
(つづく→2007-01-30 - caguirofie070130)