caguirofie

哲学いろいろ

#33

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

narcisses

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第十九章b 男の女に対する新しい関係

――アウグスティヌスは 《知恵の愛(フィロソフィア)》をもの足りなく感じていた――


男が ナルキッソス(ナルシス)であるなら 女は ナルキッサと言えると思いますが いま 夕鶴つうが ナルキッサであるとして捉えます。ナルシスについての思索を 詩のかたちで残したP.ヴァレリは 語ります。

水波女(ナンフ)らよ、汝らわれを愛するならば、常に寐(い)ぬべし。
・・・
罷(や)めよ、小暗き精霊よ、目醒めたる霊魂(たましひ)の中に
       おのづから成る 不安なるこの仕事を。
・・・
汝の視線に 完璧なるこの獲物を捕へて、
互に愛し愛さる怪物の俘虜の身となれ。
・・・
       いまはし・・・
         凶(いま)はしと誰かまた言ふ・・・おお 人を嘲ける者よ。
(P.ヴァレリ:《ナルシス断章 Fragments du Narcisse 》一・第七・80−81;85−86;93)鈴木信太郎訳)

〔なおちなみに この《ナルシス断章》の詩編エピグラフは 《われ胡(なん)ぞ 何者をか見たる( Ovide )》であります。また ちなみに 《ナルキッサの霊を鎮めるために》のエピグラフのあるもう一つの詩《ナルシス語る Narcisse parle 》では 次のような書き出しである。

おお兄弟よ、悲しい百合の花よ、君たちの裸体の中で
わが身が覓(もと)められたために、わたしは 美に懊悩してゐる、
そして君たちに向って、水波女(ナンフ)よ、水波女(ナンフ)よ おお泉の
水波女(ナンフ)よ、純粋の沈黙にわが空虚な涙を 献げてゐるのだ。
(ヴァレリ:ナルシス語る 1−4)

むろん 《霊を鎮める》とか《空虚の涙》とかの語句は 《前史》として――つまり 後史にあっては 霊を《鎮める》のではなく そのよみがえりを祈るのであり S者の《涙》は 《空虚な》ものでは 絶対にありえない。もし感傷からのなみだでないとするならば と――わたしたちは 観想することができるようになったのです。〕
けれども ナルキッサであるつうは 《つると かめとが すべった》ではなく 《つるつる つうべった》のです。かごの中から出やることができなかった。これに 先に挙げたかのじょの独り言が つづかなければならない。もし 日本のやしろの中で この《夕鶴》が 隠然・公然を問わず 猛威を振るっているとしたなら 一般に――つまりもちろん一般論は慎まなければならぬのだが それでも一般に――日本人は 共同自殺を共同幻想している。《汝らわれを愛するならば 常に寐(寝)ぬべし / 凶はしと誰かまた言ふ》と言われているのでないならば また この言葉を受け取るのでないならば アウグスティヌスと母モニカとの共同主観形成は成らなかったのです。後史に入ると 前史の色と金との世界からまったく無縁となるとは だれも思ってはならない。しかるに 本史なる愛は この金と色の世界から精神の徳によって立とうとする人びとが見出したところのアマテラス語普遍法(律法)を 成就しうる力を 何の苦もなく(何の価もなく=只で) そのインタスサノヲイスト後史人に与えたまうのです。このキリスト史観が この世で 時として 実現するようになるのです。

この御名(《本史》の御名)は 主よ あなたのあわれみによって あなたの御子 私の救い主の御名は 私のやわらかな心が まだ母の乳を吸っていたころ 乳の中で 敬虔に飲みこみ 深く保っていたものでした。ですからこの御名の見当たらないものは何であれ たとえばどんなに文学的で洗練され 真実を語っていても 完全に私をつかむことはできませんでした。
(告白3・4・8)

と先の引用文につづけて アウグスティヌスは 述べた。わたしは マルクスの《文学》にこの《御名》を見つけた。スサノヲのミコトの行為をとおして この存在の御名を知り あがめた。だから 語った。
この上の引用の文章によって 《アウグスティヌスが しばしば誤解されるように 異教からの改宗者ではなくて 母の胎からのキリスト者であり キリストはかれの出発点であるとともに帰着点であったことが これでわかる》(山田晶)と註解されることが 正しいかどうかが わかる。むろんわたしたちは 《母の胎からのキリスト者であ》ったことを自覚しつつ かれは《マニ教徒の罠に陥る》といった二重性の中に(いわゆる自己欺瞞の中に)生きたのではなく すなわち かれは 見せかけでマニケイスムの教師になったのではなく ほんとうにそうしたのだが 本史によって後史に立って それら前史のすべてが 過去の死者のよみがえりとともに 共同主観の中に捉え直されつつ そこでは――不遜に聞こえようとも―― 《罪を犯していた》とはっきり述べている。このうえで 《母の胎からのキリスト者(インタスサノヲイスト)である》ことが 確立されて(サンクトゥス)いったのであるでしょう。
かれは 罪をおかしていた(告白1・7)のであるが 《かごめ》ではなかった。

わたしは シオン(エルサレム=八重垣)に つまづきの石 妨げの岩(《うしろの正面》)を置く。
これを信じる者は 失望することがない。
イザヤ書8:14;28:16;;ローマ書9:33)

したがって 《信仰によらないで 行ない(精神の徳)によって達せられるかのように 追い求め》(ローマ書9:32)るなら 《かれらは つまづきの石につまづいたのです》(同上)。かれらは 《苦しいのを我慢して 何枚も何枚も織ってあげた》(《夕鶴》)と言うのです。《うしろの正面》を見ないで あるいはその意味と同じ内容として逆のかたちで言えば その背面であるかれが すでに 自己の美しい精神(じつは観念)の中にあると自分から熱心に信じて 《あんたはだんだんに変わって行く。・・・あたしとは別の世界の人になって行ってしまう。・・・〈おかね〉っていうものと取りかえて来たのね》(夕鶴)と批評することになるのです。
わたしたちは 与ひょう または かれを悪に誘い込むずる賢い友だちである惣どや運ずに対しては 容易に寛容でいられる。しかし それにも増して この《つう》の中に 人間の眼で見てはゆるしがたい関与不可能な存在を見るのです。これは 《忠臣蔵》の赤穂浪士たちのやり方です。自分で勝手に 人を裁いている。

      しんとした間――


子供の一人 (突然空を指す)あ 鶴だ 鶴だ 鶴が飛んでいる。
惣ど や 鶴・・・
運ず おお・・・
子供たち 鶴だ 鶴だ 鶴が飛んでる。(繰り返しつつ 鶴を追って駆けて去る)
運ず おい与ひょう 見や 鶴だ・・・
惣ど よたよたと飛んで行きよる・・・


      間――


惣ど (誰に言うとなく) ところで のう 二枚織れたちゅうはありがたいこってねえけ。(与ひょうの手にある布を取ろうとするが 与ひょうは無意識のうちに離さない)
運ず (与ひょうを抱えたまま一心に眼で鶴を追っているが)ああ・・・だんだんと小さくなって行くわ・・・
与ひょう つう・・・つう・・・(鶴を追うように 一・二歩ふらふらと。――布をしっかりと掴んだまま立ちつくす)


      惣どもそれに引きこまれるように 三人の眼が遠い空の一点に集まる。
      微かに流れてくるわらべ唄――


     ――幕――
(夕鶴)

最後に 《かごめ かごめ》のわらべ唄が《かすかに流れてくる》のが 微妙なのですが もしこの場面で 精神のアマガケリ(赤穂浪士らの美意識)が 讃えられている 讃えられつつ再生産されているとしたなら これが マニケイスムの教義に忠実なやり方であると言って わたしたちはこの罠から逃れなければなりません。
わたしたちは 吉良義央や 惣どや運ずやまた与ひょうのやり方を 非難する(嘆く)ことを怠っていたと見られようとも これらをあせって嘆くやり方を 批判する(内的に棄てる)ことが すすむべき道だと考えます。あせって嘆くのは 《人を嘲る者》(ナルシス断章)のやり口であるのですから 嘲られている義央や惣どや運ずや あるいは与ひょうの罪が わたしたちにも〔神への〕不従順として残っているであろうから これを棄てるべく そのアマテラス予備軍のやり口に対しては その一点で 関与不可能と見出して 嘲笑ってあげればよい。
〔もっとも そのとき かれらが先に《嘲っ》てもいるのであろうから まずそのことを認識して かれらへの関与の糸口をさえ見出す愛の力を 祈らなければならない。〕
《子供たち》が 《鶴だ 鶴だ》というのは つうに関する価値自由的な認識として ただしくあり もし わたしたちの価値観に立ってなら それは 関与が発生したときには 嘲笑ってあげればよい。
また 与ひょうは あたかもあのアウグスティヌスとその子アデオダトゥスの母である女性との別れを認識することをとおして 後史に立とうとしなければならない。このつうとの別れは いまだ前史に属するとさとらなければいけない。言うなれば 《閨の信実》(告白4・2・2)をつくしたのだから。
(つづく→2007-01-26 - caguirofie070126)