caguirofie

哲学いろいろ

#35

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Augustinus beim Verfassen von De civitate Dei;
N. Polano, 1459

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十章b 前章への補論

――アウグスティヌス 《知恵の愛》ではなく 《愛》を語る――


肉体に暴行を受けても 貞節(カスティタス)を決意してその悪には決して同意しなかった場合 そこにあるものは暴力を用いて性交した者の破廉恥な行為のみであって 暴力によって自分の意志に反して性交した女性のそれではない とわたしたちは主張するのであるが この主張の明瞭な根拠に対しても 敵対者たちは〔――《おかね》っていうものの世界の言葉がわたしにはわからないと言って――〕 あえて反対するのであろうか。
かれらに対してわたしたちは 捕らえられて暴行を受けたキリスト者の女性たちはただ精神だけではなく 肉体においても清くあることを主張するのである。
神の国について1・19・1)

もしこれが 真正のアマアガリに立つ主張であるとしたなら 《つう》の見解は アマガケリ――偽りのアマアガリ――であって すなわち なおまだ 色(肉体)と金のこの世に 実際は 空気のような身体をもって 生きていると言わなければならない。
もっとも わたしは卑俗的に言うのであるが 暴行や痴漢行為をみづから望んだ結果 そうなった場合には 何の免除も与えられないのであることは 言うを俟たない。前史の世界で つうの美を共同観念的な昼の徳として 共同心理において自己を律しているばあい 上のようなエートスは しばしば起こりうることを わたしたちは経験的に知っている。
精神(A語)にしたがってということは 肉(S語)にしたがってということと 同じこの地上の国の中にある。またそれは 木(十字架)の船(聖霊)に乗って この海を渡るのではなく あの空中の権能にしたがって――その誘惑を差し出す空中の権能=悪魔とは 死の仲介者のことであり―― 海の上を アマガケリしていることになる。その肉は この昼のアマガケリに〔反〕比例して 水面下に深く沈湎することになる。そうして この昼・夜の二元論そのものが さらに――《限度を超えて》(ローマ書7:13)――あらたな共同観念となって この律法のもとではあたかも是認されたものであるかのように見なされ 共同自殺へとすすむのです。《なすべきことは ただ一つ うしろにあるものを忘れ 前にあるものへ心を集注して身体を伸ばす》(ピリピ書3:13−14)ことである。
《しかしながら わたしは次の点について触れないですますわけにはいかない――と言って アウグスティヌスは述べる――。すなわち

暴行を受けた女たち(むろん わたしたちは おかねの世界に引き入れられた与ひょうたち つまり 労働の二重性の世界で 抽象的人間的労働(A語客観普遍的な労働行為)というアマテラス語価値の幾何学的な商品体系の中で 具体的有用的労働=S者性を発揮せざるをえない場合の与ひょうたち すなわち 現代人のわたしたち)は 節欲という徳が肉体にかんする善のひとつであって 肉体が情欲(物神崇拝)によって汚されない場合にのみ存続するということを理解しても それが神の助けを受けた健全な意志の中に存在し 肉体と霊とをきよめるものであること またそれは意に反して取り戻すことのできない善ではないということを 理解することができないのである。
しかしかのじょたちは おそらくこういう誤解を捨てたことであろう。というのは かのじょたちはどんな良心をもって自分たちが神(やしろ資本推進力)に仕えてきたかを考え また神がそのようにご自身に仕え かつ祈り求める者たちを決して見捨てたまわないという不動の信仰(このもとに 理論はある)をもって知ったとき また神が貞節をどんなに喜びたまうかについて疑うことができないとき 必然的に次のようになるからである。
すなわち 神がかのじょたちにゆだね かつそれがかのじょたちの中に存続することを欲したまうところの清さが もしあのような仕方で滅びうるものであったなら 神はそのような災いが ご自分の聖徒たち(インタスサノヲイスト)に起こることを決して許したまわない ということである。
神の国について 1・28・2)

だから この本史のもとには 前史と後史とがあるのである。うしろにあるものを忘れ 前にあるものへ心を傾注して身体(S者)を伸ばすのである。
けれども わたしたちがこのように言えるのは すでに《神学の秘密は人間学である》(フォイエルバッハ)との命題を 通過したゆえにである。(だから 神の語を用いることができるし また 用いても それが 宗教の神・アマテラス語精神という神に引き行かれる気づかいはないということだ)。
けれども つうは この後史に到達しなかった。なぜなら 精神において その徳の行ないによって 本史を見ており そこに後史が存在すると信じきっていたからである。この精神の信仰に人びとを渡そうとしたことになる。三島由紀夫の事件ではないが そのアマガケリを実際の天翔けりつまり死によって 証言しなければならなかった。なぜなら 真正のアマアガリにおいて 信仰とは あの〔神〕直視のときには わづかにそのように信じていたという記憶のみが存在し 信仰じたいは 消えてなくなっているものだからである。つうを――あるいは 三島由紀夫を―― このように批難することによって わたしたちはかれらの復活を祈る。そうでなければ アマガケリゆく信仰(つまり 精神を神として信仰する信念)が 永遠につづくことになる。もちろん したがって つうを支持するアマテラス予備軍の人びとは この共同観念なる精神の徳主義が 永遠であると言うことができるかも知れない。信教・思想は自由である。


これが ヘーゲル批判と 同じような類型でかつ別種のかたちにおける批判の問題であり――なぜなら このもうひとつの《純粋思想》の類型は あくまで S者の立ち場を堅持している―― 一般に ウェーバー批判というべきことがらであり さらに同じく言うまでもなく アマテラス予備軍の解放という課題のそれである。
なおちなみに 《精神において 〔精神の美のみなもとである方を〕認める》人びと すなわち このS者の立ち場に立つ知恵の愛の行き方を生きるのであって それを 主義として説こうとするのではない人びとは 《逆らわない者は わたしたちの味方である》(マタイ9:40)と考えられるゆえ あの《精神において神を理論し説教するA者予備軍》とは 別であるとわたしたちは 見出していなければならない。
さらになお わたしたちは 《夕鶴》の作者 木下順二が わたしたちの敵であるアマテラス予備軍の一人であるとは 一言も言っていない。しかしそれは わたしたちには 分からない(コリント前書2:11;告白10・5・7)ことであると同時に わたしは そうであると考える。つまり 後史にあっては そこまで言うべきと考えられた。ウェーバーの方法には 基本的な方法として 明らかに誤謬があるとわたしたちも思う。
(つづく→2007-01-28 - caguirofie070128)