caguirofie

哲学いろいろ

#39

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Fertile Moab

Moab is the land where Ruth lived. She married one of the sons of Elimelech and Naomi, before following her mother-in-law to Bethlehem.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十二章b 前章への補論(または 方法の滞留ということ)

――アウグスティヌスの後継者としてのマルクスの《学》――


無神論の人間愛は だから最初はただ哲学的な抽象的人間愛(客観A語弁論術による資本形成)にすぎないが コミュニスムの人間愛はそのまますぐに実在的であり ただちに活動しようと緊張している。
マルクス経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2) 3・2)

ただ これがなお 方法における滞留ではなく いわば滞留への滞留とも言うべく ほかならぬ理論(地図の作成)においてかれは 聖書の二番煎じをおこなってしまっているのである。つまり むしろ 信仰・共同主観の直接の表明のごとく表現している。
アウグスティヌスは 古い時代の人として 《告白》のかたちで 方法の滞留をなしたのであり これは 神への告白・神の讃美であることによって たしかに《地図》でもあり マルクスはこのかたちを嫌った・採らなかった分だけ 自分で地図ではなく聖書そのものを書いてしまった。なぜなら 《告白》は 地図としても読むことができるが 上のようにマルクスが 《コミュニスムの人間愛は・・・》というように 表明しまた規定したなら――規定とは 規定を外れたものの否定を含むばあいがある―― 地図ではなく 地図を持って出かけているその人自身のありようを描いたからである。地図などなく 行動している人のありようを描く場合は また別だと思われる。
これを描くことじたい さして問題はないが この描写が 規定するかたちで述べられたことは それが人間自身のありようを捉えているから その描写そのものが あたかも神そのものであるとさえ捉えられがちである。《コミュニスムの人間愛は・・・》という規定は これを人間が信じることではなく 信じている人間がその行為の過程でその自分自身を 内的にとらえて そのように聞くことばである。しかし ウェーバーは この真実のことばを あたかも真理(神)としてのように 理論的に学的に捉えようとしていったのだ。あるいは逆に 自己が神の立ち場に立ってこの真実のことば(だから 可変的である)を内的に分析して示すと言ってのように 《他の文化諸領域において》 理論化しようとした。
いわばこの中間にいるアウグスティヌスに わたしたちは 表現された方法としては 依拠するのであるが かれの《告白》という形式じたいは すでに或る種の仕方で言って旧いものであると考えられる。
もしあえて わたしたちも 規定的に そしてウェーバー学派にもわかりやすいように言うとすると わたしたちは 《馬に水を飲ませることができない》が これを学的な限界とはして しかも人間的な限界とはしないで そうして 他の人が水を飲むことを祈るのである。祈りそのものを言葉にして表わすことは 詩であるだろう。ヤシロロジにおけるインタスサノヲイスムは この祈りを 価値自由的にあらわすであろう。
《各人のデーモンにではなく やしろの資本連関の第一原因にしたがう》ことを 欲するからだ。《学の限界》のあとの《暗示》ではなく しかも《或る立ち場を強いる》のでもなく 互いに啓発する。《与ひょう》がそうしなかっただろうか。もし与ひょうが これを自覚的にしていなかったとするなら その分だけ(前史である分だけ) 共同主観の相手である《つう》は これを 啓蒙として受け取ったであろう。また そうでないなら 共同主観的な《地図》の提示(前提的な価値自由的な議論)のあとの《暗示》として受け取った。ウェーバー学の人びとは この《つう》のほうを 時として 宣揚するのだ。
わたしたちは 《やしろの資本連関の第一原因は 神じたいだ》と 学的に(だから価値自由的に) かつ明示的に――これまでの歴史を受け継ぐかたちとしては―― 表現する。これが 学( disciplina =訓練)だとも言う。ただ このことがそのまま 同意を得られそうにないとするなら わたしたちは すでに信じている人びとに対して 書いていると 留保条件をつける。けれども すべての人に理解されるように書くことが はたしてありうるであろうか。あえて言うとすると これが 学の限界なのではないだろうか。けれども この限界をもった学(共同主観形成は 自己の修練である)が 《ドイツのライン河の航行の自由のように 〈海に至るまで〉しか伸びていない》(《キリスト教の本質》)というのは――フォイエルバッハも叫んだように―― うそである。
もっぱら客観をめざすアマテラス語理論でさえ 実際には《暗示》的に 伸びようとしたのである。また そのようなイデオロギ・価値観は みな誰もが持っている。けれども その《暗示》のやり口が あの《かごめ》の《とりもち》なのだ。ウェーバーの学的方法は あのやしろ資本推進力なる唯一の神に立つと言ってのように この神々の・つまりいろんなイデオロギの《暗示》のやり方を 世界史的な土俵に引き込みつつ その固有の方法においては それらすべてを是認し むしろ暗示の王国をたたえたのである。通俗的に言って まだるっこしい。

  • これは 最大限の批判として言ったものである。もし わたしたちも もっとも頑ななかたちの最大限の批判をなそうと思えば このようなウェーバー流の方法をも神は善用すると信じるということだ。なぜなら このまだるっこさが 現代のモラトリアム人間を生んだのであり――もっとも 実際にモラトリアム人間の症状を訴えている人びとは ただふつうの人びとがそうであることに対して 過度に譲歩した結果 そうなったのである。一般的に言って このまだるっこしい生の方法の中で モラトリアム人間にならない人は 熱心にこの方法を神として信じているからだ―― そうしてあのマルクスが わたしたちのインタスサノヲイストの方法を証言しつつも わづかにその滞留をまだ明らかにしなかったとするなら この方法の滞留は あやまったアマガケリなるまだるっこしいウェーバー流の方法の一般化の中から 確実なものとして生起してくるであろうと予言しうるからである。ウェーバー流の方法の一般化とそれによる実践猶予のモラトリアム人間なるエートスの問題である。つまり まちがった方法の滞留であろう。もっとも このようなわたしの議論は 非学問的な言動ではある。

そうしたことがらとの関連で ここで ヴェーバーのいうヴェルトフライハイト(価値自由)ということに ちょっとふれておきましょう――と大塚久雄は言う――。
ふつう没価値性などと訳されるヴェルトフライハイトは もちろん価値判断を不当にまじえたりしないで ことがらの真実を冷静にみきわめていくということですが しかし それは そもそもことがらを見究めるための視野を設定するのに必要な価値観をさえも含めないということでは決してないのです。むしろ そうした問題ないし視野を設定するのに必要な価値観点を主体的に選びとる その自由こそが ヴェルトフライハイトのなかに入っているわけです。・・・
大塚久雄社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス (岩波新書) 1)

ここに見る限り ウェーバー流の方法は 価値観からの自由だけではなく 価値観への自由をも言っているということになります。しかし 後者は次のように説かれることを その内容としています。つづけて――

いや そうしたいわゆるヴェルトベツィーウング(価値関連)の問題だけに止まらない。誤解を恐れずにいえば 対象化された形ならば価値判断はむしろ研究過程で積極的に取り入れられていなければならない。彼(ウェーバー)のいうヴェルトインテルプレタツィオン(価値解釈)がそれなのです。
(承前)

神が 《対象化された形》で――《対象》であることは(つまり 非対象の対象であるが)認めたとしても 《形》で――学の中に 価値判断として 取り入れられるであろうか。価値観への自由として 《形》となって 取り入れられるであろうか。それは 《守護神・デーモン あるいは 運》また《エートス》のことであろう。それらに限られるであろう。
したがって 価値観への自由は それは《価値解釈》なのだというかたちで なお留保されたのである。あるいは もっといぢ悪い批判をするなら 必然の王国の中での奴隷の自由へと貶められたのである。けれども 大塚さんは――むろんかれは 神についての思惟をも著わしている―― 神を選びとった(神から選ばれた)ことを 価値解釈するのであろうか。または そうでないから いわゆる学とそして信仰とを 二つの別々の領域とするのであろうか。
《職業 Beruf 》が 《召命 Beruf 》なのであり 《職業としての学問 / 政治・・・》とそして信仰(共同主観)とは 互いに別のものであるのだろうか。少なくとも 学の方法と信仰とが 互いに別のものなのであるだろうか。学の方法では 《価値解釈》を言い(あるいは そこまでであり) 信仰者としては ひとつの価値観の形成者としての自己の存在を あらわすのであろうか。むしろ 信仰にあっては共同主観者として 前史にのぞんで《価値解釈》をも行ない 学( disciplina )にあっては 一個の《わたし》の価値観形成を むろん価値自由に そして一般には間接的に あらわすのではないだろうか。
つまり 後者にあっては 《問題ないし視野を設定するのに必要な価値観点を主体的に選びとる その自由》などということは ありえない。この自由は 学のものではなく 信仰のそれである。わづかに この《主体的な選択の自由》はそれがあるとするなら 職業選択の自由であり 学問という職業の中での研究領域の選択の自由であるにすぎない。
学問の分野の問題は 主体の価値観(主観である)を制約することなく たとえばマルクス(《資本》からの文章を引用して掲げた)のようにむしろ 直接には研究対象を論じつつ その主観(その共同)をこそ――分野の別なく――あらわすのではあるまいか。もしマルクスがこれに成功したとするなら この共同主観形成としての学( sciences であってもよいが必ずしもそれではなく 基本的に disciplina )は 始められていると言わなければならず もし失敗したとするなら それは 失敗ではなく 成功が保留された。(なぜなら 方法として成功し 方法の滞留として確立されなかった。アウグスティヌスはこれを確立したが かれは ヤシロロジとしてはこれを著わさなかった)。
けれども そのいづれであるとしても ウェーバーの価値自由(価値観からの自由と自由なる価値解釈)は むしろ このディシプリンとしての学を阻むものである。なぜなら 主観共同化を アマテラス語客観共同(価値解釈とはこのこと)へ連れ行くものであり スサノヲ者の自己のアマアガリ(= disciplina )をではなく 人びとのアマガケリ(したがって 空中のA語客観共同)を 是認して促しているのである。――水を飲ませることはできないという限界が設定されたから そのことは当然のようでありつつ 実際には かれらが 他面では この限界を超えた存在の暗示をしていることより この学的方法は 《時代または社会の要求》に――前史という観点から見て――沿っているし また それだけだとわたしたちは 思っている。この偉大なる暗示を 後生大事に 戴いているなら きみたちは 安泰だと言っているようである。暗示としては 幅広いものだからでもあるが 神を指していることがありうる。つまり まだるっこしい。極端に言えば じれったさが 犯罪になりうる。
(つづく→2007-02-01 - caguirofie070201)