caguirofie

哲学いろいろ

#32

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第十九章a 男の女に対する新しい関係

――アウグスティヌスは 《知恵の愛(フィロソフィア)》をもの足りなく感じていた――


ヤシロロジの観点の導入にあたって 前二章において その前提をとらえた(再確認した)とするならば インタスサノヲイスムの原理的な観想をよく表現する《告白》を基礎とし やしろの全般的な領域にわたって 自由にわたしたちは 論議をつづけることができる。


《告白》第四巻第四章は 《キケロの〈ホルテンシウス〉を読んで 哲学への熱情に駆り立てられた》ことを語っている。この《ホルテンシウス》の書は 《哲学の必要性 哲学者たちの説の紹介 徳にかんする議論をふくむ。この書の中にふくまれている〈すべての人間は幸福をもとめる〉という命題は アウグスティヌスの思想に決定的影響を与えた》(山田晶)と言われるものです。アウグスティヌスの回想と告白とは――。

私はといえば・・・あのキケロのすすめの中で あれやこれやの学派ではなくて 知恵そのものを それがいかなるものであれ 愛し探求し獲得し保持し強く抱擁するように かれのことばによってはげまされ点火され燃えあがったということ ただこれだけでうれしかったのです。ただ一つ そのように燃えあがりながら ものたりなく感じたのは そこにキリストの御名(《本史》)が見あたらないことでした。
(告白3・4・8)

ところで 《知恵そのものを 愛し探求し・・・するように はげまされ点火され燃えあがった》ということは――それだけに限定されるなら―― 精神の徳を第一とするマニケイスムあるいは《禁欲博士たち》のやり方にほかならなかたのでした。そこで 《つう》が ひとりごちて言うには――

つう 与ひょう あたしの大事な与ひょう あんたはどうしたの? あんたはだんだんに変わって行く。何だか分からないけれど わたしとは別の世界の人になって行ってしまう。あの あたしには言葉も分からない人たち いつかあたしを矢で射たような あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう。どうしたの?あんたは。どうすればいいの?あたしは。
あたしは一体どうすればいいの?・・・あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。それがほんとに嬉しかったから あたしはあんたのところに来たのよ。そしてあの布を織ってあげたら あんたは子供のように喜んでくれた。だから あたしは 苦しいのを我慢して何枚も何枚も織ってあげたのよ。それをあんたは そのたびに《おかね》っていうものと取りかえて来たのね。それでもいい あたしは あんたが《おかね》が好きなのなら。だから その好きな《おかね》がもうたくさんあるのだから あとはあんたと二人きりで この小さなうちの中で 静かに
楽しく暮らしたいのよ。あんたはほかの人とは違う人。あたしの世界の人。だからこの広い野原のまん中で 畑を耕したり子供たちと遊んだりしながらいつまでも生きて行くつもりだったのに・・・だのに何だか あんたはあたしから離れて行く。だんだん遠くなって行く。どうしたらいいの? ほんとにあたしはどうしたらいいの?・・・
木下順二夕鶴 (日本の文学 (10))

そこで この《つう》が 精神の徳を第一(神)としたのでした。《あたしの世界の人》とそしてたとえば《〈おかね〉の世界の人》とを 言葉の綾で 分けるのならまだしも かのじょは 一人だけアマガケリゆき去ってしまうまでに 分離していた。そういう二元論でもある。
かのじょが 《どうしたらいいの》かは この独り言の場面の直前に 次のような《子供たちの遊びのうた》によって 示されているのです。

子供たち かごめかごめだ。(つうのまわりに輪を作って回り出す)

かごめ かごめ
かごのなかの とりは
いついつ でやる
よあけの ばんに
つるつる つうべった
うしろの正面だあれ うしろの正面だあれ
うしろの正面だあれ

よう おばさんよう。目隠しせんか。かごまんか。おばさんよう。
夕鶴 (日本の文学 (10))

《おばさん》のつうが 《かごの中のとり》であります。《いついつ でやる》かと言うと 《夜中に 盗人のように やって来るキリスト(本史)》の時 であります。《よあけの ばん》が 《後史の懐胎(=よあけ)》としての《前史の終末(=ばん)》。このとき 《つるつる つうべった》とき 《うしろの正面》すなわち《神の背面(=キリスト)》を 見る(出エジプト記33:23)というのです。
あのアウグスティヌスの  《少年か少女か知りませんが 子どもたちの遊びのときのうたの一句 〈とれ よめ〉》ではありませんが 《おばさん=つう》は このわらべうたに耳を傾けていてもよかった。傾けるべきでありました。ここでは アウグスティヌスと違って しかし哲学の知恵(精神の徳)を愛していたのなら 《ものたりなく感じたのは そこに キリストの御名が見あたらないことでした》(告白3・4・8)と言わずに かれを見出していてもよかったかも知れない。《取って読む》必要なく そのわらべうた自身が キリストを預言していたのですから。
《かごめ》とは 《め》が スズメ・ツバメ・カマメ(鴎)のメと同じように 鳥をあらわすのですから かのじょは 《かごめ かごめ》と呼びかけられて 《うしろの正面だあれ》と問いかけられたのです。この声によって 《はげまされ点火され燃えあがった》(告白3・4・8)としても――まずは それだけでも――よかった。
《つるつる つうべった》の句は 《つるとかめが すうべった》など ところによって変わった詞で うたわれています。わたしは 後者の句の例は 男と女の性行為をあらわしていると考えます。このとき ふたりは 《神の背面(うしろ)を見る》と言われたのです。《それで人はその父と母を離れて 妻と結び合い 一体となるのである。人とその妻とは ふたりとも裸であったが 恥ずかしいとは思わなかった》(創世記2:24−25)と書いてあるとおりです。
ところが あの精神と身体との二元論に立つことを誇りにするマニケイスムは 精神の徳・知恵の愛の第一主義というあやまったスサノヲイスムにのっとって 身体を空気のようなものとなし あやまった精神の知力によってアマガケリする自己を 愛するのです。自己の愛が ナルシシスムであることは 言うまでもありません。ナルシシスムに立つ者が 《かごめ》であります。また この《自分がかごめであること》を 人びとの共同の観念として 一個のムライスム=掟=律法とし つまりその意味での《昼》の世界として この《昼》に背向き《律法》を犯すことによって 《夜》の世界で かごから脱け出し つるとかめとがすべるというその無知によって掻き立てられた想像力と欲情とによって 対関係の共同主観形成へみちびかれるのだと 人びとは あやまって理解したのです。
つまり神(やしろ資本の共同主観的形成への推進力)でないものを神としている。かれらにとっては 夜の罪を 昼の精神の徳の想像(幻想)が蔽い このしんきろうの館の中で 資本が形成されるという具合いです。談合しかり ゆすり・たかりの構造しかりなのです。スサノヲは かごの中に寄留しつつ どこまでも滞留しつつ 自分からではなく A圏タカマノハラから遂に追放されて そのアマクダリの中に真正のアマアガリを見ました。これを イヅモ・コムミューヌ=スサノヲ八重垣共同体にて 共同主観し やしろ資本形成していったのでした。A圏に譲歩し A者の人びとのアマアガリを俟ちました。これが われらが日本のキリスト史観 キリスト史観として見たわれらが日本です。
(つづく→2007-01-25 - caguirofie070125)