caguirofie

哲学いろいろ

#9

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§10a

また 語義の場合と同じくその思想も

  • ウェーバーは述べていく。思想という場合は 基本主観の同感理論のことである。その思想も

新しいものであり 宗教改革の産物であった。――このことはともかく周知の事実だと云えよう。
――といっても この Beruf (職業)という観念の中に含まれている世俗的日常労働の尊重の事実は その萌芽が何らかすでに中世に いやすでに古代(後期ヘレニズム時代)にさえも存在したことを否定するものではない。――これらについては後に述べることととする。が ともかく

  • ここからが 一つのまとまった議論である。ふたたび・みたび確認したいので ながながと引用する。

さしあたって次の一事は無条件に新しいものであった。
即ち世俗的職業の内部における義務の履行をおよそ道徳的実践のもちうる最高の内容として重要視したこと これである。このものこそが その必然の結果として 世俗的日常労働に宗教的意義を認める思想を生み そうした意味での職業観念を最初に作り出したのである。

  • このあたりの説明は一見よさそうであり これに対してわれわれは 注意しなければならないと思われるが・・・。

つまり この《職業》観念の中にはあらゆる教派のプロテスタントの中心的教義が表出されているのであって カトリックのようにキリスト教の道徳誡を《 praecepta (命令)》と《 consilia (勧告)》とに分かつことを否認し また修道僧的禁欲を世俗内的道徳よりも高く考えたりするのではなく 神によろこばれる生活を営むための手段はただ一つ 各人の生活上の地位から生ずる世俗内的義務の遂行であって これこそが神から与えられた使命に他ならぬ との考えがそこに含まれている。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)§1・3 pp.110−111)

だから これは けっきょく こういう心理的な起動力がはたらいたと ウェーバー自身も 言っているにすぎないのだが われわれの立ち場は 《一時的に(かなり長い一時的に)こういった使命としての職業観念がブームとなる。時にそのガリ勉の熱心によって ゆくゆくは資本主義の社会が形成された》といった見方すら 無条件には採らないところにある。これを証明したい。
論証の前にあらかじめ 対抗命題のかたちで言えば 

こういうプロテスタンティズムの倫理が 資本主義の精神たるエートス――あくまでエートス――をつくった もしくは残した ということがあっても それは 近代市民たちの社会の――アブラハムの系譜の人びとの―― 一つの傍系であるということ。 
この傍系の《使命感にあふれた熱心》にわたしたちは 譲歩してきた その意味で随ってきた。
そして《使命》というならば その譲歩する無力の自由の精神の 動態としての保持 これこそが それであったということ。

ところが 《勤勉・禁欲・倫理・義務・職業観念・道徳そしてこれらの 心理エートス的な味付けたる宗教的意義》は 後行する経験領域に属し かんたんに言えば 事後的なものであり結果状態である。すなわち 先行する基本主観の主流・基軸は 《アブラムは時に主が言われたように 出で立った》(旧約聖書 創世記 (岩波文庫)12:1−4)ことである。この場合は 住んでいた土地を離れて旅立ったということであるが そしてもし 神秘だとか はては神がかりであるとかの誤解をここから除いておこうと思えば アブラムはここで このことばを 自己の主観基本で受け取り 理性的に知解し自由意志で そうしたのである。なぜなら この声は言っていた。《あなたを祝福する者をわたしは祝福し あなたをのろう者をわたしはのろう》(同上12:3)と。先行する基本主観で 主のことばを受け取ったが 後行する経験領域で かれを《祝福する者 あるいは のろう者》のあることを予想し これに対して 自己の――つまり 人間の――同感行為による推測・判断をおよぼしている。すなわち 《行け》そして《出発しよう》というのは かれの単なる主観――いわゆる主観的なもの――にすぎないのであるが 同時に 経験的なものに対する思考をおこなって(すなわち 経験科学的な行為関係や法則の問題でも 思想として 知解をあたえ) ゆえに全体として それは 先行する共同主観に根ざしていると 考えたのである。ゆえに ここから 《勤勉・倫理・義務・職業》が 後行して 生じる。

  • 《祝福する者 のろう者》の現実――だから人間どうしの交通関係との絡み――ゆえである。

《義務》は 共同主観に後行して それの必然的な結果である。《義務の遂行が 神から与えられた使命にほかならぬとの考え》は そこには まったく起こっていない。起こりえない 基本的に。基本主観において 《おこなえ / おこなおう》 ゆえに 《おこなった》 そしてそこに 考えてみれば 義務の遂行があったと認識できる。《義務をおこなえ》という声も 聞かれないではないだろうけれど 《義務をおこなえ》を初めに義務とする考えは 起こらないし それは 《考え》――事後経験的な一つの同感理論――でしかない。

  • 信仰というものは むやみやたらに何ものかを神と関係づけるものではない。後行するこの世のものは むしろまず神と関係ないと捉えるところから始まる。無神論と共通の初発の地点である。

微妙な事例を一点のべよう。《義務をおこなうことを義務とせよ》との声は そしてまたそれを義務とせよ・・・というように 無限に はじめの《おこなえ》を自乗していく声は 持たれるかも知れない。わたしたちは それだとしたら 時に ここで起ち上がるのであって ここで起ち上がるとの考えを 義務とするのではない。わたしたちが従うのは 先行する基本主観における声・ことばにである。
もちろんそれには すでに上に触れたように 経験領域にかんする考えが付随することを 排除しない。わたしたちの心がかたくなであるとき この経験領域に対する考え――そういう同感理論の一端 つまり そこで推理されたことにもとづき いま《おこなう》行為には 通俗的にも 勝算があるとの考え――を 排除していないし むしろ われわれは この経験法則にのっとるような見通し(または理論的な正しさ)によってこそ ふるい立たされるというものであるかも知れない。
けれども この時にも――つまり 一般に 利己心・自己保存の心に 同意し訴えるときでも―― 事の真相は 基本主観が先行し これによってわれわれは立ち上がるのである。それ以外に ありえない。われわれは 欺かれるかも知れない。欺かれること・死ぬこと・わずらわされることを 欲していないからである。
基本主観が まさしく共同主観として 先行して存在していなければ 義務といった概念じたいが 起こり得ないであろう。或る人には 義務とされたかも知れないが 別の或る人には そうではないということは 難なく起こりえて 後者から見れば 前者は 自分勝手に空想して何の意味もなく 義務ということばを使っているのだなぁということにしかならない。
先行する共同の主観基本によって 事をおこなうとき 倫理とか義務とかいう語も ついてくる。それゆえ 或る人が 義務というなら ああそれは 先行精神によって言っているのだなと 同感をおよぼす。かくて ルターが言ったという《職業義務》も それなりに 人びとによって 受け取られ 社会的なつきあいとしての文明情況の中で 議論される。そういう事後的な認識としての 考えも あるのだなぁと。そして われわれの 義務にかんする議論は ここまでなのである。

アブラムの九十九歳の時 主はアブラムに現われて言った。

わたしは全能の神である。
あなたはわたしの前に歩み 全き者であれ。
わたしはあなたと契約を結び
大いにあなたの子孫を増やすであろう。

アブラムは ひれ伏した。神はまた彼に言われた。

わたしはあなたと契約を結ぶ。
あなたは多くの国民の父となるであろう。
あなたの名は もはやアブラムとは言われず
あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。
わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。
・・・

神はまたアブラムに言われた。

あなたの妻サライは もはや名をサライとはいわず 名をサラと言いなさい。わたしは彼女を祝福し また彼女によって あなたにひとりの男の子を授けよう。・・・

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)17:1−16)

ここで アブラハムはその基本主観には 先行する精神じたいにさらに先行する何ものかのちからが やどったと表現してもよく そのこころは かれの主観基本が 人びとに普遍的な共同主観であることが いよいよ確立された(聖となった)ことである。

  • 最終的には 人間にとっては 確信の問題である。

当然このアブラハムの系譜につらなることを志したルターは ウェーバーの見るところによると。
(つづく→2005-10-03 - caguirofie051003)