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哲学いろいろ

明日香・石神遺跡

  • 大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ(作者不詳、19-4261) の万葉歌は、壬申の乱が収まった後、大海人皇子(=天武天皇)が明日香の地に都を据えたことを詠んだ歌とされています。飛鳥の都には宮殿や寺院と共に、池と石造物を有する庭園施設が作られていたことが最近の発掘調査の結果などから判明しています。
  • 石神遺跡周辺の庭園が最も整備されたのは斉明朝の時期であったとみられていますが、その後も何度か改修が繰り返されたため、発掘調査を行うと異なる時代の遺構が重なり合ってみつかるそうです。
  • 石神遺跡については奈良文化財研究所(奈文研)によって、ここ十数年間毎年少しずつ場所を移動しながら発掘調査が行われています。
  • この発掘調査により石神遺跡は何度か再構築されており、その遺構が重なり合った形で地中に埋もれている事が判りました。概ね水落遺跡周辺から毎年北に向かって発掘調査を行い、飛鳥資料館前から雷(いかずち)を経て甘樫の丘の北側を経て橿原神宮方面に至る道路に近いところまで調査が進行しました。この現代の道路が古代の「山田道」とほぼ近い場所にある、(もしくは完全に一致する?)と考えられており、このまま調査を続ければその点の解明も近いのではないかとのことです。 -また飛鳥時代はまだ紙が普及しておらず「木簡」とよばれる木片に墨で文字を書いた物が公文書として使用されていました。木材は空気を含む土中に埋蔵された場合、永年の間に微生物によって分解されてしまって原形をとどめなくなってしまうのが常です。
  • 石神遺跡では地下水位が高いため、木簡が水分を多量に含んだ泥に埋もれていました。そのため空気が遮断されて、1300年以上も前の木簡が判読可能な状態で出土する事が良くあるそうです。昨年(2002年)の発掘調査でも大量の木簡が埋蔵されている場所がみつかりました。貴重な木簡を破壊しないため、土砂ごとコンテナボックスに入れて研究所に持ち帰り、丁寧に水洗いして木簡を取り出す作業をしているそうです。(2003年04月11日)

http://www.asukanet.gr.jp/natter/essay/e03.html