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哲学いろいろ

#66

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Vallée de Jizreel
Aussi connue sous les noms de Campus Legionis, Vallée d'Esdraelon , Plaine de Meguiddo, Merj ibn-'Amir

Depuis le Mont Carmel

La vallée spacieuse de Jizreel s'étale du nord et de l'est du Mont Carmel, pourvoyant un passage adapté pour les voyageurs internationaux des temps passés. Le sol alluvial fertile fait de cette endroit l'un des plus prospère du pays. La Bible parle du rassemblement d'une armée dans cette vallée au lieu dit Armageddon.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第三十六章b ウェーバーイスムへの最終的批判

――アウグスティヌス 否定の否定を語る――


内田芳明:ヴェーバーとマルクス―日本社会科学の思想構造における内村鑑三をからませた大塚久雄の学問等についての議論のつづきである。

無教会的福音信仰(つまり内村イスム)とその激情の中で生成した独立自由なそして開かれたとらわれざる精神(精神!――引用者)があってこそ始めて大塚は マルクスにもヴェーバーにもとらわれざる自由な精神で立ち向かいえたのであり またその自由の精神こそは両者の間の緊張(これがあるとして――引用者)にも耐えることを大塚に可能ならしめたものと解せられる。
(内田芳明:ヴェーバーとマルクス―日本社会科学の思想構造 §71)

けれども 《真理がきみたちを自由にする》(ヨハネ8:32)のである。
《神(真理)の認識》が自由にするのではない。また《自由な精神》が 《神の認識》を得るのではない。《人間の悲惨》というのであれば われわれは《死んでいた》また《奴隷の自由》に立っていた。この《死を 殺す》のは やしろ資本推進力(その信仰)である。リベラリスムというのは この信仰を持つ持たないが 人間の自由にまかされているということにほかならない。

しかしここで心に留めおかなければならないことは 《殉死》《腹切り》それに《仇討ち》(つまり 大塚による内村のである――引用者。以下同様)という三つの恐ろしい風習に 最高度の発露を見せた昔の日本人の忠義の宗教(矢内原忠雄は 内村に矢を放った。忠義だったから また このような昔の風習にとらわれざる独立自由な精神を持ち得て そうせざるを得なかった)は その範囲がまことに狭いということである。
それは社会機構(やしろシステム すなわち A‐S連関体制とその共同観念)そのもののために制約されていたのである。この国民はそのあらゆる集団を通じて どこででも同じ性質の義務観念に支配されていたのではあるが(――あるいは むしろ《譲歩の精神》に富んでいたのであるが――) その義務の範囲が各人各自がその所属している民族群(学派)より外にひろがってゆくことはできなかった(ハーン:神国日本―解明への一試論 (東洋文庫 292)§14)だけなのである。
(内田芳明・前掲書の文章を利用しつつ)

この《ナシオナりスト共同観念・スーパーアマテラシスム》は すでに建て前(法律)としてだけでも 葬られたのである。現実を見ると そうではないではないかではなく だから われわれは 独立自由な精神を堅持して 自由な学を打ち立てるのだではなくして この自由主義(精神)をもわたしたちが用いることができるということ 用いて行くことによって 自由とされるのである。
なるほど 独立自由な精神(ここでは スーパースサノヲイスム)にもとづくなら マルクスウェーバーも それぞれの解説をして示すことはできる。しかし マルクスは 自由な学そのものを打ちたてようとして 表現していったのではない。それをしたのは ウェーバーである。マルクスは《狭い範囲》ではなく国際的に また《風習》に対してではなく法的制度(なんなら人びとの思惟=行為の形式としてのエートス)に対して 当時の情況において そのまま 立ち向かったのである。ウェーバーは この思想(その行為)に立ち向かったのである。マルクスの時代の時代性とその後の《有教会的実践(労働者協会)》〔なる一面〕が ただ その方法の滞留をよく捉えなかったのみである。
けれども これらを 価値自由に――そのとき 価値解釈を保留していないとするなら たしかに神もしくはデーモンを 暗示させつつ―― 認識してやろうというのは 人間の傲慢である。人間は自由だから このことが出来ないことはないが 《マルクスヴェーバーとの間の緊張》などなく それをあると言って これに耐える《自由の精神》を称揚するというのは 《空想迂僻のスーパー大天狗なり》と言われたとしても 不思議ではない。マルクスは そのはじめの死が殺され得て 自由に活動した。ウェーバーは この第一の死つまり奴隷の自由とそして後史の自由とを アマガケリの地点から 平面的に捉えようとし 両者の自由のあいだに緊張関係があると解説した。それは アマガケリの単独分立・無関心の自由が まことに心もとないものであり この葛藤を 《マルクスの後史の自由とウェーバーの無差別自由》との間に反映させつつ捉え これを《緊張》と言うのである。
このような《自由》の思想の持ち主である大塚せんせい自身が おそらく 身の危険(魂の死)を感じて《ボディガード》を欲しがっていたのであろう これを法政大学の学生は察して それはおとぎ話ですよとおしえてあげるべく 《忠義の宗教の義務観念》から 《ボディガードになってあげましょう》と大塚さんに語りかけたのである。日本は 神国である。
けれども この《忠義の宗教は その範囲がまことに狭い》とその学生がすでに知っていたのでないなら そのように別のおとぎ話をもって スーパースサノヲイスムのおとぎ話にこたえることはなかったであろう。
あの《善きサマリア人 また 与ひょう》と同じ人間であったところ かれは 無関心ではいられなかったのである。この愛が 神国の神国たる所以である。なぜなら愛は 神から来なければ人に生起しないから。すでに《忠義の宗教(スーパースサノヲイスムに従いつつ譲歩する一般スサノヲイスム)は その範囲がまことに狭い》と知っていたあの学生は 方法の滞留を停止してまで スーパーアマテラシスムの打倒にかけ降りて行くことなく また スーパーアマテラシスムに真っ向から(ということは そのアマテラシスムの幻影をすでに現実そのものと見てしまうことを意味する)対抗して 別種のそれつまりスーパースサノヲイスムへ アマガケリゆくことなく 譲歩しつつ 待望したのである 神国日本を。ハーンに従えばである。
これが 自由でないと言う人は たしかに狭い範囲において奴隷の自由を享受しているのであろう。これが 閉ざされた日本のナシオナリスムであると言う人は そのナシオナリスムに 反感を抱きつつ その繭の中の自由に親しんでいる。なぜなら コスモポリタンと言えども かれもどこかのくにの住民であるにちがいない。一定のナシオンに属さないインタスサノヲイストなど いない。
けれども わたしたちは 《いちじくの木から教訓を学》んで その《枝がやわらかくなり 葉が伸びると 夏の近づいたことを知る》(マタイ24:32)であろう。あの法政大学の一学生のように――それは 無自覚であったなら 前史だが―― たしかに 《敵――共同主観を阻害する者――》の所在を確認して 《〈お前の敵が飢えていたら 食べさせ 渇いていたら 飲ませよ。そうすれば 燃える炭火を敵の頭に積むことになる〉と書いてある》(ローマ書12:20)ように 敵の欠陥を――憎むのであるが――告発しそれを取り除いてやろうというのではなく 欠陥をいやす作業(新しい主観の共同化)にあづかることを欲し これをおこない あたかも敵の動向を見守りつつ(敵は 大塚さんの親分である空中の権能である) わたしたちはすすむ。
しかしわたしたちは 観念の王国を築くわけではないから これを ヤシロロジとして具体的にあらわす方法をも――そのときには インタスサノヲイストらのあいだに 意見の対立がある。つねにあるというように―― 論議し実践してゆかねばならない。これは スミスやマルクスのヤシロロジに学びつつ 日本なら日本のやしろの土壌に立って おこなって行くことができる。
なお 章の副題の意味は スーパースサノヲイスムが スーパーアマテラシスムの否定であり この否定の否定が ここでのテーマであるといったような内容です。(告白4・12・19)
(つづく→2007-02-28 - caguirofie070228)