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哲学いろいろ

#65

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Sycomore

"Jésus, étant entré dans Jéricho, traversa la ville. Et voici, un homme riche, appelé Zachée, chef des publicains, cherchait à voir qui était Jésus; mais il ne pouvait y parvenir, à cause de la foule, car il était de petite taille. Il courut en avant, et monta sur un sycomore pour le voir, parce qu'il devait passer par là" (Luc 19:1-4).

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第三十六章a ウェーバーイスムへの最終的批判

――アウグスティヌス 否定の否定を語る――


わたしたちは 《可憐なる雌鳥たちのお伽噺し》に対しては おとぎばなしをもって ただ沈黙しないでいなければならない。(ひとよ このしんじつをしりたまえ)。

そこでこの地上にわれわれの生命そのもの(キリスト:やしろ資本推進力)がくだりたまい われらの死(あの譲歩)をしのび そののちに死を あふれる生命によって殺した。
そして私たちがそこへ その方のもとへ あのかくれたところへ立ちかえるようにと 雷のようにとどろきながら さけびたまうた。
(告白4・12・19)

大塚久雄・内田芳明両氏は この《たちかえるべきやしろのふところ》に じつは たとい小部分であっても 触れ得たのである。けれども この人たちは 《自分にはおしえないで》(ローマ書2:21) このやしろのふところに立ち帰りなさい 人間性の回復をめざしなさいと説くようなのです。
愛国者》であろうとなかろうと 《キリスト教》と言おうと言うまいと 《学問》もしくは《価値自由》と言うと言うまいと 《アマテラシスム》であろうと《スサノヲイスム》であろうと いづれも《ありもしない無限に大きなもの(スーパーなるもの)》を立てて この《親木》から幻想のいちじくをもぎとるのです。そのときには 親木もいちじくの実も ――そのかれらの生活と学問の努力の並み大抵のことではないことの純粋な
見せかけのために――もぎとられるときには《涙を流す》と 美化しあるいは権威づけ 味付けする。
学問の世界にこのウェーバー派の流儀が 一定の領域を占めて優勢になると――それには あの内村氏の《事件》をめぐる談合の一選択が やがて第二次世界大戦における敗北をむかえることになって 勝利したという結果があづかっている―― 誰もがというほどにみな この方法(やり口)に右へならえするようになる。いわゆる《自由主義(リベラりスム)》というやり方である。日本では リベラリスムが こうするのである。
この手口を分析して認識しておかねばならない。


内田芳明君は

大塚久雄の最初の歴史叙述であり しかも生涯の学問的風格と方向を決定づけた著作たる《近代欧州経済史序説》(つまり このような一個のいちじく)については・・・この著作の歴史叙述のあのスタイルを決定させた一つの要因は その著が 東大のではなく法政大学の学生を相手にした講義草稿に由来する という事実の中にあった。
(内田芳明:ヴェーバーとマルクス―日本社会科学の思想構造 §68)

と報告している。ここで《東大》とは 端的にA圏(ないしその住民)を意味表示させ 《法政大学》というときには ただS圏を言っているようである。

しかし大塚が若き日に世俗的職業生活に屈折を経験し 《日毎のパン》のためばかりでなく 在野精神(《野》とは S圏)に立って学問的課題のために骨身をけづって(いちじくの汁を出し)労苦したことは 大塚の学的形成に深い刻印を押すのに作用したのであり 大塚の学的成長のパン種の一つとなったと考えられる。
(内田:同上)

むろんこれだけでは これをもって批判の種にしたわたしたちの側に非があることになる。けれども 《大塚が在野精神(スサノヲイスム)に立った》というのは うそであって かれは 《野に在った》けれども 《もっぱらのアマテラス者》であることを――それが スーパーアマテラシスムかスーパースサノヲイスムかは知らず―― むしろより一層 発揮させてのように 次のようなやり方であの《雛を孵すめん鶏》となって 幻しのいちじくを もぎとり吐き出すのである。

朝日新聞 一九六六年十月十三日の《直言曲言》欄に大塚は 法政大学で経済史を面白くきかせるために 《オトギ話を研究》したりして 《授業でも頭の悪そうな学生をみつけて その男がうなづくように話した》という苦心談を語っている。
(内田:同上)

とのこと。

  • なおこの《苦心談》については 内田芳明ら編集の誌《歴史と社会》第一号のすでに触れた大塚と内田義彦との対談にくわしく述べられている。もっとも 大塚のばあい かれが孵化しようとした卵は 《家鴨であった》と嘆いたかどうかは わからない。かれは 

一番 嬉しかったのは 〔法政大学での〕三年目の講義がすべて終わって私が教室から出て行こうとしたとき・・・《先生ありがとう 面白かったよ》《先生きっと博士になるよ》なんて・・・いうんですね。ところが それだけかと思っていると 《先生! ぼくは腕っぷしが強い男だからね 先生のボディガードになりますよ》というような声までするんです。・・・私は生涯で あれほど嬉しかったことは ほかにあまりないように思います。
大塚久雄:内田義彦との対談〈社会科学の創造〉 《歴史と社会》第一号)

このおとぎばなしには おとぎばなしをもって こたえてあげなければならない。または そのようにめん鳥となって 親木からいちじくを採って差し出すめん鶏となって スーパースサノヲイスムおとぎ話をはなすこと自体 次のおとぎ話の模倣ではある。

ああ エルサレム エルサレム 預言者たちを殺し 自分に遣わされた人びとを石で打ち殺す者 めん鶏が雛を羽の下に集めるように わたし(イエス)はお前の住民を何度集めようとしたか。
だが お前たちの神殿は見捨てられ荒れ果てる。言っておくが 《主の名によって来られるかたに 祝福があるように》と言うときまで 今から後 お前たちは決してわたしを見ることがない。
(マタイによる福音23:37−39)

このイエスの立ち場を 知らずそして本心から――あるいは 知っていて 純粋の見せかけから―― リベラリスムに立って 採ったのである。それは 自由であるから。かれらは このキリストが 学生たちにも同じように宿ることを信じるのではなく リベラリスム(自由意志)としてこの〔精神的めん鶏の〕立ち場をみづから採り また学生らに採りなさい 人間性の回復をめざしなさいと そして《わたしがこれを採るために(アマガケリするために)費やした努力たるや 並み大抵のことではないのだよ》と味付けしつつ 説くのです。
そうして なるほど 《〈抽象的な国家全体(アマテラス語観念のくにやしろ資本)〉というようなナショナリズムの発想とことなる〔この〕国民一人一人の人格的存在と生活とへの関心にほかならない内村のナショナリズムの観念》(内田芳明:ヴェーバーマルクス§72)が そのリベラリスムの内容であるのだけれど ほかならぬこの《自由主義》に立って 上のマタイの記すイエスの立ち場を採ったゆえ もはや一般の《エルサレム(S圏)》市民とは ちがって 特別であり むしろ無関心・関与不可能な地点に行ってしまっているのであり なおかつ この地点から 《関心》=おもいやり=めん鶏の心=価値自由な明晰を与えてやれるという学者の精神を 発揮せんとしたまうのである。きみたちも われわれのこの地点に上がって来いというわけなのである。
けれども このかれらの偽りのアマアガリに対して譲歩し死んでいるわたしたちの死をしのび 《のちにその死を あふれる生命で殺した》のが キリストだとアウグスティヌスは言ったことになる。

  • 言いかえると 大塚さんらは たとえばそのマタイの記すイエスのことばを ちょうど《修身 / 道徳》の教科書としてのように 文字どおり《めん鶏》をよそおったのである。わたしたちはそのとき 死んでいたと知ったのである。たとえ《石で打ち殺す者》の仲間でなかったとしても これに譲歩せざるを得ず ただ沈黙して死んでいたと知るのである。イエスなるめん鶏が わたしたしを《家鴨》から《鶏》へと 前史の栄光から後史の栄光へと 変えてくださる 第一の死を殺してくださると 予感し回心したのである。もはや にせのめん鶏に ただ沈黙していることはできないと 身体の運動するのである。

かれらは――そのリベラリスムが―― なお《在野精神・スサノヲイスム》を見せかけつつも あのA圏に棲息することを つまりたしかにめん鶏にならって生きることを 自己のアマアガリとしたことになる。けれども まづこれに対して ソシアリス社会主義がだまっていないことになる。
この社会主義からの物言いに対してさらに 《われわれは スーパーの語を冠していようとも スサノヲイスムに立つ自由主義だ》と反論するのが かれらであり そのときかれらは 言わず語らずに A圏こそが居心地のよいエルサレムだと 信じているのである。《この国家的な経済の領域においてどんな欲望が充足されるべきであるかを問う・・・消費者社会主義》(ウェーバー社会主義 (講談社学術文庫))すなわち 

ヴェーバーマルクス批判として提出した〔この〕《消費者社会主義》こそ このマルクスの eine Assoziation der Individuen (スサノヲ者の自由な連帯 すなわち インタスサノヲイスム共同主観・ヤシロイスム――引用者)の内容であるべきはずであったのである。

大塚は――と内田芳明は 大塚の或る小集会での話を要約して次のように述べている―― 自分の社会科学の研究の動機は 単なる《科学的認識のレベルでの問題ではない》 と述べた。むしろその《認識の根底にあるものは それを敢えて表現してみるとするならば 神と人間 宗教(この場合は 信仰)と世俗 というようなもの》として表現するほかはなく その根底にあるものは 《カルヴァンの思想 つまり 人間の悲惨が見えてこないと 神が見えてこないような そういう問題》 とでも表現しなければ 《表現の仕様のない問題》だと述べた。そこで 大塚は 自分の本当のテーマとして追求したものは何か を反省してみると《内村鑑三の〈二つのJ〉ということにもなる ――つまり 神の認識(むしろ 信仰)と人間の悲惨の認識 というように表現できる》 と語った。《しかし このテーマを直接に〔立ち向かって〕表現しなかったのは 偶然のめぐりあわせであった・・・》うんぬん。
(内田芳明:ヴェーバーマルクス §68)

内田は これを補足し さらに展開している。・・・
(つづく→2007-02-27 - caguirofie070227)