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哲学いろいろ

#74

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Vue de l'Est ( Kirjath-Jearim )

La ville biblique de Kirjath-Jearim est surtout connue à cause de la maison d'Abinadab qui garda l'arche de l'alliance du temps de Samuel au temps de David (environ 120 ans). Kirjath-Jearim était à l'origine une ville Gabaonite faisant partie du territoire de la tribu de Juda près des frontières de Benjamin et de Dan. Le prophète Urie, contemporain de Jérémie, était de Kirjath-Jearim.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第四十章b ヤシロロジにおいてこそ 方法の滞留はあらわれる

――そのような点についてのアウグスティヌス――


ここで これまでに何度か用いた《霊》の語について いくらか説明しなければならない。
《神》の語は用いないが 《霊》の語は用いるのかではなく 共同主観が ただ理性的・精神的なインタスサノヲイスムではないことを示すのに 霊的なの語を用いる理由について。
端的に言って マルクスは 《コミュニスト党宣言》で 《婦人の共有》などということを言っている。これは 肯定的に言っているのである。しかし 婦人の共有だろうと 性の差にかかわりなく《連帯》であろうと そのインタスサノヲイスムは 《霊的な共同主観》でなければならないことは 自明のことであろう。これは 乱交を意味しない。また 必ずしも この場合 自由恋愛を意味しない。

  • ひとこと。わたしは マルクスに対して 評価しすぎてきたかも知れない。

自由独立の精神が 真理に到達しうるのではなく はじめに真理に属(つ)くことによって――あるいは むしろ 《わたし》が焼き尽くされることによって―― 人は自由とされるのである。アマアガリが成就する。そうであってように 恋愛の自由は この観念・主義が先行するのではなく 結果的にそう言うのである。けれども

愛のおのづから起こるときまでは
ことさらに呼び起こすことも
醒ますことも
しないように。
(雅歌2:7)

いわゆる道徳を基準にして考える者は この《婦人の共有》説を聞いて 二つの反応を見せる。基準をポジティヴに採る人は それは《縦欲主義(センシュアリズム)》だと非難して つまづくであろう。基準をネガティヴに採る人は よくぞ言ってくれた そのとおりだと叫んで 同じくつまづきの石につまづくであろう。後者は マルクス自身が まだ《粗野な共産主義》と言って非難する考え方である(経済学・哲学草稿3・2)。そうではなく これは 自然本性=処女性において言ったことばである。(マルクスの文章は あいまいである)。
言いかえると 霊的な婦人の共有 つまり 性差を問わず人間の連帯・インタスサノヲイスムということである。つまり ここでは 現実的に 婦人を共有せよ 恋愛は自由だと 言っているのではない。また その反対でもない。現実から現実の中へ到来し 現実に近づくときのいわば過程的な認識とその表現なのである。
だけど 現実は 精神主義的な見地からする善と悪との二元論ではないのだから スサノヲ者のやしろにおける解放としては 婦人の共有を言うのであろう。こう言えることが 霊的な共同主観コミュニスムなのであろう。このとき 愛は自由であろう。そうでなければ スーパーアマテラシスム(この場合には 法律に合致するならよいという考え方である)のもとで この共同観念の中で 愛の自由が いわば公的と私的とに二分されて 成就していると錯覚するにとどまる。裏では裏で 迷惑をかけなければ 自由であるのだと。
法律によって 愛が自由であるのではない。スーパースサノヲイスム神学が 愛は自由だと言うから そうなのではない。そうであれば 神国共同主観の中にあって 愛の不自由は――たとえば イエスかノーかをはっきりさせる表現の自由が不如意であること このような愛の不自由は――なかったであろう。
婦人の共有を言いうるということ  つまり霊的な婦人の共有が実現されているということ このような愛の自由においては イエスかノーかをはっきりさせない自由など 存在しない。イエスかノーかをはっきりさせないことも自由だと考えるのは 現実の婦人もしくは夫の共有をはっきり認めている前史の自由(つまり 不自由)なのである。むろん 社会には 仕事上の経済的な利害関係が この判断とその意思表示のあいまいさに 絡んでいるという問題も大きいのであろう。もっともここで 前史の自由 つまり不自由 つまり奴隷の自由は 自然本性の道理にかなわないと言えば 道学者の立ち場にしりぞくことになるであろう。
アウグスティヌスが 《宴楽と泥酔 好色と淫乱 争いと嫉みとを捨てよ。主イエス・キリストを着よ。肉欲を満たすことに心をむけるな》(ローマ書13:13−14)というパウロの記す言葉を聞いた(§1)とき それは 道学と関係がないことは言うまでもなく――アウグスティヌスは最後の最後まで道学と闘っていた―― 霊的な婦人の共有という共同主観(つまり ふつうの共同主観を 性としての人間について言いかえただけだが)が 力として与えられたのである。
言いかえると 前史の婦人の共有(必ずしも かれ自身そうではなかったが)が この後史に立ってむしろ 止揚されたのである。道学的に非難されたのではない。愛人を持つことは悪いことであり 情欲にまかせてそうすることは 倫理的に非難されるべきことだが――このことに変わりはない―― アウグスティヌスは それが 道学的に非難され道学的に見たこの欠点が取り除かれて 回心したのではない。或る意味で非倫理的な生活をしていた中にも 前史として確かにおれは共同主観形成の道を歩んでいたと はじめの自然本性が回復されるのを見 この後史に立ったのである。
だからこの意味で――この意味でも―― いわゆるマルクシストは その福音伝道のインタスサノヲイスムの立ち場から そのように方法の自己確認〔というほどの他者への伝道〕によるのではなく 方法を自己の内に滞留させることによって ヤシロロジへと(悪を含んだ必然の王国の中へと)出かけるべきである。自己の内の 観念的な理論としての《マルクス》(あるいは 《マルクス》なる《わたし》)が死なないうちは マルクスなる死者もよみがえらないであろう。
第三部にあって この一章は殊に 第二部ないし第一部に戻ったように感じられたかも知れない。いや そんなことは むしろどうでもよく 言っていることは すでにわかりきったことであると感じ取られた人びとがいるかも知れない。つまり 自由の王国が この必然の王国と別個に――少なくとも いま――存在するのではないことは マルクスがすでにそう言っており そのことを含めて わかりきったことなのだから すべては わかりきったことだと言われるかも知れない。
したがって ここで さらにこのようなもう一議論がもし必要であったとするなら それは マルクスの共同主観を知ることと これを《わたし》が思うこととは別であるということ これを再確認するためであったろう。わたしの知解(その行為能力)が知解するのではなく わたしが知解するのであり 《マルクス》が共同主観するのではなく わたしが マルクスをとおしても 共同主観するのであるから 《自由の王国は 必然の王国の中から開花する》といった言葉が 生活するのではなく わたしがそう方法するというのでなくてはならない。
そうでないとき イエスかノーかの意思表示をはっきりさせることが出来ない。
このときのわたしがわたししているわたしは すでに力尽き果て焼き尽くされ 死・転向・譲歩を経めぐり来て しかもよみがえったわたしであり わたしでないわたしであるだろう。(ただし 遍歴をめぐらなくても アマアガリに達する人はいると言うべきであろう)。
だから このインタスサノヲイストの方法の滞留は すでにヤシロロジストとしての〔試行錯誤・多種対立の中の〕方法の滞留として生きているということでなくてはならない。われわれは ここへみちびかれて来るはづである。
(つづく→2007-03-08 - caguirofie070308)