caguirofie

哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

全体のもくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第三十七章 X氏の正体

極論によって議論がわかりやすくなることがあり いまはもともと初めから突飛な推論を交えてもいるので 単純な図式によって 話を整理してみよう。
ウタの系譜に二つの流れがある。というよりは オホタタネコ原点の一本の流れがあって ここから単独分立した動きが出たというこのような二つの系譜である。
崇神ミマキイリヒコイニヱ・仁徳オホサザキおよび天武アマノヌナハラオキノマヒトらの系譜が オホタタネコ原点の歴史的系譜であり その表現の動態を表わしている。もう一方で 応神ホムダワケ(神功オキナガタラシヒメ)・雄略オホハツセワカタケおよび天智アメミコトヒラカスワケらの系譜 この両系を捉えようとしている。それぞれの対比的な歴史分析が 有効・有益であると思われる。
それというのも けっきょく 両者を善悪の二元に分けて考えるべくもなく 前者・《イリ》系に歴史は基本的にすべておさまっており 後者は これに従属しているもののように考えられるからである。
具体現実としては 両系譜が互いに錯綜し入り組み その境界線がどこにあるかわからないくらい 絡み合っているとも考えていた。
そして ほかには 面白い例として 神武カムヤマトイハレビコや ヤマトタケルの場合はそれぞれイリ系とタラシ系との二つの系譜もしくは性格に分けて捉えるべき動向が 結びつきからみ合っているのではないだろうか。
このような史観の視点を 古事記作者は 時に図らずして 持つことになった そして表現していったと考える。全体として そうだと見るのである。

譲歩が 作戦の始まり

河内ワケ政権が 三輪イリ政権に 一歩道をゆづったという見方を提出していた。三輪イリ政権の――三輪イリ政権のである――仁徳オホサザキが 河内ワケ政権との連立政権の指導者の地位についたそのことを 事例とした。これは 統一第一日子への道の――百年・ニ百年をかけての――大計画(ちなみに《雄略》)の第一歩である。

  • ゆづる精神は もともと三輪イリヒコ市政の特徴である。
  • その前身と見られる意味での神武カムヤマトイハレビコの根子日子なる理念のカシハラ・デモクラシは 《粟生に生ふる韮ひと茎を そ根芽つなぎて 撃つ》という行動に出た。刺客タケハニヤスの緊急事態に際しては やはり武力に頼ったけれども ミマキイリヒコ市政は 基本的にこの《根こそぎ絶やす》という統治方式の反省に立ち 言いかえると 一人ひとりの自己還帰に信頼し ゆづる精神を打ち立てた。
  • オホクニヌシの国譲りにつながるこのイリヒコ歴史知性は 従ってのように 人として強いけれども 社会的・政治的に弱い。一歩ないし半歩 つねに譲っているのだから。
  • この精神に タラシ日子側は まず第一に 敬意を表した。(結果的に言えば それを模倣したということである。) 

タラシ日子側の譲歩といえば その形跡は 応神ホムダワケが 日向から召した髪長比売をかのじょを欲しいと言ったその子オホサザキに譲ったときの父自身つまりホムダワケその人のウタに 顕著である。

いざ子ども
野蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道の
香ぐはし 花橘は
上(ほ)つ枝(え)は 鳥 居(ゐ)枯らし
下(し)づ枝は 人 取り枯らし
三つ栗の 中つ枝は
ほつもり 赤ら嬢子(をとめ)(=髪長比売)を
いざささば 良らしな
(記歌謡・44)
水溜まる 依網(よさみ)の池の
堰杙(ゐぐひ)打ちが 挿しける知らに
蓴(ぬなは)繰り 延(は)へけく知らに
我が心しぞ いや愚(おこ)にして 今ぞ悔しき
(記歌謡・45)

  • 《いざ ささば 良らしな》の《刺す》は 第二首の《ゐぐひ打ちが 挿しける》の《挿す》とともに 《占有のために 標を刺す》という。

二首うたっている。このようにしてホムダワケは オホサザキに譲歩した。記述の上で 親子の関係である。ふたつの政権の間の問題だと捉えるなら ある意味で新興勢力である応神ホムダワケの側は その挑戦の過程で 相手側のウタであるイリ動態という表現原則に属(つ)こうとしたのだと思われる。
けれども表現は 《この蟹は いづくの蟹・・・》のウタと その精神において 同じようである。同じようにイリ原則で表現している。ただ しかるがゆえに 《我が心しぞ いや愚(おこ)にして》と述べるホムダワケには――このタラシ日子の社会的・政治的なアマガケリが 端緒に着いたときには―― その隠れた意図がなかったわけではない。

  • もし 裏など何もないというときには ホムダワケの母親のオキナガタラシ比売が なぜ筑紫に行っていたか なぜそこから新羅征討に赴いたか その間の説明があってしかるべきだと思われる。

これらのウタを 時に突飛な観点からになるのだが じっくり見ていこうと思う。

上・中・下などの三区分は ある程度 一般的な問題である。

まず この上の初めのウタでは ヤカハエヒメとの婚姻の宴席でうたったそれと同じように 上・中・下(ほつ枝・中つ枝・下づ枝 および 端つ土・中つ土・底土)の三段階の区分が言われている。これに注目するならば やはり山海の政のオホヤマモリと 食す国のオホサザキと 天つ日継ぎのウヂのワキイラツコとの三区分を 強引に想起しなければならない。
言うところは 《中》の段階がよいと言うのであって 中つ土をヤカハエヒメにからませて 自分のことに当てているように 中つ枝をオホサザキに当てている。この限りで かれのウタは イリヒコ動態の表現として 一点の曇りもない。

  • むろん上中下に分けたとき いつでも《中》がよいという意味ではない。ここでの問題においては そうなっている。

その主張に曇りがない そのように見えるというものである。問題は 《かくもがと我が見し子》にある。
これを直接うたったヤカハエヒメとの見合いの場のウタと違って 直前のオホサザキに対する譲歩をうたう二つのウタでは これが隠れている。《かくもがと見し子》は 歌われていないのか。けれども 大山守と大雀の二人を呼び集めて ねんごろにその父ホムダワケが語ったところによれば 隠れたわけではなく はっきりと むしろ《下づ枝》である(いちばん年下の)宇遅能和紀郎子が 《かくもがと我が見し子》であると表明している。末っ子のウヂのワキイラツコにこそ 《天つ日継ぎ知らしめせ》と語った。

宇遅能和紀郎子

ところが X氏もしくは ウタとしてのX氏が問題になるのは 《宇遅能和紀郎子》という漢字表記にも現われていると見られるごとく 応神ホムダワケのさらに隠れた意図は ヤカハエヒメとの子・ウヂのワキイラツコ本人にあるのではなく 《遅》れて現われるであろう一人の《和紀(ワケ系)郎子(あたかも イリヒコと錯綜するごとく)》にある。《和》――観念的な日子の連帯――の《紀》元となる家(《宇》)は 宇治の木幡いな 近江の佐佐那美路また角鹿方面だと 諸般の事情は語っているように見られる。
まさに――そこで 我が子の一人オホサザキへ 髪長比売をゆづったときの二つのウタについてであるが―― 《依網(網は 羅〔あみ〕 つまり 多羅斯に通ずる)の池の 堰杙打ちが さしける知らに うんぬん》と述べて つまりそのように すでに〔自分の側に〕手が打ってあるとこそ この時のホムダワケが 語ったかのようなのである。中つ枝の仁徳オホサザキに一旦譲歩したその裏ではということである。

  • もちろん ウタじたいにおいては 解釈は別である。仁徳オホサザキがすでに髪長比売と通じていたとは 自分は知らなかったとホムダワケ本人が言っている。

オホサザキ仁徳の代が終わると 履中イザホワケ(イリ系か?)と 反正ミヅハワケおよび允恭ヲアサヅマワクゴノスクネとの対立関係の中で(――つまり このように両系譜の並存を想定して 見るわけだが――) この作戦は 徐々に着々と進められて行くという寸法である。イザホワケ履中の子の市辺の忍歯の王の暗殺が その明確な発端となったであろう。といっても いくつかある中での成功例として 象徴的なのであろう。これが X氏の全国制覇へのエクササイズの始めなのである。

  • このようなのちの出来事を加味して捉えるなら 逆に 仁徳オホサザキの側のほうが 何も知らずにいるわいと言っている。応神ホムダワケのほうで すでに 大作戦が動き出しているということを まったく知らずにいるわいというわけである。
冬木の素幹が 下樹のさやさや

仁徳オホサザキが 髪長比売をゆづられて得たあと 古事記は 次の記事をのせる。

また吉野の国主(あの《まろが父》のウタをうたった人びとである)が 大雀命の佩(は)かせる御刀(みたち)を瞻(み)て歌ひけらく

品陀(ほむた)の 日の御子 大雀(おほさざき)
大雀 佩かせる大刀
本(もと)つるぎ 末(すゑ)ふゆ
冬木の 素幹(すから)が 下樹(したき)の さやさや
(記歌謡・48)

かれの太刀は 《本(もと)は吊り佩き(つるぎ) 末は振ゆ(振る=揺れ動く)。冬枯れの木の素幹が 下樹では さやさやと音を立てるちょうどそのようだ》。
もしこうならば 《オホサザキは――日継ぎの御子ウヂのワキイラツコからも 市長の座をゆづられたのであるが そののち―― そのような第一日子である仁徳オホサザキとして イリヒコ共同体を経営してゆくことが出来るであろう。ただし かれの後(《末》)には 直ちにサヤサヤと争いが起きるであろう》と言いたいかのようなのである。
もちろん吉野の国主たちが 予言したのではないであろう。そうではなくて これらウタウタの編集者つまり古事記の作者の視点は すでにこの仁徳オホサザキと後の世代を経て来ているのであって このような一解釈を――暗示的に―― 与えうる物語を書くというところにある。という我が妄想である。
もし このような史観の視点が それを言うわれわれは すねている すねているから そう言うのだと見えるとしたなら イリ系の動態に従属しなければ何もできないタラシ系のウタが そう思っていることを証しするのであろう。この関係は この世で 入り組み混同している。
要するにいま われわれが このような形で――つまり 邪推を恥づかしげもなく 展開するという形で―― 古事記の記事を点検しているのは 結果的にわかるウタの構造の歴史的な展開の場面としては タラシヒコX氏の問題にあり それは 河内・近江のワケ政権が 統一アマガケリ作戦に際して 奥の手を使ったかどうかの問題を究明することにある。
X氏の正体を 何かこれだとして示すことは出来ないが この結果的な・従って経験現実的な場面で このことが判明したなら じっさい われわれは X氏を生け捕りにしたことになるであろう。そういう意味での現行犯の指摘である。

基本は アマテラスとスサノヲの物語

アマテラス・ツクヨミ・スサノヲの三貴子の分治の際には スサノヲが追放される――言いかえると スサノヲらは アマテラス〔およびツクヨミ〕を 原初的なかれら《もっぱらの日子》の圏域につまりタカマノハラに 追い上げてでも まずかれらに 好きなようにさせた――のである。
応神ホムダワケの時には そのホムダワケの側は スサノヲの系譜と言うべき仁徳オホサザキ(この場合 《中つ枝》)に日子の座をゆづった。自分が スサノヲの系譜と同じように イリヒコ動態であることを示して見せた。この下に 《下づ枝》として ほんとうの《かくもがと我が見し子》である《ウヂのワキイラツコ》――つまり重ねて言えば その《宇(いへ)》が遠からず《遅》れてでも 《和》の《紀》元となる統一第一日子・結果的にのちの継体ヲホド――の擁立の意図が はらまれていた。《依網の池の 堰杙打ちが すでに堰杙をさしていた。ぬなは(じゅんさい)を繰り その手口が延びていた》。そして 《さしける知らに わが心しぞ いや愚にして 今ぞ悔しき》とうたっていられた。イリヒコたる仁徳オホサザキこそ いまに《今ぞ悔しき》と言って憤慨するにちがいないというのである。
古事記作者は そのように 全体観のなかで 物語を編んだのではないだろうか。すなわち 神代のアマテラスのときには スサノヲを追放した もしくは 互いに分離した。ここでは 支配欲の熱心さから 勇敢にも 全国統一のアマガケリを 画策したのである。雄略ワカタケが 結局 暗殺というテロリズムを手段として 自分の後 継体ヲホドをもって その祖・応神ホムダワケが《かくもがとわが見し子》として アマガケル統一第一日子の座を手中にさせるという奥の手の奥の手を実行し 《成功》させた。

けれども X氏は亡霊である。

三輪イリ政権は もし憤慨して悔しがっていたなら 雄略ワカタケや継体ヲホドに譲歩しはしなかったであろう。《さ身無しにあはれ》のタラシヒコのウタ――そのX氏のむしろ亡霊――を生け捕りにすることが 一つの目標であった。そのような目標も そうとすれば 附属していた。

  • 目標は つねに 自己還帰した自己の連乗積を作り続けて生きることである。

だから 暗殺にも 耐えた。耐えるために耐えたのではなく 一なる自己にまた自己を掛け算して その一なる自己にとどまるためである。

  • 自己の同一にとどまるならば 相手が 勝手に 自分の正体をあらわすことになる。そのとき望ましくない正体ではなくても われわれと同じイリヒコ動態の正体を回復するかも知れない。

ただ すべてに耐えるゆえに 天武アメノヌナハラオキノマヒトの時には 戦い(六七二年の乱)を敢行した。暗殺にも耐えるイリ動態に もはやタラシヒコが耐えられず 勇敢さが行き着くところまで行き着いたとき 戦いを起こしてでも お付き合いしたのである。このあと 古事記三巻が編まれた。 
 

(つづく)