caguirofie

哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

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第三十五章 X氏(X姓)の登場へ

ウヂのワキイラツコ

ちはやひと 宇治の渡りに
渡り瀬に 立てる 梓弓檀弓(あづさゆみまゆみ)
い伐(き)らむと 心は 思へど
い取らむと 心は 思へど
本方(もとへ)は きみを思ひ出
末方(すゑへ)は いもを思ひ出
苛(いら)なけく そこに思ひ出
悲しけく ここに思ひ出
い伐らずぞ来る 梓弓檀弓
(記歌謡・52)

此岸から彼岸(向こう岸)へ渡るのに 梓弓檀弓が立ちはだかっている。《心は〔い伐らむと〕思へど》が 中心テーマである。
このウタが 悲しみの母斑――タラシ日子なる観念の連帯・それが利用した縄文人的な弥生社会の系譜・つまり ヨリ心性のしがらみの和――を表わしている。
特に前章からは ウタを取り上げるに際して 観点を変えても 解釈し論議を進めようとしている。
神武カムヤマトイハレビコもしくはヤマトタケルの頃のウタを去って 応神ホムダワケの時代――かれの死の直後の頃――のウタである。
この――ウタの作者というより 編集者としての――古事記作者が 前史の母斑から抜け出ていると言おうとするのではない。突出してしまっていると言うのではない。けれども かれは このオモヒデから自由である。だから 立ちはだかる梓弓檀弓(あるいは《粟生に生ふる韮ひと茎》)を伐ればよいと解釈することにはならない。梓弓檀弓は 一人ひとりわれわれが背負っている十字架の木にほかならないのではないだろうか。(どうしても この結論にたどりつく。)
ウタの作者とされているウヂのワキイラツコ(宇遅能和紀郎子)――応神ホムダワケの日継ぎの御子である――は 《い伐らずぞ来る 梓弓檀弓》とうたったのである。もっとはっきり言うならば 《復讐するは 我れにあり》と生命の木ご自身が語りかけたまい この声をかれは聞き これに従ったのである。もっともウヂのワキイラツコは この梓弓檀弓である反逆者オホヤマモリのミコト(大山守命)を 殺したあと こう歌っている。
つまりこうである。ウヂのワキイラツコは 変装して楫取りになり 攻め来る途中のオホヤマモリをその自分の船にまんまと乗せた。河の真ん中に来ると かれを水の中へ落とした。流されてゆくオホヤマモリは 歌って言った。

ちはやぶる 宇治の渡りに 楫執(さをとり)に 速けむ人し 我が許(もと)に来む
(記歌謡・51)

みづからが第一日子であって その超越歴史知性には 《鵜養が伴 いま助けに来ね》というウタが 必然的に・構造的に組み込まれているという。《久米の子らが 撃ちてし止まむ》と号令することが 刷り込まれているという。意思法・推量法の補充用言(《来む》のム)が そういうふうに用いられている。和の精神と呼ばれる社会(人びと)の連帯である。

ウヂのワキイラツコと仁徳オホサザキ

ウヂのワキイラツコの異母兄である仁徳オホサザキは やはり自分の兄であるオホヤマモリが 反逆の陰謀を秘めていることを知り これをワキイラツコにおしえた。ワキイラツコが オホヤマモリを破ったあと

ここにオホサザキのミコトと ウヂのワキイラツコと二柱(ふたはしら) おのおの天の下を譲りたまひし間に 海人(あま)が大贄(おほにへ)を貢(たてまつり)き。ここに兄は辞(いな)びて弟に貢らしめ 弟は辞びて兄に貢らしめて 相い譲りたまひし間に すでに多(あまた)の日を経き。
かく相い譲りたまふこと 一二時(ひとふたとき)にあらざりき。故 海人すでに往き還(ゆきき)に疲れて泣きき。故 諺に《海人や おのが物によりて泣く》と曰(い)ふ。
しかるにウヂのワキイラツコは早く崩(かむあがり)ましき。故 オホサザキのミコト 天の下を治(し)らしめしき。
古事記応神天皇の段)

ここに イリ日子動態のあらたな市長が誕生した。
もし記されているとおりに 仁徳オホサザキは 難波の高津の宮に市政を敷いたのだとしたなら 三輪のイリ政権から この河内のワケ政権の地へ進出し その一時代を築いたという解釈も成り立つかも知れない。この場合は そういうふうにその一代を みづからの地に招いてワケ政権が 譲歩して見せたのである。と――例によって――色眼鏡で見る。みづからの地盤をきづくためである。ただし ウヂのワキイラツコがそれを画策したというふうには映らない。
X氏――X姓なるウタ――が いたかも知れない。たとえば 仁徳オホサザキの大后イハノヒメの父である葛城のソツビコ いや ソツビコの背後の・応神ホムダワケ時代からの配下のひとりのX氏が いたかも知れない。いなかったとしても むしろタラシ日子のウタが 身体に刻まれていてその他の人びとに 受け継がれていたというふうに映る。幻想のウタだといっても 幻想ゆえに一時的には・もしくは一事に関する限りは その連帯も強い。和の精神である。そのとき その中で 第一日子の血筋としては 父系連綿のワカ(若)ガエリが諮られていく。
仁徳オホサザキの子らに まず石之日売の子として 大江の伊邪本和気命(履中天皇――市辺の忍歯の王の父) 次に墨江の中津王(反乱を起こして 次のミヅハワケによって殺された) 次に蝮の水歯別命(反正天皇) さらに男浅津間若子宿禰命(允恭天皇――雄略ワカタケの父)が生まれた。
別に 日向の髪長比売とのあいだに 大日下王および若日下部命(のち雄略ワカタケの妻)が生まれ それぞれこのように配されることによってのように この中から タラシ日子のウタの統一アマガケリが 画策されていったと 強引に見たい。
応神ホムダワケの五世の孫とされる継体ヲホドの出現は たとえば およそ百年ののち 雄略ワカタケとワカクサカベのミコとの子が ひそかに養育されたあと 擁立されて出てきたといううたがいである。

応神ホムダワケによる百年の計

その百年の計の初めを見てみよう。
まず 応神ホムダワケの子らとしては こうである。まず 品陀真若王の三人の女(むすめ)が嫁ぎ 長女・高木の入比売との間に 大山守命ら また次女・中日売命との間に 大雀命(仁徳)らがおり 別に 丸邇(わに――近江と関係あり)のヒフレのオホミ(比布礼能意富美)の女・矢河枝比売(やかはえひめ)との間に あの宇遅能和紀郎子が生まれた。
父ホムダワケが これら三人の子について言うには 自分は年下の息子がかわいいゆえと言って

――大山守命は 山海の政(まつりごと)をせよ。大雀命は 食(を)す国の政を執(と)りて曰(まう)したまへ。宇遅能和紀郎子は 天津日継(あまつひつぎ)を知らしめせ。
古事記応神天皇の段)

と詔り分けたという。
この役割分掌については それら三つの関係がどういうものであるか よくわからない。《海部・山部・山守部などの部民を掌れ。天下の政治を行なえ。天皇の位につきなさい》の意であるとそれぞれ説明されるけれども よくわからない。互いに同じように見られる。
ホムダワケは 宇治の木幡(こはた)に行ったとき ヤカハエヒメ(矢河枝比売)に出遭って 求婚した。父親のヒフレノオホミから承諾を得て 婚姻がととのった。もてなしの宴で ヒメに酒盃を差し出さしめた。ホムダワケはこの酒盃を受け取りながら こう歌ったという。
角鹿の蟹のウタであるが われわれは短い本章ながら 章を改めよう。
(つづく)