caguirofie

哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

全体のもくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第三十六章 X氏 受胎さる

角鹿(敦賀)の蟹のウタを見る番であるが いま一度 復唱しながら進めよう。
いま捉えようとしていることは 次のような脈絡のなかにある。

X氏のウタをめぐる経緯

ウタ――広く文章表現 そして思想――について イリ動態という原点がある。このイリ表現の動態の確立にかかわると思われる御真木入日子の前後の時代に それぞれ 神武カムヤマトイハレビコと そしてヤマトタケルとがいる。それぞれに イリの系譜とこれを転変させるような要因の系譜(ワケ・タラシ)とが見出される。
ヤマトタケルの《やまとは 国の真秀ろば・・・》のウタは イリ表出の原形を表わしていると見た。これは かれに関して 東国へ出向いたときのウタ――尾張のミヤズヒメとの関係でのウタウタなど――において よく発展して発揮されている。他方 かれヤマトタケルの西征の際のウタウタは そこに 人格の交換などの要因を 陰に陽に 示している。これらは イリ表現行為の系譜から 逸れていると見る。
人格の取り替えばやの契機は カムヤマトイハレビコのウタのほうの実践において 先駆けが見られるように思われた。もしくは そのように 後世から その時代のこととして あてはめていると思われた。そのカシハラ・デモクラシの理念 《根子日子》歴史知性じたいは ミマキイリヒコ視点の先駆者であると考えられた。
これらは 第十代崇神ミマキイリヒコの前のニ三代の天皇ら(開化ら)に 神武イハレビコを当てはめて捉えたときの見方である。
応神ホムダワケのウタは イリ日子歴史知性の確立のあとのものである。ところが これを もっぱらの日子の能力において アマガケリさせ 善悪の木の観念体系を作り上げていく方向に向かった。この道徳体系は 根子と日子との 昼と夜との 二重構造であったと言ってのように 実際には この中に 反イリ日子知性としてのカムヤマトイハレビコやヤマトタケルのウタを 悪しく利用するものがある。
その一代あとの仁徳オホサザキの時代は このアマガケル帯日子のウタと混同しつつも イリ表現の原則を その一代としてだが 復興させたであろう。逆に言うと かれオホサザキの前(=応神ホムダワケ)と後(殊には 雄略ワカタケと継体ヲホド)のときに 帯日子のアマガケリが 作動し また軌道に乗ってのように 展開し完成へ向かった。この帯日子の統一アマガケリの動きを X氏のはかりごとだとする。これを――このような突飛な推測の線で――俎上に載せ また点検しようとしている。
すでに タラシ系譜のイハレビコやヤマトタケルのウタの構造を 先取りし利用することに成功した応神ホムダワケは タラシ第一日子の統一アマガケリへの動きを のちにウヂのワキイラツコを生むことになるヤカハエヒメとの婚姻の時点から ひそかに――百年の計として――画策し始めたという物語である。

角鹿の蟹

ヤカハエヒメとの婚姻の宴席で 若きホムダワケが歌ったといわれるウタ。――

この蟹や いづくの蟹
百(もも)伝ふ 角鹿のかに
横去らふ いづくに到る
伊知遅島(いちぢしま) 美島(みしま)に著(と)き
鳰鳥の 潜き息づき
しなだゆふ 佐佐那美路(ささなみぢ)を
すくすくと 我が行ませばや
木幡の道に 遇(あ)はしし嬢子(をとめ)
後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも
歯並みは 椎(しひ)菱(ひし)如(な)す
櫟井(いちひゐ)の 丸邇坂(わにさか)の土(に)を
初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ
底土(しはに)は 丹(に)黒きゆゑ
三つ栗の その中つ土を
頭(かぶ)つく 真火(まひ)には当てず
眉画き こに画き垂れ
遇はしし女人(をみな)
かもがと 我が見し子ら
かくもがと 我が見し子
転(うたた)けだに 対(むか)ひ居(を)るかも い添ひ居るか
(記歌謡・43)

《かく〔応神ホムダワケと木幡のヤカハエヒメとが〕御合(みあひ)したまひて 生みませる御子は 宇遅能和紀郎子なり》というくだりである。ウタは 応神ホムダワケが うたったのである。中心主題は

  1. 《我が行(い)ませ‐バ‐ヤ・・・遇はしし嬢子(をとめ)》
  2. 《後ろ姿‐ハ / 歯並み‐ハ / 眉画き〔‐ハ〕 〔こうこうこんなで〕・・・遇はしし女人》
  3. 《斯(か)く‐モ‐ガ‐ト 我が見し子に 対(むか)ひ居る‐カ‐モ》

ひと言でいって 《木幡の道で遇った乙女は 我が理想の女性であったが いま一緒にいるのだな》。
もう少し詳しくは 

蟹が横歩くように ずんずんとやって来た。角鹿(敦賀)から伊知遅島・美島に到り カイツブリが水に潜って今度は息をつくように 坂道の多いさざなみの志賀(滋賀)の道を来て 宇治の木幡の地に ひとりの乙女に わたしは出遇った。
後姿は すらりとしてかわいい楯のよう。歯並びは きれいで椎や菱の実のごとく。櫟井の丸邇坂の土を ちょうどよい中ほどのところを――なぜなら 上土は色が赤らみ 底土は赤黒いゆえ―― 火加減を見る顔に及ぶような強い直火には当てず 墨にして 眉を画き こんなふうに画き垂らしている。
この出遭った乙女は こうあって欲しいと思っていたおとめだ。
思い続けていたおとめに 現実に会うことができたよ。(この人とこうなればいいがと思っていた人に いよいよ(ウタタ) 真向かいに(〔蓋(けだ)しの〕ケダニ)添って居るかも。)

応神ホムダワケは 角鹿で気比のオホカミと名前を取り替えるほど 連帯を厚くしたし また この宇治のヤカハエヒメのほかにも ヤマトタケルの子孫の息長真若中比売と結婚して のちに継体ヲホドの祖となるとされる(――つまり われわれの観点から言えば 育ての親の祖とされる――)若沼毛二俣王を生んでいる。 

  • このフタマタは 偶然である。
《かくもがと 我が見し子》

要するに この近江・越の方面の人びとと こんなふうになればいいがと思っていた(《かくもがと 我が見し子》)というのは のちの歴史的な経過から察するに――それは 邪推であるという疑いを消しえぬほど うまい具合いに―― このまとめた形で言うところの《オキナガ+タラシヒコ》の勢力の中に 自らの拠点を築きたいと思っていたというのであろう。善悪の木が立ち上がって その旗がひるがえったという歴史的事件であろう。
このウタは 成功していると思う。また 願望どおりに事が進んだ結果としてのように ウタの成功は イリ表出の原則に合っている。イリ動態であると思う。
だから まずは 仁徳オホサザキなるイリ日子動態の――三輪と河内との最初の具体的な接触(河内側が ここで 譲歩した)をとおしての――新しいかたちの市長が誕生したその前後の過程で タラシ日子政権の野望は 渦まいてのように始まったと・始まっていたと 考えられる。
ウヂのワキイラツコは ここに位置する。
ワキイラツコと大山守と大雀(仁徳)との三人に 応神ホムダワケは 遺言のようにこう言った。《大山守命は 山海の政をせよ。大雀命は をす国の政を執りてまうしたまへ。宇遅能和紀郎子は 天つ日継ぎを知らしめせ》。だから この詔(の)り分けも 上のような流れの中に 位置させなければならない。
三人の職務分掌は神代の(神話としての)アマテラス・ツクヨミ・スサノヲ三人の分割統治 あるいは 景行オホタラシヒコオシロワケの時設けられた三人の太子(ひつぎのみこ)――つまり ワカタラシヒコ(成務)・ヤマトタケル・イホキイリヒコ――の記事に それぞれ符合していると考えられよう。(一度は なんらかの形で参照されるであろう。)
ウヂのワキイラツコの場合は オホサザキ仁徳が 結局 社会的職務としての日子の座についた。大山守が反逆を起こした結果の出来事であった。アマテラスらの場合は 結局 アマテラスが スサノヲのイリ動態のウタに答えることを出来なかった。天の石屋戸にかのじょは 雲隠れした。かのじょにとっての《久米の子らや鵜養が伴》が 助けを出して スサノヲを追い払ったのであった。

  • もっとも 三つの職務分掌の内容は いくぶん違っており スサノヲは 反逆をせずに 自分の分担を嫌ったなどという事情である。

ワカタラシヒコ・ヤマトタケルおよびイホキイリヒコの三人の場合は それぞれむしろ 職務をではなく 地域を分割(すでに分割されていた)してのように その限りでおのおの独立・分立したもののようである。ヤマトタケルの後裔〔の一派〕は 日継ぎの御子ワカタラシヒコとおそらく合流して 応神ホムダワケおよびさらに遠く継体ヲホドへ つなぐと見られる。

  • 成務ワカタラシヒコの子に 和訶奴気王(ワカヌケのミコ)がいる。ヤマトタケルの子孫に その子・仲哀タラシナカツヒコとともに オキナガマワカナカツヒメ(息長真若中比売)・そしてその子 若沼二俣王(ワカヌケフタマタのミコ)がいることに注目しうる。

イホキイリヒコは オホサザキ仁徳につなぐであろう。つなぎうるであろう。仁徳オホサザキは 一旦 これら三者の流れ――すなわち 直接には 自らを含んで 大山守と宇遅能和紀郎子とから成る三者――を綜合し 同時に その次の世代からまた 三つ(ないし二つ)の系譜が分かれていったもののようである。
ここで 応神ホムダワケが 《かくもがと見し子》と言ったその人物は――推理を推し進めるならば――いろんなふうに解しうる。いろんなふうに解しうるその中で殊に――後世から 全体的にながめる分には―― 雄略オホハツセワカタケのおそらく隠された子としての 継体ヲホドのことであると考えざるを得ない。強引にこのような邪推をしたくなるように 古事記の人物およびウタウタの配置は なっていると思われる。
タラシ日子の統一アマガケリは 応神ホムダワケに始まった。神功オキナガタラシヒメと一体なるものとして捉える。このとき すでに《かくもが(統一第一日子であればいいが)と我が見し子》とうたったのであるが 創始者の子・応神ホムダワケが直ちにそうでなくとも 次の世代 また次の世代と たゆまず計画を実行していけばよいという動きである。従って 歴史の経過から見れば そのアマガケリを完成させた継体ヲホドであると見られることになる。雄略ワカタケの時に やっと完成を見る時が来たのではないかと また 必ず完遂するのだと 考え これの敢行を進めたものと思われる。
ウヂのワキイラツコは ここに位置している。すなわち 直接の《かくもがと我が見し子(=ヤカハエヒメ)》の生んだ子であって 遠くこのウタのあたかも呪術が及ぶと見られうる継体ヲホドの淵源だという位置である。そう推測したくなるように配置されている。結果としては 継体ヲホドが 《かくもがと見し子》ということになる。
そのウヂのワキイラツコが 市長の位を仁徳オホサザキに譲ったということは 河内ワケ政権が 三輪イリ政権に 一歩 道を譲ったということである。それもこれも 統一第一日子へのアマガケリ大作戦の踏み出しとしてである。一度ゆづっておくなら あとで 厳しい態度を取れるというものであると。
この過程において おそらく 文章として 主題の格活用は ハ格・ガ格・ノ格・ヲ格・ニ格等々とさらに発展する。なかんづく 用言・補充用言の法活用が 活発になっていったものと思われる。
《この蟹は いづくの蟹 百伝ふ 角鹿の蟹・・・》のウタは 歌の限りで 成功していると思われる。イリ日子原点の表現としての動態であるように考えられる。しかも そうであるがゆえに あのあたかも底音部の流れを奏でるX氏の正体が 隠れているとも考えた。その検討に 次章で入ろう。
(つづく)