caguirofie

哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

全体のもくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第三十八章 X氏の亡霊

仁徳オホサザキが 市長に立った。
応神ホムダワケの後 これの隠れた計画(《いのごひ》?)が 画策され軌道に乗せられていようといまいと まず ここで河内ワケ政権は 三輪イリ政権に譲歩の姿勢を示した。
基本的に広義の《国譲り》の精神は もともと三輪イリ政権の専売特許であった。ホムダワケ勢力が 河内に興ったとき 三輪イリ政権がそして各地のイリヒコ政権が かれらの登場を 基本的に(という意味は 互いに存在として)迎え入れたことの結果 かれらも ここで 譲歩の姿勢をよしとしたのだと思われる。
上・中・下のうち 《中つ枝》のオホサザキを選んだのであるが それは もちろん《下づ枝》として《かくもがと我が見し子》なるウヂのワキイラツコのさらに後裔が統一第一日子へとアマガケリするという大作戦のためのものである。

仁徳オホサザキ市政のもとにも・・・

しかし徐々に X氏の動きが始まっている。オホサザキ市政のもとにもである。

つぎねふや 山代河を
宮より 我が 上れば
あをによし 奈良を過ぎ
小楯(をだて) やまとを過ぎ
我が見が欲し国は 葛城高宮 吾家(わぎへ)のあたり
(記歌謡・59)

こううたって 大后イハノヒメ(石之日売)は 夫オホサザキから そしてヤマトから 逃げてゆく。かのじょは オホサザキの他の妻に嫉妬して去ってゆくのであるが ここでは それは 問題ではない。応神ホムダワケの帯日子のウタが イハノヒメに伝染したのである。世の慣わしに 従ったのだし つまりは 負けたのである。勝ち負けよりも 自己の同一にとどまるという問題であることに変わりない。ともかく 大后イハノヒメは 夫の元からも去った。

山代に い及(し)け 鳥山
い及け い及け
吾が愛(は)し妻に い及き遇はむかも
(記歌謡・60)

仁徳オホサザキが こう 歌ったのであり 鳥山は かれの使いの名である。逃げてゆく《愛し妻》・イハノヒメに追いつけ追いつけという。

  • 《及(し)く》は 《銀も金も珠も何せむに まされる宝 子に及(し)かめやも(万葉集 五・803)》のそれである。

懸命に X氏のウタの克服を仁徳オホサザキは欲し これに走ったかのようである。
仁徳オホサザキの難は 色仕掛けで攻められるというものであった。

大后イハノヒメの活躍:何もしない闘い

イハノヒメの難が片付かず 保留されてしまうと 次には 庶妹(ままいも)・メドリノヒメミコ(女鳥王)の難が起こった。かのじょは オホサザキと自分との間に立ったハヤブサワケノミコ(速総別王)をけしかけて 日子の位を奪え――ハヤブサが サザキを取れ――と言う。乱を欲し これを実行に移す。この反乱の最後の収拾に イハノヒメが当たっていることは かのじょの存在の特異な位置を証ししているであろう。
イハノヒメは 逃げることによって 応神ホムダワケのウタによる伝染をくい止めようとする。その感染を受けて もともと外にあって 我が内にはないものは・つまり出すべきものは外に出してしまうという対処の仕方でもある。一人だけの問題ではなく イリヒコ共同体全体の問題として 伝染を最小限に食い止めるという役目を 結果的にしろ 負ったかのようである。
つまり――あまり好意的に見ると叱られかねないが―― 仁徳オホサザキが 先に浮気をしたのも それは 伝染の結果であり 外から中に入ったものは出すべきというようにして起こったと考えられる。《愛し妻》イハノヒメは これを嫉妬し――嫉妬したという形を取るという世の慣わしに屈し つまり そこでは 屈するほうが 自らをも含めて人びとの自己同一性の保持のためにはよいと考えて――むしろ逃げることによって あの戦いを戦っているのである。

  • 一般にいうところの《何もしないたたかい》でもある。
  • つまり問題は オホタタネコ原点からの墜落を どう回避するかにある。自らのとともに 相手の良心の腐食を助長してはいけない。たとえ破廉恥なことを余儀なくされてでも あとで悔い改める余地の残された振る舞いのほうが イリヒコ歴史知性の無化を選ぶより望ましいと考えられた。

女鳥のヒメミコと速総別のミコの反乱の収拾に かのじょイハノヒメが 一役買ったのも そう見なければならない。存在の自己還帰がすべてである。これは 夫であるオホサザキのイリ主体としての仁徳なのである。であろう。
この後 履中イザホワケと 反正ミヅハワケ(――それにしても 《反正》とは!?・・・故意に逆にされたのだろうか――)と允恭ヲアサヅマワクゴノスクネらとの対立関係に始まる長い政争の歴史が 遠く 天武アマノヌナハラオキノマヒトの時代と社会の出現に到るまで つづくのである。
X氏という奥の手を使ったがゆえに 天武マヒト体制にまで進展したのだと思う。やっと使ったがゆえに 天武ヌナハラオキ体制で 骨組みをすべてX氏の社会統治方式の継承として保ちつつ ミマキイリヒコ視点の復活に到ったのだと考えたい。これについては 明治維新以後の いづれ 長い歴史過程を想うべきである。

雄略ワカタケのときには・・・

雄略オホハツセワカタケの時代の記述で 古事記は 慎重であり かつ それが豊富である。
イリ表現の原則を守るイハノヒメにあたる登場人物は ここで――雄略ワカタケの社会にとって――たとえば アカヰコ(赤猪子)である。イリ動態としての問題を自己自身その生活において 示した。かのじょについて ワカタケは こう語っている。

御諸(みもろ)の 厳白檮(いつかし)がもと 白檮がもと
ゆゆしきかも 白檮原童女(かしはらをとめ)
(記歌謡・92)

若いとき ワカタケが妻に迎えたいと言ったことばに従って 赤猪子は その後 八十年も待っていた。そこで このことを告げるためにやって来たかのじょに対して このウタをうたったとある。ここでは イリ動態の前身であるカシハラ・デモクラシが想起されている。それを想起させている。オホハツセワカタケに これの記憶が――その歴史的な観想が――よみがえったという意味である。

  • すなわち あの受け継がれて来ている大作戦・奥の手のX氏なる亡霊が オホハツセワカタケにも取り憑いている。そのことに注意を喚起するための古事記なる大きな物語の中の一環である。

また これには 葛城山で 遂に ヒトコトヌシノカミに出会うという歴史が生起した。次つぎに イリ動態が かれには 復活して現われる。《い及け い及け》と三輪の人びとが 何もしない闘いを繰り広げているのである。
ちなみに かれらオホタタネコ市民たちは 教訓を直接おしえようというのではない。時間的な必然の出来事にもとづいて これらに沿って 生活しているとき タラシヒコにも接触してゆくのである。ここに資本(愛)の推進力がはたらく――はたらくというふうに 経験的な出来事である鏡をとおして 見る――と考えられた。
雄略ワカタケは イリ動態に 次つぎと《い及かれ》つつ しかも その奥では あのX氏のウタが引きも切らず つづいて歌われているのであろう。
《纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮(景行オホタラシヒコオシロワケまたは イニシキイリヒコ の宮)》でのウタ(記歌謡・100)も この雄略ワカタケの段に登場している。歴史の誕生の歴史が かれには よみがえったと思われる。同時に 応神ホムダワケのあの《かくもがと我が見し子に うたたけだに 対ひ居るかも い添ひ居るかも》(43)というX氏の作戦の流れが つきまとっている。オホタタネコ原点がよみがえって来ているのに 自分が《かくもがと》想像するすがた(統一支配の完成)でなければ いやだと言った模様である。

雄略ワカタケによる奥の手のそのまた奥の手

ついにX氏は その日子の能力でアマガケリつつ 《人みな取り枯らす下づ枝》のごとく 河床の下の底流となって――つまりまた この《底流》というのは むしろイリヒコ動態の一本の基本線の意ですでに用いた表現であったとするなら これを 装うかたちで だから 奥の手が使われて―― 歴史に登場したのではないか。それは こうである。雄略ワカタケのその子・清寧シラカノヤマトネコに子がない。つぎに殺された市辺のオシハノミコの子ら すなわち顕宗ヲケと仁賢オケの内 ヲケに子がない。さらにオケの子・武烈ヲハツセワカサザキに子が無い。もしあったとするなら これらの子でおよそ日継ぎの御子たるべき者たちすべてを つまり言いかえると みづからのタラシ系とそしてイリ系との別を問わず 子孫という子孫を みな 殺したのである。そう考えられる。つまり そう推理せよと言っているように思われる。

  • あるいは ちょうど いづれの家系にも子孫ができなかったことを見て これをいい機会として 継体ヲホドの擁立に動いたというふうに述べるべきかも知れない。ただ この継体ヲホドのヤマトに入っての即位・執政には 二十年もかかっているところを見ると たとえばイリ系とのあいだに 確執がなかったなどとは考えられない。だから 記述に忠実にならなければならず もっとも譲歩しなければならない場合には 市民一人ひとりの考え方 そして 為政者の政治姿勢に おおきな違いがあったというところで止めておくべきかも知れない。ただし 以下でもやはり これまでの想定にもとづき 話を最後まですすめる。

ただ一人 ただひとり 《かくもがと見し子》=遅れてやってきて和の紀元となるべき宇(いえ)の子をここで確定し その継体ヲホドノミコトを ひそかに近江もしくは越前の国にやって育て――若沼毛二俣王の家系が育てた―― これを しかるべき時点と情況とにおいて立てて来た。応神ホムダワケが挿しておいた堰杙 つまり ぬなは繰り延ばしておいた和の連帯 この上に立つ《宇遅能和紀郎子》である。
《品陀の 日の御子 大雀 大雀 佩かせる大刀 本つるぎ(吊り佩き) 末振ゆ 冬木の素幹が 下樹のさやさや》(48)が 決定的に成就する。われわれは ここで あたかもウヂのワキイラツコのように 《い伐らむと心が思へど かなしけく ここに思ひ出 い伐らずぞ来る 梓弓檀弓》(52)とうたい出さなければならなかったかも知れない。これらすべて 新しい国家の段階で 骨組みとして成就されたところで 無効となったことは すでに見た。
乱暴な議論ではあるが もう少しつづけて見たい。
(つづく)