第二部 歴史の誕生
もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620
第二十九章 《イリ》動態原則の転変
ロ・ル・ラ・レ rö という親愛称の名辞がある。
- 親愛称の接尾語
- ホ(穂・帆・秀)→マホ‐ロ‐バ・マホ‐ラ‐マ
- ワ(我)→ワ‐レ→ワレ‐ラ
- オノ(己)→オノ‐レ/→オレ(俺)→オレ‐ラ
- ヒ(日)→ヒ‐ル(昼)
- マ(目)→マ‐ロ(麻呂)・マ‐ル(丸〔日吉丸・牛若丸〕)
- タカ(高・貴)→タカ‐ラ(宝)
- 属格を表わす
- カム(神)→カム‐ロ‐キ(神の男)・カム‐ロ‐ミ(神の女)
- 用言をつくる語尾
- マ・メ(目)→ミ‐ル(見)
- タ・テ(手)→ト‐ル(取)
- ホ(穂(=突出・秀でるもの))→ホ(欲)-ル→ホリ‐ス=ホッ(欲)ス〔cf.ホ(欲)‐シ;ホ(褒)‐ム;ホマ(誉)‐レ;ホ(祝・寿)‐ク〕
・・・
イル(入)を イ‐ルのごとく分析しがたいけれど イラツコ・イロセ・イロモなどにも このロrö が用いられているのではないかと疑っていた。
見方を変えれば ロ・ル・ラ・レ・リなどが一定の意味を同じくすると考えうる。言い変えると いま Vを母音とすれば r‐Vという形態素で 母音交替によって 同種のなかで ちがった役割を果たしていると考えられる。
同種の語に母音交替が見られる例は いくつもある。
- カム(神)・カミ・カモ
- ホ(火)・ヒ
- カ(髪)・ケ(毛)
- アマ(天・雨)・アメ
- コ(木)・キ
- ナ(大地)〜ネ(根)
- アヲ(青)〜アヰ(藍)
- マ・メ(目)〜ミル(見る)
- タ・テ(手)〜トル(取る)
・・・
ロrö の使用と母音交替との二つを見たが これらによっても イリ表現の動態が 変化し多様性を持つようになり きちんとした重要な役割を担うようにもなると捉えられる。
親愛称の添え詞 ロ・ルrö
聞クの自発・受身・可能などの意を表わすとされる聞コユは ただ 初めには 親愛称の名辞 ルröをつけて 聞クルなどと言っていたにすぎないかも知れない。
- 子音/ r /と/ y /とは 発音じょう仲がよくて 互いに交替しうる。有ラルル→有ラユル;謂ハルル→イワユル
実際には 聞ク-ルではなく のちに不定法となる形態についたものと思われる。聞カ‐ル→聞カ‐ユ→聞コ‐ユ。聞き給うといった尊敬の意味の表現で 聞カレルというときも ただ初めは 親愛の情でそういった形を採っただけかも知れない。つまり 聞カを ふたたび二重に用言としたいという気持ちで 聞カ‐ルと言い出したにすぎないかも知れない。その気持ちで敬意を表わそうということのようではないだろうか。おっしゃるを おっしゃらレルとするような感覚である。
聞カスという表現形も 聞かっしゃる(←聞かせ有り)というように 尊敬法の活用形態であると考えられる。聞くようにさせるという用法ではなく 相手について用いるとき その当の人が《聞くことを主体的におこなう》という意味を表わして 尊敬の意味内容を帯びたものと考えられている。
- この場合も 聞クという動作を ス つまり スルという意の用言をあらためて加えて 二重に表わそうとしているとも考えられる。聞カ‐ル=聞コユと同じように。
- この表現形式は イリ表出の動態が その同じ動態を重ねてのように 時間を重複させ 自己の同一にとどまろうとするおこないであるかに見える。自己の冪をつくってのように 歴史知性の原点をまさに動態の過程とするさまであるかに見える。それほどのことではないかも知れないし ある程度そのような動きとして考えうるのかもわからない。
- あるいは 聞カスにかんしてさらには いわゆる高貴の人は 自らが直接に聞くのではなく 人を介して話を聞くという情況にあっては その《仲介者をして聞かしめる》という意味で――すなわち聞カスのスは 使役法の活用を表わす補充用言として――用いられたのが始まりだとも考えられている。《聞かしめる》という意味から 《お聞きになる》という意味に変わったという説明である。
- 聞キ-タマフというときの尊敬法の補充用言・タマフは 《タマ(魂)アフ(合)の約か。求める心と与えたいと思う心とが合う意で それが行為として具体的に実現する意。》《目下の者の求める心と 目上の者の与えようという心とが合って 目上の者が目下の者へ物を与える意が原義。》という(大野晋:岩波 古語辞典 補訂版)。――そうだとすれば それの尊敬法としての用法は すでに社会的に身分関係が出来上がったあとに生まれたものであるから 取り上げる必要があまりない。
受身と尊敬の補充用言
ここから ル・ラルという補充用言の表現形式について考える。
一般に ル・ラルは 動作に関してその自然の自生・自発性を表わした結果 この表現を他のものごととの関係において捉えれば 受身にもなれば 尊敬にもなると考えられている。だとすれば その初めが 親愛称の名辞 ル・ロ rö の用法であったと考えているのであるが たとえば生マ+röについて――現代語で――
生マ‐レル=① 受身(例文:私はこの両親からこの時生まれた。)
② 尊敬(例文:あの方が生まれた子は私ではない。)
と関係性において 両方の意味に取られるのは 文脈の問題であるとともに のちのちの用法だと考えられる。
したがって 繰り返しになるが そもそも初めに イザナキ・イザナミが 生成し終えた国土の中で たとえば
次に木の神 名は久久能智(ククノチ)の神を生み・・・
(古事記 (岩波文庫)神代)
というのは その他の自然生成物をも含めて 《モノの木》を知ったそのことであり その認識のときから 表現動態は始まっている。キ(木)は 木の葉・木陰のようにコとも言うが ここでは クとも言ったようである。チは ヒやミとともに 霊のことである。だから このモノの木も 《神》と捉えられているが それは オホモノヌシの生命の木が このモノの木にも宿ると認識されたことを反映させている。
つまり いま ク(木)+rö+チ(霊)と表出しようとして クク‐ノ‐チと言ったものと思われる。
ちなみに古事記作者が 本文の冒頭から
天地はじめて発(ひら)けし時 タカマノハラに成れる神の名は・・・
と述べているとき このウタの構造は アマテラスオホミカミの子孫であるという統一第一日子のそれをそのまま受け取り その時代の現状をおよそ価値自由的に認識して記したものと考えられる。歴史の初めから そのとおりであったのではないことは わかっていた。そうでなければ このアマテラスオホミカミの親であるイザナキ・イザナミが ほとんどその親であるようには省みられてはいないことが説明できない。
このタカマノハラ神話がつくられる以前に 人びとは オホタタネコ原点を確立しミマキイリヒコ社会を実現した。その時からの イリヒコ歴史知性のことばによる表現動態 これは どうであったかを いま探ろうとしている。
したがって別様にいえば このタカマノハラなるウタの構造の枠組みのもとに もし歴史知性が生きるというときには イリの表現動態は どのように自己表現を発展させつつ 同時に どのような変転をたどっているか これをとらえたいと思う。
ウタを先取り・上をゆき・蔽いかぶせるウタ
タカマノハラなるウタの構造が出来上がったのは そこでイリ日子動態が ワケ・タラシ日子のアマガケリに道を譲ったのである。ゆづったというからには そのタカマノハラと妥協したというのでもなければ タカマノハラに屈服したというのでもない。ほんとうには そうではない。ゆづるということと 妥協あるいは〔被〕征服ということとは 基本的に相い容れない。二重構造に寄留しつつ そこから自由である。
この《ゆづる》精神を――精確には その生活の動態である その精神を――アマガケル・タラシ日子は 二重構造かつ二階建ての社会の中で 《和》の精神に替えたのである。後取り・後付けであるが 言い方としては 先取りする精神なのである。もちろん 上を行っている。上から この精神のウタを蔽いかぶせることになる。
- これだけ――千年以上も――この国家の段階がつづいていると 逆に根子市民たちのほうが この和の精神をさも自分のものにしたと悟ってのように 永遠の現在なる常世理論の旗手になっている。草の根からの平和主義ということにもなる。
- また イリ日子歴史知性の前段階であるヨリ(憑)原始心性においても あらゆるモノにオホモノヌシの神のチカラを見とおしてのように いわば和の本能を共有していたと考えていた。→2005-07-10 - caguirofie050710
この社会の中では――このようなウタのメロディがひっきりなしに聞こえるところでは―― 親愛の語(rö )は 尊敬・謙譲の意味あいの表現形式へと展開していった。それが 罪の共同自治であり 社会秩序というものであるようだ。この覆いかぶさった繭の殻が 幻想であると悟ればいいのだから つまり それは共同の観念でしかないのだから 批判というものが しづらい。批判になじまないものがある。秩序は秩序であるということでもあるようだ。
人びとは しばしば正しい敬語の使い方は何かという議論をおこなっている。いたづらにと言うべきか これを変革しようとしてと言うべきか。
古事記は 敬語の論議から入る道を選ばず 現状をほとんどすべて受け入れ また用いようとし その思想をあきらかにしようとした。これは 当時の・当時なりの社会科学の方法なのだと考える。
先取りとは そもそも初めに ワケ・タラシ日子の元締めである応神ホムダワケのとき かれが敦賀の気比の大神と名を取り替えたところに発していた。やがて人格の交換となる。
その次の代とされる仁徳オホサザキの歴史。吉野の国主(くず もしくは くにす〔土着民だという〕)が 酒を造って 仁徳オホサザキにたてまつった時のとされる歌に
・・・口鼓を撃ちて 伎(わざ)をなして 歌ひしく
白檮(かし)の上(ふ)に 横臼(よくす)を作り
横臼に 醸(か)みし大御酒(おほみき)
うまらに 聞こしもち食(を)せ
まろが父(ち)
(記歌謡・49)
その昔 酒は口の中で米などを噛んで醸成したものらしい。を(食)すという語は 食べる・飲むそしてほかに着る・治めるの尊敬語だったという。(この点はわたしには詳しいことがわからない。)
をせ(食)を措いて 《うまらに 聞こしもちをせ》という語句の表現形式と さらに《まろが父》の活用格・ガについて 考えていきたい。
うまらに 聞こしもち食(を)せ
この歌の直前に 同じ吉野の国主たちの別の歌があって 《ホムダ(誉田)の 日の御子 オホサザキ・・・》(記歌謡・48)とあるので 仁徳オホサザキと応神ホムダワケとが 混同されているかと疑われもするが――つまりまた ここではわれわれは 仁徳オホサザキを 考え方として三輪イリ系統の日子に想定しているので これから述べることによると 逆の立ち場になってしまい ある意味で収拾がつかなくなるのであるが―― いま上に掲げた歌では 尊敬の表現形式が現われているのを見る。要するに 《おいしく召し上がれ》と言っているようなのだが 単なる贈り物ではなく あるいは援助でも寄付でもないようである。たとえば《やまとは くにの真秀ろば》の歌とは ちがって 社会が互いに同質の心性やあるいは身分ばかりではなくなっていると知られる。
献酒讃歌で 吉野の国主等が 大和朝廷への服従の儀礼として物産を献上し歌舞を奏したもので その始まりは記紀では応神朝 『新撰姓氏録』大和国神別 国栖(くにす)の条では允恭朝と伝える。隼人の舞・国栖の舞として有名。天武朝に儀式化された可能性が強い。
(西宮一民:古事記 新潮日本古典集成 第27回 p.192)
うまらに聞こしもちをせ つまり《うま(美味)‐rö ‐に 聞か‐為(し)‐持ち‐食せ》というのは 話し手が《聞かせる》のではなく 相手つまり贈られた側が 話し手=贈り手に 聞かせるということだとまず考えられる。《まろが父よ お召しあがりください。美味であるとの言葉をわたしどもに聞かせつつ》と。
この仮定にもとづく限り 贈られた側の仁徳オホサザキが 《おいしいです。ありがとう》と発語して 贈り主の吉野の国主たちに聞かせるものと考えられる。それを前もって 贈る時点で 国主たちは表現に織り込んだものだと。そういう情況であろう。
ということは どういうことか。贈るほうが 《おいしいですから どうぞ》というのは へりくだっていなくとも かまわないだろう。だが 飲んだあとで その場で《うまいね》とか日にちが経ってから《先日の酒はおいしかったよ。ありがとう》と聞かせられるのではなくて 前もって そのような言葉を聞かせてくださいと贈る側から言うのは どういうことか。
ひょっとすると こういうことなのか。《評判としても〈うまい酒だ〉とお聞きになってのように》という意味にとって やはり《聞こし》は 定説どおり《聞く》の尊敬語(つまり《お聞きになる》)というのだろうか。
この表現については この段階で保留しておこう。
まろが父
けれども 《聞こし》とも別に ほかに明らかにイリ動態の親愛の表現形式が 転変していると疑われる言葉がある。《まろが父》である。
《ま(目)‐ rö》が 《わたし》つまり この歌では 贈り手の国主らの側を言う。けれども 《麻呂‐父》でも 《麻呂‐rö ‐父》でもなく 《麻呂‐ガ‐父》と言ったということは 《わたしが(主格)〔あなたの〕父である》というのが 本筋であるのではないか。
いや 活用格《ガ》は もともと属格《ノ》の意と用法が先だと説かれているのだけれど まず主格――中心主題格《ハ》とともに 主題を提示したとき 同時に 論理的な格関係においては 主格――として その主題の語(つまりいま《まろ》)を活用させているとも考えられうる。《まろ》が どうするか・何であるかといえば 《父〔である〕》という表現形式も じゅうぶん考えられるのではないか。
- この説の吟味は 以下数章にわたって具体的に論じるはずである。
- いわゆる助詞・ガは 属格《ノ》の用法が初めの基本であったと考えられる。このガの用法が――いま扱っている古代を経たあと 江戸時代頃には 明らかに主格の活用を担うようになることは別として―― 変化したというのではなく 《まろが父(わが父の意)》という語句全体が 主客ところを代えて 用いられるようになっているのではないかという疑いを吟味したい。
もしこの仮説のようだとすると ここでは 互いの人格(ないしウタの構造)が 明らかに交換されている。しかし 《 I am your father. 》という意味にとって 《このように酒を贈るのは 父であるわたしなのです》 あるいは 相手の立ち場に立って 《〈あなたは わたしの父親のようです〉とあなたは わたしにお返しにおっしゃるでしょう》といった意味あいが 初めには――この《まろが父》の表現形式には―― 込められていたことになるのではないかという推理である。
たとえば 時に現代でも人は 《すみません》の語を 自分が自分のこととしてまずそう思って発するのではなく 相手がそう感じているであろうと自分のもとで察して 言いにくいでしょうから わたしから言いますと明らかに考えて発しているもののようなのである。そういう場合が見られる。
ここでは 人格(主体)の・その立ち場の転倒が行われている。これは 一般に象徴として取り上げて言って 親愛の語《 rö 》が そのままでは・それだけでは 社会的に人間関係において用をなさなくなり 互いのウタ(主観)の先取り・察し合いが介入してきていることを物語る。
おそらく ゆづる精神にあっては 主観や主体の立ち場が取り替えられることはないと考えられるのだが それ以前のヨリ心性の和の本能や ゆづる精神を先取りした和の精神にあっては 察し合いから始めて さらには ゐやに物を言わせて 包み込む精神が現われると見る。
- 7月31日(日)のNHK大河ドラマ《義経》では 《忍び寄る魔の手》と題していたが そこでは あの後白河法皇が 頼朝からの分断を図って 義経に 上位への任官を許すとともに 話し合いにおいて この《察しあい・包み込み》の和の精神の実際を見せていた。それほどの悪質のものでもなかった。
けれども 《まろが父》を 《わたし‐の‐父》の意で その言葉どおりに言っているとしたなら それは 立ち場がまったく入れ代わっているのだから これは もはやイリ動態原則の転変であると考えなければならない。転変が完全に確立した社会情況の中にあって発せられているし 受け取られていると見なくてはなるまい。
- つまり 大御酒を贈られる仁徳オホサザキは ゐやを貴ぶからには 感謝の意を込めて 贈り主の国主たちに こんにちの《おやじ》といった意味合いで 《まろが父》と――仁徳オホサザキのほうが――呼びかけるのが普通ではないのか。その表現の仕方が先にあって やがて 同じ語句を用いつつ 表現する側が 入れ代わってしまったのではないだろうかという疑問である。
仮りにこのガ格を属格《の》の用法と取って考えた場合にも 明らかに 幻想のいわゆる擬制としての血縁たる社会関係じょうの《父》が――だからとにかくそのような親と子との関係が―― 現われたと捉えられる。親分子分というごとく擬制的な血縁関係を共同に念観する社会の秩序が生じている。仁徳オホサザキと吉野国主らとは 実際じょうの父子関係ではないと見られるのだから。
章を改めよう。
(つづく)
文献資料その他
イザナキノカミ
問題点として次のように整理されている。
イザナミとともに記紀神話の中で実質的に創造神の役割を果たすほとんど唯一の神。
しかし最高神アマテラスらの祖神でありながら皇室による祭祀の対象としては重視されず影が薄い*1のは 皇祖神の系譜に組み入れられたのが比較的新しいことを物語るか。逆にいえば 諸地域のさまざまな要素を融合した複雑な性格を有していることになる。
〔キ・ミ〕二神をめぐる神話の多くが比較神話学の好対象として諸地域の伝承と比較研究されていることは それが宮廷史官の手で創作されたものではなく 一定の地域で信仰された土着的な神格だったことをうかがわせる。
一連の神話に天父地母型の伝承類型の投影をみることはほぼ通説化しており この観点からすれば火神出生による二神の離別は天地分離神話の一変型とも見うる*2。
また国生み神話の前半にはいわゆる洪水始祖神話の要素もうかがわれる*3。「妹」の語の検討に基づく 二神が兄妹でその聖婚は洪水神話の一特徴としての近親相姦の要素をもつという指摘*4とあわせて注目されるが これらの見解には批判もあり*5 比較神話学的方法の再吟味ともあわせて今後とも検討されるべき課題の一つだろう。
黄泉国訪問神話はいわゆるオルぺウス型神話として知られ なかでもギリシャの伝承と最も親縁性を有するため 伝播論の立場からの注目を集めている*6が より本質的な問題は 王権の由来を語る記神話にとってこの冥界訪問譚の存在がいかなる意味をもつか という点にあろう。現に紀本文はこの伝承を欠落させている。
禊ぎ神話もまたイザナキの天父的性格を表わすと指摘されているが 一方海洋的性格も色濃く反映しており 海人族の独自な伝承が三貴子の誕生を説明するために利用されたという経緯が予想される。
国生みを中心とする二神の神話の発祥地は淡路島周辺とみられ 海人族の伝承していたかかる神話が宮廷入りし王権神話に組み込まれる最初の契機については 大坂湾岸地域を根拠地としたいわゆる難波王朝(河内大王家)の成立に求める説*7が有力。その媒介者としては 海人族の宰領たる安曇氏を想定する説*8や イザナキの禊ぎに際して化生するツツノヲ三神を奉斎した津守氏とみる説*9などが提唱されているが 淡路の一地方神にすぎなかったイザナキを皇祖神の祖神に位置づけた原動力についてはいまだ十分に解明されていない。
またイザナキの退隠の地について淡海・淡路・天上と三様の伝承が残されていることも注目に値するだろう。淡路は岐美二神の信仰および神話の発祥地と目されるので自然だが 天に帰り「日の少宮」にとどまったとする所伝はイザナキに日神的な要素もあるゆえか。淡海多賀への鎮座(記)を日神信仰との関わりで説こうとする見解*10もある。
(身崎寿:〈イザナキノカミ〉 稲岡耕二・編《別冊国文学 NO.16 日本神話必携》1982 学燈社 p.183)
ここから研究はどのように・どこまで進んだのか。