caguirofie

哲学いろいろ

第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第十四章 五世紀における河内ワケ政権と三輪イリ政権との攻防

――かれらは敬虔によって 天使(アマガケル精神)の存在を欲するよりも 高慢によって天使の能力を欲する――
ここで 次の百年つまり 第五世紀を考えて見なければならない。
西暦三百年代をつうじては まず ヨリ(憑)からイリ(入)の歴史知性の確立が見られ さらに ここからこれを超えようとするタラシの超歴史知性が動き始めた。カミにヨリつく原始心性から そのめぐみの世界へイリする自由意志の精神が獲得されたあと あたかも始原のこころを取り戻そうとしてのように しかも カミを意志(日子の能力)によってヨセルというウタを唱えるスーパー歴史知性が発明されることになった。
このヨセル歴史知性のウタは オホタタ根子原点に立つイリ日子・イリ日女の類型に対しては その派生というかたちで《ワケ・ワカ》の類型だと考えられる。そしてあるいは さらにこれを補強しやがて率先して先頭に立った《タラシ》の日子・日女という類型を当てることができよう。タラシは おそらく満ち足りているという意味内容を持たせているものと思われる。このタラシ・ワケのウタが 構造的に広がり ついにわが日本を主導し始めたというのが 第四世紀の百年であった。

  • イリ日子のウタは オホタタネコ原点なる自己の同一にとどまり タラシのスーパー歴史知性に譲歩している。
  • もっぱら日子の能力によって天翔けることにおいて ついに(!?)カミをもこの根子-日子の地上の世界にヨセルことを能くするという。これに対して 元は 意志の自由な選択という自己到来を果たしたオホタタネコ原点であるとも捉えられるから イリの歴史知性は――つまり一般に人びとは―― この超歴史知性に対して 譲歩しつつ その原点の自己還帰を どこまでも見失わないようにと言葉をかけたりしていたものと思われる。
  • ただし 専守防衛すら武力闘争としては積極的におこなわなかったようである。もっぱらウタ(歴史知性)のチカラに拠ろうとしたのかも知れない。
応神ホムダワケ政権は 百年ののち なにゆえ 側近の世系が絶えたのか

第一点は 三輪イリ共同体が むろんそれとして存続したということである。
河内ワケ政権がここで(=四百年ごろ)近江・若狭・越のくにぐにを従えてヤマトにおいても主導権を握ったあと 三輪イリ政権が消えてなくなったわけではない。したがって 一つの推測としてではあるが 四世紀の百年間についても見たように 古事記の叙述の中から つまり 河内政権の事業あるいは指導者の系譜とされているものの中から 三輪イリ政権の動きがないかどうか あるいは各地の政権のことではないかと考えられるもの これらについて点検してみなければならないと思うのである。
第二点は なにゆえ――と言うと おかしいのであるが なにゆえ――近江(ないし越)の地域政権であった・のちの継体ヲホド天皇が 出現しなければならないというように 応神ホムダワケの始めた河内政権は この五世紀の終わり頃 その日継ぎの御子が 絶えてしまったのか。言いかえると 雄略オホハツセワカタケの子にも 武烈ヲハツセワカサザキにも 子が無く世系が絶えることになったのか 絶えたと書かれているのか これである。
さしあたって この二点を尋究してみたい。

  • けれども 考えて見るに オホタタネコ原点に立ったイリヒコ歴史知性は 古事記の史観にとって 骨子であるから これら二点が 中心的な主題となるはずである。
  • 第二点も 応神ホムダワケ政権の近くにいる後裔の中には 後継者がまったくいなかったという事態は その政権と三輪のイリ政権とのかかわりが おおいに影響していると考えられるからである。
憶測によってだが ウタの構造を分析・吟味する

さて もともと思弁的な議論に頼らざるを得なかったのであるが ここでは きわめて憶測を交えての議論になると思われる。前章までに 西暦三百年ころの三輪イリ市政の誕生をめぐって その歴史的な前後の過程およびその周辺の各地において ヨリ歴史知性→アマガケル歴史知性→アマテラス歴史知性のマツリゴトの創成といった動きが見られたであろうと 妄想していたのであるが これからは この妄想の線での議論であるとことわらなければならない。
もっとも この仮説の主張に目的があるのではなく 妄想によってさえ描くような《ウタの構造》 ここに真実が見られるなら これは 人間の誕生に直接つながっている。このことを明らかにして 井戸端会議を活発にしたいというのが ねらいである。わかりやすく言うと ひとこと 弁明をしておこうと思うならば それは むろんわれわれは 妄想がよいなどと思っているわけではなく そんなことは実際したくもない。問題は イリ歴史知性とワケ・タラシのウタの構造とは 社会的なモノゴト関係のなかで 互いに錯綜し入り組んでいるということにある。
どういうことかと言えば このゆえに 全体をとらえるには 個々の史実を寄せ集めるだけでは――言いかえると 古事記等の文献資料について 史実に反した作為があるとして これを指摘するだけでは―― 不十分であって きわめて直観にもとづいた観想を必要としていると思われることにある。しかも この妄想する仮説を確定することが目的なのではない。仮説が 現代人であるわれわれにとっても その社会的なウタの構造(観念の資本)を 説明しうるならば そこには 歴史をつらぬいて一貫する人間オホタタネコの観点 これが明らかになって有益であろう。日常生活における生きた現実としての井戸端会議(共同主観)に資するであろうと見られるゆえ。
もう少し言うと 《人間の誕生》の視点から 基本的に重要な歴史の真実――真理は一つであり また客観的な史実 これも一つであろうが この一つの客観的な史実をめぐってそこに動いている人間の真実(その事実にどうかかわったか)は 見方によっては 相い対立する双方の側にそれぞれ一つづつというように 二つあって或る種の仕方で 両立しうるとさえ言いうるかも知れない―― これが つかめるなら 多としたいのである。

善悪の木のオキテ主義には 拠らないと同時に・・・。

ウタウタが互いに錯綜している という事例を 次のように考えることができる。
いま アマガケル日子の河内ワケ政権は もっぱら善悪の木を押し立てる幻想の《永遠の現在》主義によっていると言ってきたのであるが 人間の――有限な・どうでもよいgleichgültig=どちらでもありうる――真実としては このともあれ観念の共同へと推し進め行くものであっても その法治主義という点では たしかに善悪の木をその意味で押し立てていないなら 一般に長くは罪の共同自治はおこなえないと その限りで 考慮しなければならない余地が残されるべきようである。そのときには この法治主義は これも人間のひとつの栄光である。ここでは これが 古い栄光であると宣言する立ち場にある。
そしてこのためには たしかに史実の比定のほうによりは 一たん推測や妄想によってでも ウタウタの中味を分析・吟味して 互いの歴史的真実を取り出し明らかにしてみるほうに 必要性があるかと思われた。
骨格として 善悪の木のオキテ主義 これには われわれは 拠らないのだけれど 人間のこの日子の能力によって立てた法も 生命の木に関係づけられるものであって これを排除したり廃絶するというものではないと はっきりさせなければならない。ここから来るウタの構造のなかでの互いの歴史知性の入り組みを しっかり解きほぐしていかなければならない。そうして この骨格にいわゆる魂を入れていかなければならない。その井戸端会議に資するものであるようにと願う。

五世紀の《日子》たち

そこでまず ホムダワケ応神から継体ヲホド天皇に到るまでの五世紀・百年間において 政権の座についたのは 次の全十一代の日子である。古事記に従う場合である。代の順序も記に従っている。

表5 五世紀の《日子》の系譜(記に従う)

15応神ホムダワケ
16仁徳オホサザキ
17履中イザホワケ 18反正ミヅハワケ 19允恭ヲアサヅマワクゴノスクネ
20安康アナホ 21雄略オホハツセワカタケ
24仁賢オケ 23顕宗ヲケ 22清寧シラカノオホヤマトネコ
25武烈ヲハツセワカサザキ

ここでは たとえば24代仁賢オケと25代顕宗ヲケの兄弟は 17代履中イザホワケの子(○で示す)から生まれたと読んで欲しい。16代仁徳オホサザキの次の世代の三人は 仁徳オホサザキの子どもたちである。
約百年のあいだに 六世代が交替している。この次の第26代目が応神ホムダワケの五世の孫であるとされる継体ヲホドノミコトであったことは 言うまでもない。表に掲げた日子たちとは 別の系譜で別の地に育った・応神ホムダワケの直系の子孫である。つまり要するにこのヤマト近辺にいる後裔は 血筋が絶えたのである。
ここでの憶測と疑いとは 清寧シラカノオホヤマトネコと武烈ヲハツセワカサザキとで なにゆえ血統が絶えるのかという上に述べた第二点が この系図の中に 三輪イリ政権の足跡がなお残されているのではないかという第一点と密接にかんれんしていると思われることにある。

  • 18反正ミヅハワケ・20安康アナホ・23顕宗ヲケらにも後裔は なかった。
五世紀の日子たちの系譜を いちど想定し直してみる

ところで今 強引に 三輪政権がなお存続していた(表4の仮定内容を参照*1)と仮りに想定してみることから議論を始める。ウタの構造の照り競いにあって クニユヅリをしたあと 主導権のない市民生活のみの存続でもよいわけである。だが 原点としてのミマキイリヒコ社会のそれとしての権威も保ったであろう。
だが この想定は それほど難しいものでもない。そのときには これらの系図の次の時代に 近江(越)からやって来た継体ヲホドによって やっとのことで ヤマトの政権として一つにまとまったとの仮定であるから。というよりは 継体ヲホドによる統一は 十年二十年をかけての調停と闘争を経なければならなかったのは 事実(記述)である。つまりそれまでは やはり 三輪と河内との両政権が――むしろ二つの政権が――ならび立っていたという推測である。応神ホムダワケは 近江・若狭などの地域を従え 主導権を握るようになったが それまで指導的な地位にあった三輪イリ政権を 征服しきったわけではないと考えられる。
また この想定は 継体ヲホド天皇のあと いわゆる大和朝廷において欽明朝とそして安閑・宣化朝との二つの系譜が 時にふたたび対立的にあらわれつつ存続したとも推測されていることがらと つながっている。でたらめの想定ではない。ただし今 強引にそしてむしろでたらめに なおこの五世紀では――四世紀がそうであったと推測してみたように 五世紀でも―― ふたつの(もしくは それ以上の)政権が並び立っていたと想定することから始めたい。以下 この前提で突拍子もない憶測をつらねるはずである。史実の比定を超えて 最終の目標には われわれに勝算がある。
仁徳オホサザキ(大雀)が ホムダマワカノミコト(品陀真若命)を通じて 三輪イリ政権の第四代イホキイリヒコの系図につながっていると書いてあることより そこからまったくでたらめに 次のように二つの流れを幻想することにしよう。応神ホムダワケは 河内ワケ政権であることにまちがいないが 仁徳オホサザキは いまべらぼうな考えをもって 三輪イリ政権の人だと想定してみるのである。名前は 古事記の原文表記にしたがう。

表6 四・五世紀の《日子》の系譜(想定)

近江タラシ政権・河内ワケ政権 世代(暦年) 三輪イリ政権
一(300) 御真木入日子印恵命(10崇神
大帯日子淤斯呂和気命(12景行) 伊久米伊理毘古伊佐知命(11垂仁)
倭建命//若帯日子天皇(13成務) 印色入日子命
帯中日子天皇(14仲哀)=息長帯日売命(神功皇后 五百木入日子命
・・・ ・・・ 品陀真若王
品陀和気命(15応神) 五(400) 大雀命(16仁徳)
水歯別命(18反正)//男浅津間若子宿祢命(19允恭) 伊邪本和気命(17履中)
穴穂御子(20安康)//大長谷若建命(21雄略) 市辺忍歯王//飯豊郎女
・・・//白髪大倭根子命(22清寧) 意祁命(24仁賢)//袁祁命(23顕宗)
・・・ 九(500) 小長谷若雀命(25武烈)

これに対する註解は 次のように書かれるはずである。
(1)応神ホムダワケが もし九州より東へやって来たとするときには その九州の勢力と 近江(オキナガタラシまたはタケシウチノスクネと呼ばれる三輪以外の氏族)の勢力とに分けてとらえるべきであり 便宜的にたとえば 次のようである。たとえば 12景行オホタラシヒコオシロワケを オホタラシヒコとオシロワケとの二人の人物として 両系譜に振り分けて見る。

表7 《ワケ》および《タラシ》の系譜

世代 筑紫《ワケ》 近江《タラシ》
御間城入彦五十瓊殖(崇神?)
淤斯呂和気(景行?) 大帯日子天皇(景行)
○(成務?)//(倭建命) 若帯日子天皇(成務)
○(仲哀?)=息長帯日売命(神功皇后 帯中日子天皇(仲哀?)
○//品陀和気命(応神)→河内《ワケ》

ヤマトタケル(倭建命)と呼ばれるようになった氏族が 九州に出向いてこの筑紫の一勢力と合体し ふたたび戻って来たという仮定である。ヤマトタケルは むろん事実(記述)として 征西している。
あるいは 筑紫に出向くことはなく もともとその他の一勢力・または朝鮮半島を経由して来た一勢力が 九州を平定し 河内へ上って行ったあと 近江タラシ政権との結びつきを持ち これにもとづいて 後世からヤマトタケルの時代に出向いたことがあったのだと 系譜を作り替えたかである。
筑紫ワケの第一代の日子は とうぜん ミマキイリヒコイニヱではなかったであろう。のちに 三輪イリ政権を統合して 全国制覇をなしとげた時点で このミマキイリヒコイニヱの名を 同じものとして採用したのであろう。もし 騎馬民族であって ミマナからやって来たのであったなら 御真木を 御間城に――都合よく――変えたのであろうことは ありえないではない。ただし それでも ほとんどその自分たちの出身・素性を明らかにするような形跡は残さなかったと考えられる。このばあいは 騎馬民族説にくみするならの話である。
(2) 三輪の第四と第五の世代間に ホムダマワカノミコという一世代があったかどうかが わからない。あったと記してあるのだが 河内の政権との世代的な対応を見るうえでは なかったとするほうが よい。短い一世代があっても かまわないわけである。また その応神ホムダワケのとき すでに 和議のしるしに 婚姻関係は初めから――このホムダマワカの家をつうじて――結んでおいたということかも知れない。
このホムダマワカの存在は ただ三輪イリと河内ワケとのつながりを 前まえからのものと言いたいために――つまり そう言われるようになっていたために むしろこれを残して―― 記しておいたかも知れない。《ホムダ》の同一および《ワケ》と《ワカ》との同類のために むしろ古事記作者は でたらめな想定をしてでも 推理せよとすら言っているかのようなのである。
われわれの議論にとっては 応神ホムダワケは 三輪イリ政権の――三輪イリ政権の側に想定するところの――仁徳オホサザキと同じ世代であると見ておくと都合がよい。ふたりは 同一人物ではないかとさえ 歴史学者も言っているほどであるから あながち根拠のないものではない。
(3) もちろん むしろでたらめのごとく いまは空想しているのであるが ここでは 全体的に 名前の交換 宮処また陵の位置の交錯 そして 歴史事実さえもの相互錯綜などが 古事記の記述じたいにも存在するのではないかと 仮定している。それは 古事記が意図的におこなったとさえ考えている。

  • 出来るならば この点は 第二部でより詳しく検討してみたい。

たとえば 第六世代のイザホワケ(伊邪本和気=履中)とヲアサヅマワクゴノスクネ(男浅津間若子宿禰=允恭)とは 互いに名前が逆であるかも知れない。あるいは ミヅハワケ(水歯別=反正)とかも知れない。イザホの《ザ》は《邪》と書いているのは つまりそのような表記を残しているのは 作為が感じられる。敦賀のイザサワケは 伊奢沙和気であった。

  • これは いわゆる《原古事記》には そうでなかったとしても その後の《現古事記》では アマテラス宗教の観点から そうされたのではないかといった疑いである。これも 憶測を述べるかたちのままとする。

その他 繰り返せば 宮処や古墳の所在地も記述されたものとしては 互いに交錯しているのであろう。したがって 歴史の出来事も 伝承上ないし編集記述じょう(ならびに 最終的な成立に際しての検閲じょう) 入り組んでいるのではないかと考えてのうえである。
憶測をすすめよう。
(4) 第七世代で イリ系のイチノベノオシハノミコ(市辺忍歯王)は 言わずと知れた事件において 雄略オホハツセワカタケによって 欺かれ殺された。
第五・六世代では ウタの構造じょうは 《アマガケル日子》の歴史知性が 《イリ》歴史知性に対して主導権を握り 互いの日子の家柄のあいだで婚姻関係が確立されて行ったもののようである。必ずしも 作為的な記事の錯綜によるのではなく そのような血縁関係はあらたに成り立ったかも知れない。だから こうならばむしろ 内紛がなかったわけではないだろうが 両政権は やはり通俗的な言い方をすれば 並存・共立していたと思われる。
第七世代では 河内政権の雄略オホハツセワカタケは まだ皇太子のときに 三輪政権の市辺忍歯王を 《淡海(近江なのである)のクタワタ(久多綿)のカヤノ(蚊屋野)》に誘い出し 表面じょう正当な理由をもって(なぜなら あの善悪の木のオキテに照らして つじつまが合わなければ だめである) 殺してしまったと伝えられている。これは 古事記がそのまま史実を反映しているかどうかを別としてだが われわれの単なる想定ではなく 実際なのである。
つまり そこからは――かくなる上は―― あのアマテラスのマツリゴトによる政権統一への動きが 活発になるのである。応神ホムダワケの時からの――もしくは 筑紫時代のワケ系の御間城入彦の時からの――永い永いひとつの悲願が 徐々に・また時には一気に具体的な軌道に乗るのである。
言いかえると 応神ホムダワケの時からすでに この動きは見られたが あの善悪の木(道徳)を押し立てている関係じょう 軽率な動きに出ることを出来ず 三輪政権の周囲の地を固めようとしていたのだが ついにこの雄略ワカタケの時には もはや なりふりかまわず これの実行に出たのだと疑いうる。そして政敵として とにかく殺した。つまり繰り返すとこの点で事態としては 古事記によっている。
市辺の忍歯王の二人の王子 仁賢オ〔ホ〕ケと顕宗ヲケは 暗殺のときその淡海の蚊屋野の地から 命からがら逃げた。播磨に来て 馬飼・牛飼としてその地で生きのびた。

  • オホ=大 ヲ=小。

三輪政権は 市辺忍歯王の妹であるイヒトヨノイラツメ(飯豊郎女また飯豊青皇女また忍海郎女)が取り仕切っていた。諸国へ使いを派遣して王子たちを探したが 河内政権が雄略ワカタケから清寧シラカノオホヤマトネコの代になっていたとき 播磨の地で見つけ出され三輪に連れ戻され日子として 迎えられたというのである。
(5) それにしてもその後 河内政権では 清寧シラカにも 日継ぎの御子がなく 雄略ワカタケにも清寧シラカ以外の後継者がなく また三輪政権でも 顕宗ヲケ〔またイハスワケ=石巣別〕にも仁賢オケおよびその子・武烈ヲハツセワカサザキにも もはや後継者が一人もいないというのは きわめて不自然である。
清寧シラカには 《御子が無く》 そして武烈ワカサザキには はっきりと《太子が無かった》と書いてあるが また 雄略オホハツセワカタケでは おほきさきであるワカクサカべノミコ(若日下部王)には 《子無かりき》とあり そして飯豊王女の場合は独身を選んだと書紀には書かれているが 全体としてそのようであるが これら両系統とも 血統が絶えたというのは 非常に不自然である。

  • ヤマト近辺には 後裔がいなくなったという記述なのである。

はじめのでたらめの想定の上であるが この点を さらに次章に追ってみよう。
(つづく)

*1:表4:2005-07-03 - caguirofie050703