caguirofie

哲学いろいろ

第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第十七章 継体ヲホド天皇は 正体不明であって その解き明かされないということによって その謎が解明された

――つづき:あるいはアマレークが意味表示する後退する民をとおして明らかに狂暴となり 私たちが約束の地に進むのを拒否して禁じるあの霊を モーセの伸ばされた手*1によって予表される主の十字架をとおして克服すべきものに他ならない。――
章のタイトルが不明だとすると ここからは闘いが始まるという意味だ。よけい不鮮明になったとするならば 非存在をよそおう存在――アマガケル歴史知性(それは 肉によってというよりも もっぱら日子の能力(精神)によってこれを曲げて かつあたかも肉体の放射線を発出しておこなう)――に対して 無関心でいることが出来ず かれを引き受けるとするなら 闘い以外にないということになる。この闘いは のちにも論議するように 基本として国譲りするそれであるから 何もしないたたかいである。敵を愛せ いな 敵を愛させよ。

《神ウレヅク》と兄弟の物語

およそ応神ホムダワケから雄略ワカタケに到る――そのようにして 百年の計として継体ヲホド擁立大作戦を敢行する――河内政権の五世紀百年を あらためて タラシ(帯・多羅斯)およびクサカ(日下・玖沙訶)にかんれんして推考するために 次のように歴史知性の基本にかかわるひとつの物語を読んでおこうと思う。たいへん長く引用する。前半が オキナガタラシヒメの母方の出自を明かしている。後半は 兄弟の関係の物語 そして兄弟は他人の始まりだというかの如く 一般に 人びと(オホタタネコ)にとってのシンライカンケイについて物語を提出する。

また昔 新羅(シラギ・シルラ)の国主(こにきし)の子ありき。
アメノヒボコ天之日矛)と謂ひき。この人 参ゐ渡り来つ。参ゐ渡り来つる所以は 新羅の国に一つの沼あり。名はアグヌマ(阿具沼)と謂ひき。この沼のほとりに ある賎しき女(をみな) 昼寝しき。ここに日(ひ) 虹の如く耀きて その陰上(ほと)に指ししを またある賎しき夫(をとこ) その状(さま)を異(あや)しと思ひて 恒(つね)にその女人の行(わざ)を伺ひき。故 この女人 その昼寝せし時より妊身(はら)みて 赤玉を生みき。
ここにその伺へる賎しき夫 その玉を乞ひ取りて 恒に裹(つつ)みて腰に著(つ)けき。この人 田を山谷の間に営(つく)りき。故 耕人(たびと)どもの飲食(をしもの)を 一つの牛に負せて山谷の中に入るに その国主の子アメノヒボコに遇逢(あ)ひき。ここにその人に問ひて曰(い)ひしく
――何しかも汝は飲食を牛に負(おほ)せて山谷に入る。汝は必ずこの牛を殺して食ふならむ。
といひて すなはちその人を捕らへて 獄囚(ひとや)に入れむとすれば その人答へて曰ひしく
――吾(あ)れ牛を殺さむとにはあらず。唯だ田人の食(をしもの)を送るにこそ。
といひき。然れども なほ赦さざりき。ここにその腰の玉を解きて その国主の子に幣(まひ)しつ。故 その賎しき夫を赦して その玉を将(も)ち来て 床の辺に置けば すなはち美麗(うるは)しき嬢子(をとめ)に化(な)りき。仍(よ)りて婚(まぐは)ひして嫡妻(むかひめ)としき。
ここにその嬢子 常に種々の珍味(ためつもの)を設(ま)けて 恒にその夫(ひこぢ)に食はしめき。故 その国主の子 心奢(おご)りて妻(め)を罵(の)るに その女人の言ひけらく
――凡そ吾れは 汝(いまし)の妻となるべき女にあらず。吾が祖(おや)の国に行かむ。
といひて すなはち竊(ひそ)かに小船(をぶね)に乗りて逃げ渡り来て ナニハ(難波)に留まりき。
〔こは難波のヒメゴソ(比売碁曽)の社に坐すアカルヒメノカミ(阿加流比売神)と謂ふ。〕
ここにアメノヒボコ その妻の遁(に)げしことを聞きて すなはち追ひ渡り来て ナニハに到らむとせし間 その渡りの神 塞(さ)へて入れざりき。故 更に還りてタヂマ(多遅摩)の国に泊(は)てき。すなはち その国に留まりて タヂマのマタヲ(俣尾)の女(むすめ) 名はマヘツミ(前津見)を娶して 生める子 タヂマモロスク(多遅摩母呂須玖)。この子 タヂマヒネ(多遅摩斐泥)。この子 タヂマヒナラキ(多遅摩比那良岐)。この子 タヂマモリ(多遅摩毛理)。次にタヂマヒタカ(多遅摩比多訶)。次にスガヒコ(清日子)。〔ヒナラキの子は 三柱。〕
このスガヒコ タギマ(当摩)のメヒ(竎斐)を娶して 生める子 スガノモロヲ(酢鹿諸男)。次に妹(いも) スガカマユラドミ(菅竈由良度美)。故 上(かみ)に云(い)へるタヂマヒタカ その姪ユラドミを娶して生める子 カヅラキ(葛城)のタカヌカヒメノミコト(高額比売命)。〔こは オキナガタラシヒメノミコトの御祖(みおや)なり。〕
故 そのアメノヒボコの持ち渡り来し物は 玉つ宝と云ひて 珠(たま)二貫(ふたつら)。また 浪振る領布(ひれ)・浪切る領布・風振る領布・風切る領布。また 奥つ鏡・辺つ鏡 あはせて八種(やくさ)なり。〔こは イヅシ(伊豆志)のヤマヘノオホカミ(八前大神)なり。〕

  • 物語はさらにつづく。

故 このカミの女(むすめ) 名はイヅシヲトメノカミ(伊豆志袁登売神)坐(ま)しき。故 八十神(やそかみ) このイヅシヲトメを得むと欲(おも)へども みな得(え)婚(まぐは)ひせざりき。ここに 二はしらのカミありき。兄は秋山のシタビヲトコ(下氷壮夫)と号(なづ)け 弟は春山のカスミヲトコ(霞壮夫)と名づけき。故 その兄 その弟に謂ひけらく
――吾(あれ) イヅシヲトメを乞へども え婚ひせざりき。汝(な)はこの嬢子を得むや。
といへば
――易(やす)く得む。
と答へて曰ひき。ここにその兄 曰ひけらく
――もし汝(なれ) この嬢子を得ることあらば 上下(かみしも)の衣服(きもの)を避(さ)り 身の高(たけ)を量りて甕酒(はらざけ)を醸(か)み また山河の物を悉に備へ設けて うれづく(賭)をせむ。
と云ひき。ここにその弟 兄の言ひしが如く 具(つぶ)さに その母に曰(まを)せば すなはちその母 藤(ふぢ)葛(かづら)を取りて 一宿(ひとよ)の間に 衣褌(きぬはかま)また襪沓(したくつくつ)を織り縫ひ また弓矢を作りて その衣褌どもを服(き)せ その弓矢を取らしめて その嬢子の家に遣はせば その衣服また弓矢 悉(ことごと)に藤の花になりき。ここにそのハルヤマのカスミヲトコ その弓矢を嬢子の厠(かはや)に繋(か)けき。ここにイヅシヲトメ その花を異(あや)しと思ひて 将(も)ち来る時に その嬢子の後(しり)に立ちて その屋に入る即ち 婚ひしつ。故 ひとりの子を生みき。ここにその兄に曰して曰ひしく
――吾はイヅシヲトメを得つ。
といひき。ここにその兄 弟の婚ひしつることを慷慨(うれた)みて そのうれづくの物を償(つぐの)はざりき。ここに愁ひてその母に曰しし時 御祖こたへて曰ひけらく
――我が御世の事 能(よ)くこそカミ習はめ(=わたしが生きている間のことは よく神さまに見習おう)。また 現しき青人草(ウツシキアヲヒトクサ=人びと)習へや その物 償はぬ(=兄は現実の人間を見習ってか 賭けの品物を出さない)。
といひて その兄の子を恨みて すなはちそのイヅシ河の河島の一節竹(ひとよだけ)を取りて 八目(やめ)の荒籠(あらこ)を作り その河の石を取り 塩に合へてその竹の葉に裹(つつ)みて 詛(とこ)はしめて言ひけらく
――この竹の葉の青むが如く 青み萎えよ。またこの塩の盈(み)ち乾(ふ)るが如く 盈ち乾よ。またこの石の沈むが如く 沈み臥(こや)せ。
といひき。かく詛はしめて 烟(かまど)の上に置きき。ここをもちてその兄 八年(やとせ)の間 干(ひ)萎え病み枯れぬ。故 その兄 患(うれ)ひ泣きて その御祖に請へば すなはちその詛戸(トコヒド)を返さしめき。ここにその身 本(もと)の如く安らかに平らぎき。〔こは カミウレヅクの言の本(もと)なり。〕
古事記 (岩波文庫) 応神天皇の段)

新羅の国主の子 アメノヒボコ》がやって来たのは 書紀では 三輪政権の第二代のこととし 播磨風土記では 神代(縄文時代ないし弥生時代の早い時期など)であるとしている。おそらく 早くから韓人がやって来ていたのであろう。引用文の前半にあるように オキナガタラシヒメ(応神ホムダワケの母)につながる系譜に見られるような出来事が 三輪第二代・垂仁イクメイリヒコの時代に 起こったのであろう。そうして 引用文の後半に記されるような・ここでは 兄と弟との関係――《神うれづく》というように ウタの構造の各自における形成・時に競い合い――の物語が ここ・すなわちこの古事記での応神ホムダワケの頃 人びとによって井戸端会議されたのであろう。
つまり なにかの事件(それは 応神ホムダワケの河内政権が起こしたものだと考えられる)にかんれんして 兄と弟とのカミウレヅクの物語が 人びとの考え方として 想起されたのであろう。なぜなら このようなウタの構造においては 一方がアマガケリしようとしていたり また他方が譲らねばならないようなコトと関係しており この応神ホムダワケによるワケ政権の発生という事件にかんして そのように――そのようにこそ――オホタタネコ原点が 確認されたことにほかならず 確認されねばならないような出来事として認められ うわさされたのであり 単純にこのことを物語ると見るからである。

  • 古事記は このように解釈せよとは言っていないが――つまり 一般的に言っても 古事記は 価値自由的な態度で 淡々と 物語るように 歴史を総括してゆくのだが―― たといこの解釈を採らなくとも 何らかの意図を前提して 解釈せずには 古事記は まるで脈絡のない百科事典を編んだに等しいことになるであろう。
  • 秋山のシタビヲトコと春山のカスミヲトコとの兄弟のカミウレヅクの物語は それが 新羅アメノヒボコ渡来の物語に関連して述べられており アメノヒボコの物語は その時代性が 他の書紀や風土記の記述とちがっているなら この古事記作者にとっての隠された独自の意図をも見なくてはなるまいゆえに この意図と関連させて 捉えなくてはなるまい。
  • 神うれづくの物語は 春と秋との対立・対照比較として 万葉集にも 額田王が おそらく 天智天皇天武天皇の兄弟にあてはめて 触れている(巻一・16番)ように なんらかの事件に関連して 井戸端会議するべくとしてのように 人びとが想起すべき一つのウタの構造としてのコトワザであったものと思われる。
  • 応神ホムダワケののち 仁徳オホサザキとウヂノワキイラツコの兄弟のあいだにも この神うれづくのコトワザに結びつく二人の関係過程があったことは 言うまでもない。
  • また同じく万葉集額田王と作とされるウタには このワキイラツコと仁徳オホサザキ――したがってと言うように 天智天皇天武天皇――との関係過程を総括するようなものがある(巻一・7番)。

ここに引用した秋山のシタビヲトコと春山のカスミヲトコの物語では 《呪詛》といった歴史知性以前の要因が見られるが 全体として素朴にオホタタネコ原点の歴史知性・つまりその動態を意味表示させている。そうして自己の同一にとどまることを 人びとは 共同主観していこうとしていったであろうと読み込んで 悪くはあるまい。
応神ホムダワケを 悪者あつかいするわけではないが かれらのウタの構造とその具体的な展開(出来ごと)には はっきり言えば そうして指弾されるべき要因があったろうことを ものがたる。古事記は これを語らせた。
つまり 自己が自己の同一にとどまるゆえに 相手の動向に応じて 《塩(潮)の盈ち乾る》ごとく振る舞い 時間と相手の虚偽に対して勝利するという話は すでに 古事記では 神代の巻に述べられている。すなわち 同種の共同主観(常識)として やはりホヲリノミコト(山幸彦)とホデリノミコト(海幸彦)のやはり兄弟の物語においてである。肥大するもしくはアマガケル日子のウタの構造に対しては 《攻めて来る時は シホミツタマ(塩盈珠)を出して溺れしめ 愁いを見せておもねって来る時は シホフルタマ(塩乾珠)を出して救い 惚(なや)まし苦しめてあげる》のだと。
引用文の中に触れられていた《珠二貫。または 波振る領布・波切る領布や 風振る(起こす)領布・風切る領布》というのも もとは とうぜん そのようなモノにカミのチカラ(オホモノヌシ)を見ようとし モノに自己の同一を託すところの縄文人的な呪術心性に発するものであるだろうが この呪術的な原始心性の鎖が解けたときには ある種の仕方で 原理的には この《塩盈珠・塩乾珠》の共同主観すなわち歴史知性の動態過程を暗示していたものとして 捉え返すなら 世界原理は一貫していると考えられる。

隣り人になるとは

いまは 歴史知性の肥大化したウタの構造・アマガケル歴史知性に どう対処するか まず国譲りすることを余儀なくされるが その上でどう対処するか その何もしない闘い(実践)について 考察している。
要するに その人の虚偽と欠陥を憎み その人の存在(イリ日子知性という本性)を愛し 《須く佐くべし》というオホタタネコ原点(これは動態)のことにほかならない。
この話が 応神ホムダワケの時代に 想起されたのである。つまり古事記は この応神天皇の段にこの話を載せている。
これが――このような一解釈が―― あまりにも楽観的にすぎると考える向きには やはり神代に戻って オホクニヌシが 八十神(つまり多くの周囲の人びと もしくは 兄弟)に迫害されるという物語をひもとくべきだと指摘してやりなさい。
いや それでも そんなうまい具合いに行くはずはないと疑う人びと――そうだ たしかに アマガケル歴史知性は 疑いの歴史知性でもある――に対しては スサノヲノミコトの物語に耳を傾けさせよ。
たとえば アマテラスオホミカミ(かのじょは スサノヲの姉である。つまり ここでは姉弟の関係となる)は――すでに ウタの構造の哲学的な考察を 古事記が前もって ここで与えていると見るべきようにして その神代の巻のところで―― アマガケル日子の善悪の木を堅く保持して 動かない。という出来事が 書かれている。つまり スサノヲが アマテラスのタカマノハラを訪れたのだが それは かのじょの国を奪うためではないかと疑った。この疑いが晴らされても あの永遠の現在の精神主義的なアマアガリを持して 停滞したままである。とき いわばかのじょアマテラスは アマガケル日子(日女)のカミガカリとも言うべきむしろ《疑いの歴史知性》 これに凝り固まったかのようである。

  • 善と悪とを知る木に拠っているから それらがちょうど裏腹だとでも言うかのように――それは そうだ。つまり 可変的な善と悪とである そのように―― 疑うことが 歴史知性の本質である(あるいは 《わたしは考えているゆえに わたしは存在するのだ》)と信じることが 人間なのだと天使の翼を生やした日子の能力が ささやいたかも知れない。

ここで スサノヲは 畔を離し溝を埋めてしまったとも書かれている。農地解放の叛乱をおこなった。その傍らで 皮を逆剥ぎにした馬を 機屋(ハタ織りの家)の屋根から 投げ入れたのである。これらは 善悪の木から導かれたオキテでは 明らかに罪である。
言いかえると あの世系がそこで絶える三輪イリ政権の最後の日子である武烈ワカサザキと同じように すでに破廉恥な行動をあえて辞さなかった。ここまでして 自己の同一を保たねばならなかった。残念ながら 校内暴力を・家庭内暴力をせずには 自己の同一を保てなかった。少しちがうが そのように 古事記の方法にも弱い一面があったごとく 無関心を決め込むのではなく――これを 能力によって なしえず―― 破廉恥な行動に出なければ 相手に隣人として接し得なかった。そういう時代があったと考える。
その結果 服飾女(はたおりめ)の一人は 梭(ひ)に陰上(ほと)を衝いて死んでしまった。皮を剥いだ馬を投げ入れられ そうなってしまった。
スサノヲは ここで 善悪の木のオキテ(律法)によるのではなく 言いかえると 《ウツシキアヲヒトクサ(現しき青人草)に習う=つまり 人間的な動機による》のではなく 《能(よ)くこそ カミ(生命の木)を習》って 疑いの歴史知性・また無関心の愛を具現するかのような姉アマテラスオホミカミを 心を尽くしてチカラを尽くして智恵を尽くして魂を尽くして 愛し抜いたのである。その結果――善悪の木の道徳にさからってでものように――したがって この愛の推進力がそこで 《処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿のように 道を駆ける巨人のようにおどり出た》(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)19:5;アウグスティヌスアウグスティヌス著作集 (第5巻 1) 告白録 (上)4:12)。
服飾女はこれを見て驚いた。もちろん心の内なる眼で 愛の推進力――裁きを宿す――を見たからであるが 感性を排除してしまわなくともよい。《よごと(善事)も一言 まがごと(悪事)もひとこと コトサカ(言離)のカミ ヒトコトヌシのカミ》にそっと指で触れられたのである。ここでアマテラスオホミカミは あの葛城の山での雄略ワカタケのように――ヒトコトヌシのカミを見まつって―― 《恐(かしこ)し 我がオホカミ 現(うつ)しおみ(現実の人間として)有らむとは 覚らざりき――もしくは 〈現し御身にあれば覚らざりき〉――》と言い出すべきであった。
われわれは あのモーセが――かれも神の山ホレブで ヒトコトヌシのカミに出会った(むろん直接見たのではない)―― 丘の頂にのぼって 伸ばした手を挙げているときのように あの狂暴となったアマレーク族に対して 敢然と立ち向かわなければならない。スサノヲは このアマレーク族の狂暴さを アマテラスオホミカミの心理的=身体的な動きの中に見てとらえ これを受け取ったが そこでは あたかもこの狂暴の虫が 自分の中に入り込んできたかのようになって むしろ自己の同一にとどまるゆえに あの破廉恥な行動に出たのである。

  • 人によっては 別の道をとおって この試みを避ける。

罪と定められている――善悪の木(それは 可変的・その意味でどうでもよい)によって定められている――おこないをも敢えて辞さずに むしろ あとで悔い改めるべき余地の残された破廉恥のほうを 無関心の死のごとき美徳よりも えらんで 生命の木に寄り縋った。すなわち 塩盈珠と塩乾珠とを持って アマガケル歴史知性の偽りの愛に対して――非存在をよそおう正体不明の存在に対して―― 闘わなければならなかった。外から来た罪は たといこれを犯しても むさぼり・姦淫とは見なされず 容易に許されるであろう。したがって われわれは 必然を恐れてはならないと同時に この一面で弱い方法を許容している古い歴史知性の過去から 強くなって 解放されなければならない。もちろん 弱きゆえの 無関心(偽り)でない無関心 これは 美徳とも言われているように そのように 別の道をとおって このアマガケル正体不明の歴史知性を克服することも 方法の一つである。
スサノヲは おのが十字架として この試練を避けずに 引き受けた。アマテラスオホミカミの歴史知性(ウタの構造)を食べた。われわれは 食べる人びとを 裁いてはならない。これを 古事記は 語っている。これは 古事記の方法の強い一面である。

  • 強いから よいというのではない。

オキナガタラシヒメが 新羅から渡って来た人びと(アメノヒボコ)の後裔である点については それほど こだわらなくてもよいであろう。同化して 全体として 日本人を形成していったのである。
タラシ系が 新しい渡来人で いま少し同化できずに いわゆる疎外感を感じていたとするなら あるいはクサカ氏が 日向から大和へやって来て 同様であったとしたなら われわれは かれらに対して 隣り人とならなければならない。クサカ氏は 逆に タラシ系の人びとと同様にではなく 疎外感を持っていなかったにもかかわらず いなかったゆえに タラシ系の人びとによって ウタの構造じょう かれらの旗じるしのもとに組み込まれていったとしても われわれの対応は 変わらない。
善悪の木のオキテとしてでないから 《ならなければならない》と言う。ただし 秋山のシタビヲトコと春山のカスミヲトコの物語のように もつれた形で隣人関係・兄弟関係が推移しなければならなかったとするなら われわれは ただみづからの疑いの歴史知性によってゆえもなく疎外感を持つ人びとに対しては 闘わなければならない。この何もしないたたかいの実践について論議してきたのである。
このオホタタネコ原点(それは動態)は ただ思考においてだけではなく 民間人の生活において そのような伝承ないし井戸端会議として 日常の常識として持たれていたであろうことを見たのである。古事記の内容の中心的な主題は これ以外にないと考えられる。社会形態つまり国家そして国際関係の問題を別とすればである。新羅から来た人であろうとなかろうと これは 日本人のこころである。古事記が そう語った。
われわれは またしても 正体不明の歴史知性の正体を つかみそこねた。追い追い これを明らかにしえればよいと思う。
(つづく)