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哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

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第二十四章 古事記の実践

表8 オキナガタラシヒメの系譜上の位置

[新羅]韓人=原日本人 [呉]倭人=原日本人 原日本人=[越]倭人 暦年
・・・ [邪馬台国]
神倭伊波礼毘古命(1神武) 邇芸速日命
・・・ ・・・
[新羅]天ノ日矛=[多遅摩]前津見 若倭根子日子大毘毘命(9開化)= =伊加賀色売命
日子坐王=[丸邇] 御真木天皇(10崇神 300
[山代]大筒木真若王=[丹波] 伊久米天皇(11垂仁)=[旦波]
比多訶 迦邇米雷王=[丹波] 大帯日子淤斯呂和気命(12景行)=[針間]
[葛城]高額比売= =息長宿禰 倭建命=[布多遅]伊理毘売命//若帯日子命(13成務)
息長帯比売命(神功皇后)= =帯中日子天皇(14仲哀)
品陀和気命(15応神) 400
・・・ ・・・
韓比売=(21雄略) (21雄略)=若日下部王 (21雄略)=○
(22清寧) 〔?(26継体)〕 春日大郎女=(24仁賢)//(23顕宗) 500
[尾張]=(26継体) (26継体)=手白髪郎女//(25武烈)
(27安閑)//(28宣化) (29欽明)
・・・ 600〜
(38天智)//(39天武) 〜〜700

これは 例によって 史実の比定よりも 概念図として描くような理解のためのものである。
古事記で最初に 《近江》が触れられるのは イザナキノミコトの記事の中である。

  • 近江←近つ淡海(あふみ←あはうみ)。大和から見て《近つ》だから はじめは 淡海 または 鳰湖(にほのうみ)。

妹のイザナミノミコトとともに 国土をつくり カミガミを生み(自然の個々のモノをそれぞれの名で認識し*1) さらにイザナミの死ののち 三貴子(アマテラス・ツクヨミ・スサノヲ)を生んだあと スサノヲが自分に課された役割分担を嫌っていたので ならこの国に住むべからずと命じて そのスサノヲを追放したことをもって イザナキは姿を消すことになる。

故(かれ) その伊邪那岐の大神は 淡海の多賀に坐します。
古事記 (岩波文庫) 上つ巻)

今日も 多賀神社があり ここに祀られることになったという。日本書紀では同じ経過をたどって 

幽宮(かくれのみや)を 淡路の洲(くに)(兵庫県津名郡一宮町多賀)に構(つく)りて 寂然(しづか)に長く隠れましき。
日本書紀〈1〉 (岩波文庫) 神代上 第六段)

《淡》が同じで 《多賀》の地名も同じく伝えられているということらしい。

  • 須佐之男命の宮は 出雲の須賀――つまり 須く賀(いは)ふべし――というから 普通名詞のごとくにも 多賀は感じられる。
  • 稲の栽培の前の粟(あは)等の雑穀の時代にかかわらせる意味もあるか。

いまは 古事記の記事にしたがって 兄のイザナキが近江方面に関係すると捉える。

故 その神避(かむさ)りし伊邪那美の神は 出雲の国と伯伎(ははき)の国との堺の比婆の山(広島県比婆郡か)に葬(はふ)りき。
古事記 (岩波文庫) 上)

というように 妹イザナミの死後の行方が 出雲方面であることと 対照的である。(少なくとも 大和にとって 反対方向である。)
イザナキ・イザナミにまつわる出来事は 縄文時代のことであろうから またその後 弥生・古墳時代を経て 古墳(時間の剰余価値の実物形態)の造営が終息に向かい 人びとの名前(社会的職務としての姓)の中の 観念の新墳(《アメ》)として受け継がれてゆくその過程・その時代にあって この史書を編んだのであるから イザナミの出雲方面とかイザナキの淡海(ないし淡路)とのつながりとかは およそ割り引いて考えなければいけない。つまり逆に 古事記編集の当時にあっては これらの歴史を総括する意味で 出雲や近江が登場するのだとしたなら 当時の政治情況あるいはウタの構造をそのように反映させたものと受け取ることも考えられる*2
この逆の意味で もう少し土地またはその氏族またはかれらが社会的にになったウタの構造の一形式としての《近江》について 追求していくとするなら じっさいオキナガまたはタラシヒコと深くつながったこの近江の地の占める位置は 重要だと考える。

  • 第一部とやや視点を異にして この形跡をいくらか拾ってみよう。邪推になるかも知れないことを ここでは 恐れずに。
タラシヒコのウタと近江

須佐之男命は のち 出雲に流れ着くことになっているが その前に アマテラスオホミカミのもとに立ち寄り この天照大御神は ヤホヨロヅ(八百万)のカミガミを 天の安の河原に集えさせたとあるとき このアメノヤスノカハラは 近江の野洲(やす)〔郡・川〕と関係あるのかと思いたくなる。
多賀と野洲とは かなり離れているから したがって こう見ることは 色眼鏡をかけて見ることになる。それにもかかわらず その後 須佐之男が 出雲の地で 高志(こし)の八俣の大蛇と闘ったと書いてあるなら このコシは越であって 近江とつながった地もしくはその一勢力ではないかとも思いたくなる。そんな構成になっている。
スサノヲの子の大国主と同一のウタの構造を持った一社会主体(つまりおおきく イリ日子歴史知性)として考えられるところのヤチホコノカミ(八千矛神)も 高志の国のヌナカハヒメ(沼河比売)と政治関係を結んだとあるなら 大きくウタの構造じょう これらの土地ないし勢力は やはり対立的につながっていると見られる情況証拠となる。
あるいはつまり なおも色眼鏡をもって 互いに対立関係にあったのだとされているのではないかと 推測したくなる。言いかえると ヤマトのタカマノハラなるアマテラスは その出雲との対立関係を 近江や越に肩代わりさせて マツリゴトをおこなったと言っているかのようである。第一部で見たように イヅモは 当然 スサノヲと結び付けられ ほとんどミワの共同体と同義であるが なおそれだけではなく マツリゴトの主体(つまりもっぱらの日子ら支配者)の圏域に ウタの構造の内的な《近江・越とそして出雲》とが存在するかのごとくである。
オホクニヌシのまつる神が 御諸山(みもろやま)すなわち三輪のカミであると明言されているなら ヤマトの地でも アマテラスの勢力(葛城・河内など)とスサノヲのそれ(つまり三輪)とが 対立して共存していたと言っているかのようである。
これらは すでに指摘され定説となっている部分もあれば 単なる色眼鏡で見た部分もある。
だが 上の表8に見るように あの応神ホムダワケノミコトの母であるオキナガタラシヒメノミコトの系図を参照するならば 大きくウタの構造は 各地の諸氏族勢力の対立・結合関係をもって成り立っていたと見ることは 迎え入れられるものではあるまいか。

  • 上の表8では 残念ながら(書き込みの仕方の点で)各地の氏族のことを 省略してしまっている。

表8は 大部分は古事記の記述にしたがっているが 第一部でのように 大胆に推測・想定したところがある。特に韓人・呉越の倭人などが 想定の部分である。継体ヲホドを 雄略ワカタケとワカクサカベノミコとの大作戦のために隠された子であるというのは 残念ながら何の根拠もない。
或るタラシヒコ(帯中日子)と或るタラシヒメ(息長帯比売[日売とも])との子である品陀和気命(応神)が じっさいには騎馬民族系であるかも知れない。これは 結論を保留するかたちで 触れるのみとせざるを得ない。(古墳の実地調査などで 新事実が明らかにされうるとはいえる。)また 韓人としては 新羅系(アメノヒボコ)のほかに 百済系を考慮に入れなければならないであろう。それらは もちろん原日本人や倭人やと 同化して来ているという点も 考慮に入れなければならない。
アフミ・オキナガ氏またはタラシヒコ姓は イリヒコなるウタの構造の系譜の上を行こうとして殊に 応神ホムダワケと継体ヲホドのときに 動きを鋭く鮮やかなものとしたと考えられる。ヤマト・近畿への登場の時と その百年後そこで覇権を握るための大作戦の時とである。
復習しつつ進むならば。まず 弥生時代終結古墳時代の開始の時期にあたるミマキイリヒコの時代を境にしてその前後の過程で 各地の氏族の勢力を結集しようとしたことに現われているのではないか。したがってさらに昔 弥生時代ないし縄文時代のときから 近江は登場しえたと考えられる。もちろん縄文時代の旧いときから その時代なりに栄えた土地であったろう。古事記の執筆の時代に イザナキノミコトのウタの構造とも関係づけられたかも知れない。
天智天皇が近江に都を遷したといった事態を証拠として挙げたとしても これは まだ色眼鏡がかかっている見方だけれども ウタの構造の歴史の把握として一つの経緯を示しうるかも知れない。
要するに われわれは はっきりとした結論を得ることはできない。漠然とした情況証拠のようなものを挙げてみるだけかも知れない。判断を留保したかたちで アフミ・タラシヒコの追求は終わるかも知れない。

古事記の実践

そしていまのような中途半端な結論がそうであるかどうかわからないが あくまで古事記は・その作者は 法治国家としての歴史社会の誕生を――系譜関係などの史実に反してまでも―― 跡づけつつ これをさらに一つの鏡としてこの鏡をとおして 歴史知性と歴史の誕生という主題にかんしては いま探求しているようなタラシヒコ / アフミの問題を暗に提出しているのではないだろうか。いまは まだ話題としてである。
そして話題としては 神代の巻きにも 暗々裏に触れられているのではないか これを まず うたぐってみた。すなわち要は アマガケル歴史知性が 善悪の木を押し立ててその二元論(うらおもて両面における罪の共同自治論)によって法治する社会を形作るとき ふつうの歴史知性は これに譲歩せざるを得ず そこには対立関係およびたたかいが生じると見られるというものである。

  • 法治社会といっても 成文法の有無を問わない。
  • 日子の能力なる善悪の木の突出というのは なにかと ゐや(礼)を重く見て むしろこれを守るべしというオキテでありうる。
  • ゐやは もっぱら日子の能力をよく発揮し ものごとのつじつまを合わせることに最大の努力をおこない やがてその人は 空気のような身体をおびた礼儀正しい人となるというときの その人間が法治するというかたちをいう。

その礼の人は 生命の木をアマテラスオホミカミというが もとからのオホタタネコ原点においても 生命の木はオホモノヌシノカミとしてウタの思いの中に宿されているから ある種の仕方では 新しい礼による法治社会は 容易に 人びとのあいだに 受け容れられ 普及していくものと考えられる。じっさい そうであった。と同時に ミマキイリヒコ歴史知性の側は そもそも クニユヅリしていた。

  • なぜ クニユヅリしなければならないかと言えば 生命の木はこれを 歴史知性たる人間が ほんとうには指し示したり 論証してみせたりすることが出来ないものだからである。
  • アマテラスオホミカミという新しい名を持ち出された場合にも 自分たちのひととおりの主張を明らかにしえても それ以後は 意志に反して馬に水を飲ませるわけにはいかないからである。イリ日子・イリ日女の墜落!?

このような情況 このような事態 このような普通のウタとそれを超越しようとするタラシヒコのウタとが入り混じって錯綜した状態 これを まず指摘し明らかにすることを自らの実践としたのではないか 古事記作者は。

敵なるX姓

上に 対立関係およびたたかいが生じていると書いたが それについて さらに明確にしておかねばならない。
ふつうのイリ日子歴史知性に その心根のウタとしては 対立がない。たたかいもない。このオホタタネコ原点を 歴史具体的に展開し発展させても 問題はない。これを 逸れるなら これを超えるとしつつ背反するようなことであれば とうぜん対立関係が生じる。この対立を前にして それを助長するのではないだろうけれど ウタの大事なところは ゐやの問題であるとして この善悪の木のオキテをいかに上手に人びとに訴えて罪の共同自治をはたすことが出来るかを競うかたちで 照り競い合いが行なわれることになる。
原点の歴史知性が負けるわけはないけれど 便利なほうが勝つことが多くなる。

  • イリ日子・イリ日女の墜落。

永遠の現在なる想像力の世界が 人びとのこころをつかむようなことになる。このとき 対立を仕掛けたタラシヒコの側は 機を見て機に乗じて イリヒコ歴史知性にとどまる数少ない日子たちに たたかいを挑むのである。クニユヅリをしていても 仕掛けてくる。左のほほを差し出してやっても 仕掛けてくる。ゐやまうべきは ゐやをこのように身を賭してでも堅く守るわれわれタラシヒコのミコトノリぞというわけである。かれらは 支配欲に支配されてしまった。
古事記が この哲学をこの愛の側からの哲学を語っていないというわけがない。史実としてよりはむしろウタの系譜関係を 鏡に映し出しつつ なおさらにこの鏡をとおして謎(不明瞭な寓喩)において 歴史知性の原点を 自己のもとに(自己の存在過程として)たどれ たどりつつつかめと言っている。
善悪の木として押し立てるその旗印である《ゐや》の理論は イリヒコ原点の単なる先取りなのである。ものごとのつじつまを合わせるというのは たとえ実際に先取りしていなくても その時その時相手が言った内容を 自己のもとに 先取ったかたちにして 答え返すというに過ぎない。ことばで――あたかも そこに 永遠の現在を描いて見せてのように―― 相手をあたたかく包む手法のことである。相手は 意外と包み込まれる。
これも 今度は タラシヒコの側の実践なのである。イリ日子原点における謎を――生命の木ヒトコト主の謎を――先取りしたその巧妙な一つの実践である。たしかに 古事記の精神の次には この古事記の実践が 論じられなければならない。相手・タラシヒコの側の実践を明らかにすることが おおよそその主な課題である。
あるいは われわれは ここで ただ理論的に アマガケル歴史知性の言い分を論破するだけでは 不十分であるかも知れない。実践しつつ 論破しなければならないかも知れない。そのような局面にさしかかったようでもある。
合点がいかないかと思うが こうである。この古事記の記者の行き方は 言うまでもなく学問的な歴史事実の研究(文献歴史学・考古学・言語学民族学民俗学等々)によって裏付けられなければならない。つまり古事記は そのような裏づけなど行なっていない。精神とその実践で 進めている。世の中が イリ日子歴史知性の上を行く超先取り史観をよくするタラシヒコのウタ これに染まっている。その永遠の現在とさえ見まがう心理と観念との共同性が 敷かれてしまった。これに対抗する手段を 編み出したとして 古事記の実践を捉えなければならない。
鏡は鏡つまり模像でしかなく 模像をわれわれは新しく作り変えてゆくのであるから 鏡そのものを見つめてはならない。一個人が 社会的なモノゴトの関係の総体であるという場合 そういう言い方をした場合 言うならば われわれの中の歴史知性が その総体を写しつつ まずはむしろ自己の中にこれを捉えている。だが この捉えた像また鏡が われわれの歴史知性ではない。だから 古事記は この一面としての鏡の像・タラシヒコのアマテラス・マツリゴトのそのウタの構造をさえ そのとき 自己のなかに持っているかのごとくであり そのとき この一面を見て人びとは アマテラス王権による王化の書であると言う。
けれども 古事記は 実践を物語っているのだ。すでに実践をしているのだ。恰好をつけて言うならば 学者があとに続くことを信じている。
けれども すべて《わたし》が 実践するのだ。一人ひとり わたしが実践している。
だれも 《わたしは民族だ。わたしが 国家だ》と言いうるものではない。だから 統一第一日子を善悪の木のもとに押し立てる――つまり この統一第一日子は ナシオンという観念でありうる――ときには そのような日子らの支配(共同自治でもよい)のための善悪の木であり 考え方はすべてがこれに染まって行き 制度はこの観念によって編まれた八重垣となる。古事記作者も むろん この常世の郷に寄留していた。
天智天皇は ここへアマガケリしていこうとした。天武天皇は 同じこのナシオナリスムの確立をもって それから自由であろうと考えた。
或る見方によっては 善が生じるために悪をしようと言ったというふうに聞こえるかもしれないが この場合 権力から自由であるミマキイリヒコ市政の系譜が 権力を回避せよというのではないことをうたっている点に重点がある。
われわれは タラシヒコのウタ――これは それとして われわれの敵である――について その正体をまだつかめていない。逆に言えば この正体不明のタラシヒコのウタを われわれは生け捕りにするというのが 課題である。神話のごとく言うならば この敵がみづから墓穴を掘って 正体を現わしつつ 無力にされることである。
たとえば 古事記は 王化の書であると言われるとともに 偽りの書だとも言う。そして これらの反応を引き出すことは 古事記の実践に属しており 人びとは 《わたし》が実践しないで 鏡の中でさまざまなウタを詠っているようだとも 古事記は見ているのではなかろうか。
この正体不明の敵なるウタを X氏(あるいはX姓)と名づけ この第二部の残りの章で――理論的には――生け捕りにしたいと考えている。

(つづく)

*1:モノにそれぞれ名をつける:言語記号の恣意性に対する反証例は次を参照:2004-09-18 - caguirofie040918

*2:イザナキの神の最後の鎮座地:西宮一民氏によると 淡路のほかに 近江の多賀であることも《十分推測できる》という。①古事記の写本の中にさえ 《淡路》と写すものがあるが 《記では必ず〈淡道〉と書き〈淡路〉とは書かない。》②《日本霊異記》に《陁我(多賀)の大神》と《白猿》の話があり 猿は太陽の神使いであるから 多賀の大神は太陽神ということになる。紀の《日の少宮(わかみや)に留まり宅(す)みましき》の記事をも参照して そのイザナキが 《陁我の大神の名》を帯びたと推測されうる。③イザナキは 《〈海人族(古代漁民集団)〉の奉斎神であり その伝承が多彩な神格を形成して 結局 天照大御神の祖神として定着せしめられたものであろう。》古事記 新潮日本古典集成 第27回pp.326−327。さて 真相はどういうふうであろう。