caguirofie

哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

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第二十二章 余談ふうに――吉野の鮎――

わたしの父は税理士が職業であったが 氏姓名の構造で言うと あたかも ナニノ・ゼイリシ・ナニゾウということになる。士というからには 真ん中の姓は 《日子》であるかも知れない。皮肉および自嘲のごとくいえば あたかも日本国株式会社自由業種税理士部の所属というかのようである。古代日本の部の民の《部》ではないであろうが。
あるいは 若いときには 横浜正金銀行に勤めていたから 銀行部に属するベノタミであったかも知れない。この銀行を指揮する頭取は ギンコウベノミコトという社会的性格を持つと考えられるかもわからない。
これが 取りあえず われわれの言っているウタの構造――つまり勿論 モノの資本関係=コトの資本過程をその基盤としている だから ウタとしてなら 観念の資本構造と言いなおすこともできる――であった。
単純に過ぎるというなかれ。
もっとも コトは単純であって 同時に その歴史知性の歴史的進展の結果は あたかも無効の現実を容れてのように――無効のウタと普通のウタとが入り組み錯綜してのように あるいは 無効が実効性を持って 有力となってのように―― 国譲りをしながら シンライカンケイを保ちつつ 社会を支えてきたというものであった。誰が どちらが 無効のウタであるかは かんたんには分からないから どちらも 普通のイリヒコ歴史知性であると自認して 互いに クニユヅリし合っていると考えている。
はじめにオホタタネコ原点に立って ミマキイリヒコ社会をつくったとき たしかに社会的役割としての指導者を立てたのだから それは 《ミマキ(氏)・イリヒコ(姓)・イニヱ(名)》というウタの構造を組み立てた。一般の根子市民の中から 日子公民を選び出した。社会的分業である。ここからさらに この三輪イリ政権の市長が 第一日子とされても 問題はない。いわば 
《モノの木‐善悪の木[オホタタ根子市民‐イリ日子公民・第一日子]‐生命の木》
という秩序から成るウタである。ここから もっぱら日子の能力を欲しこれを単独分立させアマガケリを敢行するタラシ日子なる歴史知性が現われた。
生命の木の声を代弁する天使の能力を持ったとうたう超越第一日子の出現。

善悪の木 知恵の木 善悪の木=生命の木
オホタタ根子=イリ日子市民 タラシ日子公民 統一第一日子

善悪の木と知恵の木とは 同じものであるが 仮りに分けてみた。公民は もっぱら公民であるという位置づけとしてである。日子の能力の単独分立ということである。そう努力しないイリ日子は 公民にはなれない。ウタがちがうというわけである。
このタラシ日子のウタは 社会を二階建ての家とする国家という形態を脳裡に描き これの実現へと動いた。この国家形成――というよりも 統一第一日子の徳による永遠の現在なる常世の実現――への動きは 勇敢にも つまりわれわれから見れば《畏れ多くも生命の木に背反してのように勇敢にも》 百年の計として動き出していった。この計画と実践において この人びとは 自己を失い得ないと思うほど 強くなった。

御真木入日子はや
御真木入日子はや
己が緒を 盗み殺(し)せむと
後(しり)つ戸よ(=via) い行き違(たが)ひ
前つ戸よ い行き違ひ
窺(うかが)はく 知らにと
御真木入日子はや
古事記 (岩波文庫) 古事記歌謡・23)

この歌で《うかがっている》のは タケハ二ヤスという具体的な人物である。それによって ミマキイリヒコの命が危いというウワサ(井戸端会議)を表わしている。われわれは まず オホタタネコ原点としてイリ日子歴史知性を確立した者は クニユヅリしなければならないというほど 弱い――自己の同一にとどまりうるほど強く それゆえ 弱い――ので この弱さを 確認しなければならない。抵抗しないわけではないが 意祁(オケ)・袁祁(ヲケ)の二王子兄弟の例にもあったように 復讐をすることからも自由であるので 弱い。上の歌は 良心のためにうたっている。刺客・タケハ二ヤスの良心のためである。
この動きが 天武《イリ日子》体制で 一応の終止符が打たれたとも すでに言って来た。お座なりの言い方をすれば 天武天皇とかれを支援した日子あるいは根子たちは じっさい国家体制の実現をもって イリ日子とアマガケル・タラシ日子との両ウタの主体を綜合しようと考えたのである。考えたのだと思われる。
ちなみに ここでも 天智天皇天武天皇との関係として 秋山のシタビヲトコと春山のカスミヲトコとの兄弟の物語が あるいは 関係づけられているかも分からない。いや それ以上のタカマノハラにおける動乱(壬申の乱)であったかと思われる。これは 感覚的な印象で ものを言ったまでである。

デカダンスという熟成

この国家体制の成立の以後においては――国家の段階においては―― たとえば オキナガ〔または扶余(ふよ)〕(氏)・ホムダワケ(姓)・オホトモ(名)というウタの構造と ナニノ(氏)・ギンコウ(銀行)ベのミコト(姓)・ナニベエ(名)というそれとは 時に内容を同じくしつつ 同時に 非連続である。
非連続であるというのは 天武体制によって ミマキイリヒコ視点が回復されたからである。内容を同じくするというのは 同じ天武体制が アマガケル日子たるホムダワケノミコトのウタの構造によって目指された国家形態を事実上の枠組みとしたからである。この枠組みは 現代のものでもある。
前者の点で ミマキイリヒコ知性が回復されたというのは さらに同じく 現代でもこの枠組みの中で 近代市民の自由なウタの構造が樹立されたというのと 段階を異にしつつ 契機を同じくしている。強引にでも このような史観を立てておきたいとおもう。

  • タラシ日子のアマガケル歴史知性が イリ日子から国譲りを引き出し――といっても 後者らは 《塩盈珠・塩乾珠》をもって応戦(何もしないたたかい)していたのであって つまり基本的には ウタの構造のたたかいなのであって―― ついに前者らは 善悪の木のアマガケル旗を打ち立てるという最初の目的をとげたとき 遂げたところで 同時に 投げ出された。
  • こう言ったのは その後 アマガケル歴史知性が滅亡したということからではなく 一つに単純に言えば かれらがそれ以上にアマガケリしえなくなったということからである。
  • しかも これは イリ日子らが クニユヅリしたと言っても それは 一方で タラシ日子らに好きなようにさせたと同時に 他方で イリ日子らは自分たちの主張すべきは主張しつつ 歩を譲ることにおいて お付き合いをしていたのであって このお付き合いという歴史が アマガケリの頂点に達したときのタラシ日子らを 失望の淵に投げ出したのだと考えられる。デカダンスという言葉は かれらのためにあった。
  • 残念ながらというべきか タラシ日子らは その目的を達し自分たちのウタが実効性を持ったと知るところで初めて 自分たちのためにこそ イリ日子らが道を譲っていたのだと――そこで むしろ初めて内面へ向きかえられて――気づいた。ゆえに 地へ投げ出されたのである。
  • したがって その後は もし対外的なアマガケリとしての帝国主義を別とすれば 国内では アマガケル精神のアマテラス・マツリゴトは 実質的には終えられた地点から 出発しているのだと考えられる。ゆえに このマツリゴトの儀式典礼化あるいは時に理論化などが流行ってゆくのであろう。
吉野の鮎

アマノヌナハラオキ(氏)マヒトノスメラミコト(姓)オホシアマ(名)つまり のちのこの天武天皇の下で オホタタネコ原点たるウタをつかさどった柿本人麻呂は オホタタネコ原点なる歴史知性の復活をちからづよく歌って この体制以後のその国家形態の再編成をもって 市民の生活作業過程とするものであることをまず 原理的に示したのである。
この歴史を――うたのこころにおいて―― われわれは受け継いでおると見なければなるまい。

  • オホシアマ(名)は オホアマの王子とも。

氏姓制度――あの善悪の木によって為すアマガケル日子の生命の木を幻想において保つ精神主義的な社会秩序――の形成への動きは 天武天皇の前の時代からおこなわれていた。かれによるヤクサノカバネ(八色の姓)の成立をもって 完成したと同時にすでに崩壊していたものを むしろ確立して明らかにした。

  • 無効のものを つまりあるいは 無効が実効性をもって有力になったものを 有効なように装ったと言っていえなくない。ただ アマガケル・タラシ日子らを 人民裁判に処するということは 天武天皇らはあまり思わなかったことである。
  • もちろん これゆえに タテマエとホンネとの 労働の二重性が なお後遺症のごとく 残った。こう指摘しうる地点は 後遺症から自由であるからだと考えたい。
  • あるいは 万葉集第一巻のはじめのほうの天武天皇の吉野の歌などを見てみよ。見方によっては アマガケル歴史知性または秋山のシタビヲトコのそれに傾いていた兄・天智天皇のウタの構造(要するに統治方式)に対して きわめて私怨的と見える屈辱的な調子がうかがわれる。 

み吉野の 耳我の嶺に 
時なくそ 雪は降りける
間なくそ 雨は零(ふ)りける
その雪の 時なきが如
その雨の 間なくが如
隈(くま)も落ちず
思ひつつぞ来し その山道を
万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫) 巻一・25:天武天皇

  • しかし これを公言しうるというほどに 私怨からかれは自由であった。
  • むろん世論の中には うらみに満ちた天智政権への敵対感が 醸成されていたであろう。

み吉野の 吉野の鮎 
鮎こそは 島辺も吉き 
え苦しゑ 
水葱(なぎ)の下(もと) 芹の下 吾は苦しゑ
日本書紀〈5〉 (岩波文庫) 天智天皇の段。童謡(わざうた))

  • ここで あの雄略ワカタケが 三輪イリ政権の市辺忍歯王を暗殺したことに代表されるようなアマガケル日子らの統一政権へ向けておこなわれた大作戦――その奥の手――が 指弾され 実際の戦争にも発展した。
  • けれども イリ日子歴史知性らは なお基本的に ワケ・タラシ日子に譲歩していたのであり もし実際に自分たちの手で報復しようなどと考えていたとしたなら 壬申の乱には発展しなかったろう。
  • この六七二年(壬申)の乱にかんして 歴史の狡知であるとか 歴史の推進力がはたらいたなどと言わない。と同時に しかしむしろ ウタの構造の謎における神秘的な側面を容れてその展開過程を 捉えるほうが 科学的であるのではないか。問題提起として。
われわれは 権力を回避せよというわけではない。

けれども 善悪の木のオキテ これが いくら精緻なものであっても 善悪論で・それのみで 世界の秩序がよくなるとは限らない。律令制が それだけで 罪の共同自治をになうということは ありえない。あるいは 法律が 人びとのこころのシンライカンケイを育てるとは 誰も思っていない。身分制度の旧いところを問わないとしても 善悪の木がいかに高くそびえて すぐれた内容のオキテを謳おうと それが へのかっぱであることは ひとりのオホタタネコなら いやというほど知っている。歴史知性のイロハのイである。
そこには 一たん内面へ向きかえられたワケ・タラシ日子たちであるが かれらの ここから以後は譲らないという凝り固まった疑いの歴史知性が あらためて始まった。天飛ぶ日子らの氏姓名制度たる国家体制は 空気のような身体をもってする幻想の社会秩序であるとはっきり自覚され 国家という社会形態は残されつつ 推移していくのである。
この中で フヂハラ(氏)・タラシ日子(姓)・不比等(名)が 持統天皇の時代へ下るにつれ アマガケル日子のウタを復活させた。アマテラス・マツリゴト宗教を再興したのであるが このときには オホタタネコ原点は 殊更 スサノヲノミコト(須く佐くべし)のウタを持ち出さずとも 自己の同一にとどまる生活の知恵にかんして分かりきっていた。こう見なければなるまい。

  • われわれから言わせれば この時代の社会は 病い膏肓にいたる状態だと思われる。

もし一部に言われているように 不比等は人麻呂を失脚させ流刑に処したとするなら かれは 自己の疑いの歴史知性を人麻呂のうたうオホタタネコ原点の中に 映し出してのように見て取って いわば人麻呂を石見の国に流すことによって 精神科の病院に強制収容した。そのとき 不比等は ウタを・そして人格を交換してのように 人麻呂の歴史知性に拠って その空気のような身体を基体とする精神を保った。
おそらく 死刑の執行までは 為し得なかったのであろう。しかし 一度は命じてしまっていた死刑執行をとどまったのであろう。これを受けて 人麻呂は 臨死のうたを歌ってみせたわけである。

柿本朝臣人麻呂の石見の国に在りて臨死(みまか)らむとせし時に 自ら傷みて作れる歌一首

  • 鴨山の岩根し枕けるわれをかも 知らにと 妹が待ちつつあるらむ

万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫) 巻二・223)
柿本朝臣人麻呂の死(みまか)りし時に 妻の依羅娘子(よさみのをとめ)の作れる歌二首

  • 今日今日(けふけふ)とわが待つ君は石川の貝に〔一は云はく 谷(かひ)に〕交じりてありといはずやも(224)
  • 直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ 石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ(225)

左のほほをも向けたわけである。不比等に・または時のタラシ日子らに 人麻呂は  抵抗している。妻も かねてよりの約束どおり かれの歌に唱和してみせた。

  • あるいは妻は 一度はほんとうに 臨死の歌だと思ったかもしれない。

人麻呂の記事がはっきりした形で 公けの史書にないのは タラシ日子・不比等が 歴史知性の歴史じょう 二度までは奥の手を使えなかったことを意味表示するものと思われる。云いかえると そういう歴史の真実をもった人物をもはや 公けの史書に わざわざ載せて扱うということをしたくなかったのであろう。これによって――これを 象徴的な事件として―― 大きく言って アマガケル日子の善悪の木主義は 無力にされた。
それにしても この国家の時代が長く続いたのは どういうわけか。
日本帝国陸軍が――だから日本人全部が(また 大政翼賛運動を起こしたのは 近衛文麿というひとりのフヂハラ氏であったが)―― 遠くタラシ日子の姓としての不比等の跡を襲った。これらその後の歴史経過は 対外的な関係において捉えるべきであろう。市民は アマガケル日子をその幻想から佐けるべく 戦争に際して――社会的諸関係の総体としては お付き合いし―― 死を引き受けた。これを最後とした。もちろん戦争中に 多くの別様の同じ人麻呂らが 特高警察によって精神科の病院に収容された。われわれ皆が かれらを拘束し死なせた。
学問から逸れることを恐れると同時に このような井戸端会議も必要だと考える。共同主観を形成すべく 童謡(わざうた)――《御真木入日子はや 御真木入日子はや・・・》――をわれわれは数多く いな無限に語り継いでいく。ちなみに言って われわれのあたらしいオホタタネコ政権が誕生したときにも 同様である。ミマキイリヒコ政権は 権力から自由であったゆえに ワケ・タラシ日子勢力にまず道を譲らねばならなかった。タラシ日子らの幻想と欠陥を取り除くことによってではなく 罪人でない人はいないと言ってのように かれらのふつうの歴史知性に復活することを俟った。これはすでに 原理的に ある種の仕方で密教的に――心根のなかに――成就されていた。
もし社会的な共同生活じょう 権力も必要であると考えるならば あたらしい権力のあり方を われわれは 問い求めるであろう。われわれは この意味で 権力を回避してはならない。
三輪のミマキイリヒコ市政の実績をわれわれは持っている。各地の日本人社会は この伝統に立っていると強引に見たい。今後は 生命の木の声にではなく アマガケル永遠の現在のウタの世界に浸りきるタラシ日子勢力の跳躍に弱いというオホタタネコ歴史知性を しかしなお 保ちつつ しかも この幻想の光り=もっぱらの日子の理性の放射線の動向に 素早く対処しうる共同自治のあり方を 模索するであろう。知恵ある者を責めよ そうすればかれらは学にすすむであろうと聞かれた。
ちなみに 何か一つ理想的な――その意味で 善悪の木による法律制度至上主義の――社会の形態があるということではなかろう。オホタタネコ歴史知性は つねに動態であった。愛――歴史知性が分有し になう社会資本の推進力――のないところには このアマガケル日子らの暗躍への恐れはない。この恐れは かれらが躓きはしないか まだ第二の死に入っていない者をも ただちに第二の死に追いやりはしないか(なぜなら われわれオホモノヌシの神の子たるオホタタネコは 滅びる者にとっては 死に至らせる死の香りである)という恐れである。それゆえ 《良心のために つまり かれらの良心のために》といった考えを持つ。
この恐れを持って 気遣っているあいだに われわれは 弱い。内面で恐れを持ちうるほど強いけれど 外で聞くのべつ幕なしのウタのメロディーに とりあえず弱い。けれども この弱いクニユヅリのうちに オホタタネコ歴史知性は完成されていくと聞かれる。

八百万の自由な姓

ここで われわれが善悪二元論に立ったと思うのは 間違いである。善悪の木に拠らないというのが はじめの原理であった。悪である死が善用されるということを言った(第一部・第六章)。われわれは 少しは強くなって――日から日へ変えられていき―― 悪を善用する・悪を生け捕りにして善用しうる資本関係が たぶん 築かれていくのだ。それは 善悪の木に寄り頼むことがなく 善悪の二元論に立たないことによってだと考えられる。
このことは 人間社会にとって 時として 実現するのである。善悪の木のオキテまた科学によって 善と悪とを知り裁いていくだけなら それは 観念の世界における永遠の現在のマツリゴトである。世界原理が 《モノの木‐善悪の木‐生命の木》なる秩序として成り立っているのなら 昼と夜 善と悪の二元論も 性善説性悪説も両者の折衷説も 同じ鏡の中にある。

  • ただ 死(存在の無化)が 悪であると考えられたなら 存在の有は善である。ゆえに 存在自体は愛し その欠陥を憎むという方法。ゆえに ゆづるという方法。その動態としての方法。つまり 生活じたい。
  • ただし 善悪の木の主体つまり人間の一元論でもなかった。 

天武天皇が 八色の姓の制度において それまで強大な勢力を誇っていた《臣・連》の姓を 下位に置いた。それは 一面では 国家形態における中央集権体制の強化のためであったが 一面では 歴史知性の《姓(社会的職務)》としての動態を回復するためである。しかし 現代では 形態の問題であるよりも ウタの構造の再編成と変革に 目指す方向があるように思われる。
八色の姓は すでに八百万いやそれ以上の自由な姓になっており われわれは 歴史の共同相続人となって あらためて いわゆる巡礼の旅路を歩み進めていくことが出来ると思われる。相続したものを発展させつつ この歴史知性を生き切り やがて死んでもいくのである。
(つづく)