caguirofie

哲学いろいろ

第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第十二章 歴史知性としての《イリ》および《ワケ》と《タラシ》

――人間は自己の権能を愛するとき 普遍的全体から 普遍性を奪われた私的な部分に滑り落ちる――
さて 縄文人的な歴史知性であった《ケヒノオホカミ》が イザサ《ワケ》ノカミに衣替えしたことをわれわれは見たのである。
この《ワケ》に代表される歴史知性のアマガケリに到るまでには オホタタネコ原点=ミマキイリヒコ視点なるふつうの歴史知性の確立があったことをも述べた。当面の課題は これら歴史知性のあり方について 異同さらにはその是非を明らかにしてゆくことである。
かんたんに振り返っておこう。
呪術的歴史知性が ヒルコ・ヒルメとして しかもオホモノヌシノカミとモノゴトとを分けて考えないことにより かれら自身 原始心性のカミ(カムロキ・カムロミ)として 生きていた。ここに 時間が生起して 稲の前の段階で・しかも粟・稗・黍などの農耕がはじまった段階では のちに スクナヒコナノカミと呼ばれた自己認識を持ち やがてヒコノミコト(狗奴国の男王 卑弥弓呼)・ヒメノミコト(邪馬台国の女王 卑弥呼)の段階を経つつ ネコヒコ(葛城の孝霊・孝元・開化)として自己形成し さらにオホタタネコ・ミマキイリヒコノミコトとして確立したというものである。また スクナ(少・少地)ヒコナは オホクニヌシとの関係概念だと考えられた。
時間の生起つまりオホモノヌシノカミの対象化を獲得しつつ なお縄文人のように このカミに《ヨリ(憑)》ついていた(=卑弥呼の《鬼道》)のが 確実に《ネコ‐ヒコ》連関者として 《イリ》の歴史知性となったのである。
言うならば 《ワケ》は この《イリ》歴史知性からの《分け》である。その《イリ日子の能力》の単独分立 《永遠の今》の想像(シンボリズム)において・また それによって 《イリ》主体ながら同時に アマガケリしたのである。ここに 《イリ》のまつりが 《ワケ》なる第一日子のまつりごとへ転回する。
《ワケ》なる第一日子にとっては そのマツリゴトの実践にかんして 《永遠の今》つまり《オキナガ》なる祭司を 必要とした。また その逆でもある。このオキナガなる政治家が 《タラシ(帯)》なる歴史知性を表わしていた。単純に言って そのアマガケル・マツリゴトによってかれらは 不老長寿の《鏡》をまつろうとした卑弥呼の時代とむしろ《連帯》したのである。そうすべきであると考えたのである。
鏡をとおして謎において オホモノヌシのカミを見まつるのではなく 鏡そのものを見たのである。鏡の中の 自己の日子の能力 それとしての永遠の今である。この鏡には あの善悪の木が侵すべからざる神聖な性格を与えられ立てられ 《ワケ》ても この神聖な木を アマガケル日子の権能によって体現するという第一日子が まつりごつという《うた(歴史知性)の構造》 これが その新しい宗教の内容であり つまりは共同自治の方式であった。
歴史知性つまり生活にかんして ヨリ(憑)とイリ(入) また ワケ(別・和気・和紀・若)とタラシ(帯・多羅斯)とは このようなウタの構造において 対立的にも入り組んで推移し関係していると思われる。イリにも ヨリなる言わば和の本能が引き継がれていると言わなければなるまい。これを 意富多多泥古また御真木印恵命として 入り日子なる動態へと変えた。根子‐日子の連関者なる歴史知性の社会的な動態とその過程の中に ヨリなる和の本能を揚棄した。ワケなる歴史知性は 日子の能力をもっぱら御真木なのだと考えた。じつはこの善悪の木を 和のみなもとだと信じた。ヨリ歴史知性の残存をそこに見てとったところのスクナミカミ(なる人びと)と この善悪の木のもとに《連帯》するなら この《和気(アマガケリした和の雰囲気)》が 《和》の《紀》元となると考えたのである。
応神ホムダワケの登場以前にも タラシ(そのような観念の《帯》 また《すぐれた(多)網(羅)がこれ(斯)》)なる歴史知性として 起こりつつあったと考えられた。

タラシ / ワケ系は イリ日子原点から出たと想定する。

そこで古事記では ミマキイリヒコ三輪政権の第三代であるいわゆる景行天皇は すでに 《オホタラシヒコオシロワケノスメラミコト(大帯日子淤斯呂和気天皇)》であることに注目することができる。タラシとワケの両方がすでに 添えられている。第二代の垂仁天皇=イクメイリヒコイサチノミコトの子が かれであったと記されている。
ところが この景行オホタラシオシロワケのさらに次の世代である太子(ひつぎのみこ)には 三人がいた。かれらは 

  • ワカタラシヒコノミコト(若帯日子命)
  • イホキイリヒコノミコト(五百木入日子命)
  • ヲウスノミコト(小碓命・またの名は ヤマトヲグナノミコトつまりヤマトタケルノミコト

である。また 垂仁イクメイリヒコイサチには 景行オホタラシヒコオシロワケのほかに イニシキイリヒコノミコト(印色入日子命)という子がいて かれは 血沼池などを作り治水事業をなし また石上(いそのかみ)の神の宮に仕えたと言われている。
そうして 景行のあと第四代は ワカタラシヒコ(成務天皇)が 政権の座についたのであるが それは すでに 近つ淡海の志賀(滋賀)の高穴穂が その宮処(みやこ)であったと言う。
さらに ミマキイリヒコから第五代の政権担当者は タラシナカツヒコ(帯中日子)という名の仲哀天皇であり かれは ヤマトタケルの子であるが その母は 山代(山城)の一氏族につながり かつ いま問題のオキナガタラシヒメを大后(おほきさき)にして ホムダワケ応神を生んでいる。その宮処は 穴門(あなど)の豊浦(下関市)また筑紫の訶志比(香椎)にあったという物語である。
オキナガタラシヒメは その系図が遠く開化ワカヤマトネコヒコオホビビにつながるが そこには 丸邇(わに。近江または大和)・山代・丹波および葛城の各氏族が 五世代のあいだに血縁関係としてあるというものである。また のちに見るように 新羅の人・アメノヒボコ天之日矛)を母方の祖先とするとも 書いてある。
この情況では 単純に イリとワケまたはタラシのそれぞれ系統にいちど 分けて考えてみたい誘惑に われわれはたしかに かられる。もしそれによると こうである。

表4 四世紀の《日子》の系譜(仮定)

イリ系 世代 ワケ系・タラシ系
ミマキイリヒコ(崇神・10)
イクメイリヒコイサチ(垂仁・11) オホタラシヒコオシロワケ(景行・12)
イニシキイリヒコ ワカタラシヒコ(成務・13)
イホキイリヒコ タラシナカツヒコ(仲哀・14)
ホムダワケ(応神・15)

この表4では 記に従わない部分がある。イリ系統でも タラシ / ワケの系統でも 第Ⅲ代と第Ⅳ代とが 父子ではないという点 また 第Ⅱ代としたところで 垂仁イクメイリヒコイサチは 景行オホタラシヒコオシロワケの父であるのに 両者を同世代として両系に分けた点である。
景行から仲哀へは 成務ワカタラシヒコではなく ヤマトタケルを介してつながるのである。が 成務ワカタラシヒコが近江に宮処しており 仲哀タラシナカツヒコが 穴門また筑紫にであるから このタラシ系統の第Ⅲ代に ワカタラシヒコとヤマトタケルとの二人を置いて介在させてみると むしろ誘惑された想像にとっては 好都合である。ヤマトタケルが近江にいて ワカタラシヒコはすでに九州に行っていたのかも知れない。また その逆であるかも知れない。
非常に弱くなって もしこの誘惑に従うなら タラシ系統の空白の第Ⅰ世代には 言われてもいるように あの任那(にんな・みまな)から九州に上陸したという《任那の王》という意味でのミマキイリヒコ(便宜的に 御間城入彦とする)をあてはめると ちょうど 三輪イリ系のミマキイリヒコ(同じく 御真木入日子)と同時代であり 九州上陸の時点が 西暦三百年の前後という説と ぴったりである。言いかえると このタラシ系統を タラシ系(近江オキナガ氏に代表させる)と ワケ系(騎馬民族または そのように河内に上って来た九州の一勢力)とに分けて考えることが可能である。
第Ⅱ代の景行オホタラシヒコオシロワケのときに そのような動きが すでに見られたか あるいは 後世の編集上――史実にさからってでも ウタの構造の歴史的展開を見るうえでは―― 示唆させるようにして その名を配したかであると考えられる。

  • つまり タラシとワケとの両方が 添えられている。

つまり この場合には 一方で ただ後世から ウタの構造の歴史的な流れとつながりを言うためにか それとも他方で 三輪の垂仁イクメイリヒコイサチのほかに 河内もしくは近江などの地で 景行オホタラシヒコオシロワケなる人物がいてその動きが あったと――古事記作者が そう見て――言いたいためであると推測しうるかも知れない。
まず――むろん仮定の話であるが―― 第四世紀の百年における歴史知性のここでは地域的な分布をその基本的な系譜の流れとして このように分析してみたい誘惑にかられたという問題である。(のち 表6&7*1を参照。)
タラシ系(狭義の。つまりワケ系とに分けたあとの)は 記の伝えるところが その名まえのとおりであると もし しても ワケ系は その代々の名がわからないではないかと考えられる。ホムダワケにいたるまでの系譜は わからないではないかと考えられる。だけれども たとえば 垂仁イクメイリヒコイサチの子に ホムツワケノミコト(品牟都和気命)またホムチワケノミコ(本牟智和気の御子)と書かれている人物がいて――つまり 例のサホヒメが 焼かれゆく稲城の中で生んだ子で かれが 成人しても出雲のオホカミを拝むまでは ものを言わなかったという それにつけても―― このホムツワケと 河内政権の第一代ホムダワケ(品陀和気)とは じつに名前として紛らわしいのである。
つまり ミワの御真木入日子印恵と ミマナの王たる御間城入彦五十瓊殖とも まぎらわしいというより発音じょう同一なのである。騎馬民族は――もしそれだとしたなら―― 現地の慣習に同化するというから 名前もそうなったのであろう。また 敦賀のイザサワケノオホカミと 名を取り替えたというのであるから そのホムダワケは 実名が このイザサワケであったとも もちろん考えられる。外来民族でないとすれば 余計そうであろう。つまり 紛らわしい。日本書紀では 応神ホムダワケの実名が イザサワケであったとも触れている。
つまり 問題は 上に見たような想像への誘惑を 実は 古事記の著者も覚えたが それに従わず 伝承もしくは政治的に創作されたままに書いたものと思われる。そのことにある。言いかえると もしその想像へと誘われた結果が なにがしかの史実を反映していたとする場合 そうだとしても このような史実どおりで書くという行き方を 古事記作者は 採らなかったし しりぞける道を選んだということにある。そう考えるわけだが しかもあるいは 実際 第Ⅱ代である一人のイクメイリヒコイサチのなした子どもたちの間に 考え方(ウタの構造)のちがいが生じて イリ系とタラシ系(ないしワケ系)とに分かれたという単純なことなのかも知れない。
ともあれ わかっていることは ホムダワケの時代になると 河内政権は勢力を増大させ 三輪イリ政権は これによる征服(むしろ 寝技によるものだと考えられるが)をゆるし しだいに征服の延長線じょうに国土統一への動きをみせていくということである。
つまり 仮定の想像がどうであれ アマガケル《ワケ》歴史知性と その《永遠の今》宗教の祭司という意味での《タケシウチノスクネ》または《オキナガタラシヒメ(タラシヒコを含む。つまり 普通名詞として言っている)》歴史知性とが ウタの構造(社会的諸関係の総和)の要因として動き始めたということである。
これは 古事記が――その序で 諸氏族の系譜関係について 史実を明らかにしたいと述べているにもかかわらず むしろ――史実をそのまま書くという考えをしりぞけたことによって 明らかになることだと考えたい。

  • 実際には 史実どおりに書くという考えをしりぞけたと 読者に推測しうるような記述を残したと推し測られる。(後述。)

ただ当時の政治的な勢力関係によって影響され 作為的に書かれたという――ただ それだけだという――批判は 不十分だと考える。それによって おおいに 記述とはちがった歴史の展開を想像し推理させられるのであるが これ以上に 古事記は 史実を明らかにした・つまり 歴史知性の形而上学的な歴史展開を総括的に書いたと 了解せしめるようだと思われる。あらかじめながら 問題と古事記のこころとは ここにあるように思われる。これによって さらに具体的な歴史についても 点検していきたいとおもう。新しく具体的となった視野は 歴史知性(それは動態)として イリと タラシないしワケが 構造的に対立的に錯綜するという舞台である。
(つづく)

*1:表6:四・五世紀の日子の系譜(想定)&表7:ワケ・タラシの系譜(想定):=2005-07-05 - caguirofie050705