caguirofie

哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

全体のもくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第三十四章 イリ日子表現動態の発展

夜には九夜 日には十日を

西日本の征討を首尾よく果たして戻ると ただちに東国の討伐を命じられ ヤマトタケルは 再び旅に出た。
途中を端折るけれども その情況が次の歌にも窺われる。

新治(にひばり) 筑波(つくば)を過ぎて 幾夜か寝つる

かが並(な)べて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を
(記歌謡・26・27)

これは イリ表現の原則の系譜に属すると思われる。

  • あるいは ヤマトタケルに結びつけることとは別に捉えることも出来る。

前半の歌で ヤマトタケルが問うている。後半は《御火焼(みひたき)の老人(おきな)》が即座に歌って答えたという。《夜警の篝火を焚き守る》のは《賎者の仕事》(西宮一民)だが 老人には この即答を《誉めて すなはち東(あづま)の国の造(みやつこ)を給ひき》ということだそうだ。
文の主題は ヲ格の表わす第三主題しか示されていない。論述主題(C)は 《過ぎ・寝つる》あるいはつまり《経(ふ)》ということである。そして いづれの文においても 第一中心主題(A)が 《この度の旅‐ハ》であり 関係第二主題(B)は 《われわれ‐ガ》であることは明らかであろう。
その後《科野(しなの)の国に越えて すなはち科野の坂の神を言向けて 尾張の国に還り来て 先の日に期(ちぎ)りたまひしミヤズヒメ(美夜受比売)の許(もと)に入りましき。・・・

ひさかたの 天の香具山 利鎌(とかま)に さ渡る鵠(くび)
弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たやわかひな)を
枕(ま)かむとは 我(あれ)は すれど
さ寝むとは 我は 思へど
汝(な)が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立ちにけり
(記歌謡・28)

体言の格活用を表わすノ・ニ・ヲ・ト(ド)・ハ・ガによる主題提示が それぞれよく――話者の意思表示であるかのごとく・すなわち 用言や補充用言の法活用のごとく―― 表現を導いている。歴史知性であって イリ表現の動態であるように思われる。
《タラシ日子の前身としてのような・あの西征したときの英雄像ではなく イリ日子動態なるほうのヤマトタケルが ここでミヤズヒメ(《汝》と呼びかけられている)と・あるいはまた飛躍して言って一般に社会と 婚姻(イリ)しようと思っていたのだが 社会には アマガケル第一日子なる《月》が立ってしまったことよ》というのである。これに答えて ミヤズヒメは

高光る 日の御子
やすみしし 我が大君
あらたまの 年が来経(きふ)れば
あらたまの 月は来経(きへ)往く
諾(うべ)な 諾な 諾な
きみ待ち難(がた)に 我が着せる 襲の裾に 月立たなむよ
(記歌謡・29)

《イリ日子動態なるヤマトタケルを待っていたが 待ち切れなくて 月が立った 月も立つことでしょうよ》という。このヤマトタケルは われわれ一人ひとりであることでないなら この歴史は 夢のまた夢ということになるであろう。古事記はここまで語っていると思われた。

人にありせば 衣着せましを

ミヤズヒメのうたの心は つづいて

尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる 一つ松
吾(あ)夫(せ)を
一つ松 人にありせば
大刀(たち)佩(は)けましを
衣(きぬ) 着せましを
一つ松 吾夫を
(記歌謡・30)

であって あたかも《主よ早く来てください》という体(てい)のものである。主なるオホモノヌシの神は 生命の木なる霊として オホタタネコ=イリ日子原点としてのヤマトタケルに宿ると考えられた。表現としてであるから そういう夢である。しかし これが 夢のまた夢(われわれの見解では タラシ日子の幻想)とはまったく異なると ミヤズヒメは主張している。
《人にあり‐せ‐ば》のセは キという補充用言(助動詞)の一つの法活用(不定法=未然形)だと考えられている。

  • キ/ ki /とセ/ se /とであるから 音韻の上から 同根ではない。したがって一個の補充用言から出た二つの法活用形態であるとは言い難い。ただ もし 結局のところ 互いに一個の補充用言としてまとまったのであれば そのように捉えても差し支えないと考える。

直線過程的であったイリ日子歴史知性の表現に この不定法=未然形の活用で 仮定条件法の形式を表わすことに成功する。《松は人ではない ゆえに 太刀を佩かせることはできない》というのが現実である。この現実に ヨリつくのでもなく あるいは 何か守護霊をヨセルことによって現実をどうにかしようとするのでもなく 主体的にイリしたのである。そのことばによる表出・表現が このうたである。
回想法の補充用言・キを セという不定法に活用させて――《・・・あり‐せ‐む‐は→・・・ありせば》として・つまり 推量法の補充用言・ムをも用いて―― 未実現のことや現実に反することを仮定するという表現形式を編み出した。従って この仮定条件法を承ける主文の論述には その仮定条件という内容に対応する補充用言を用いる。《佩け‐まし‐を / 着せ‐まし‐を》のマシである。
大野晋氏によると このマシは

《行く》から《ゆかし》(見たい・聞きたいと思う意。原義はそちらに行きたい) 《うとむ》から《うとまし》 《睦(むつ)ぶ》から《むつまし》 《つつむ》から《つつまし》などの形容詞が造られた造語法(yuku+asi → yukasi )と同一の方法によって 推量の《む》から転成した( mu+asi → masi )ものと思われる。
岩波 古語辞典 補訂版 p.1480)

という。

  • 別様に一つの推測を立てるとするならば――愛嬌になってしまうけれども―― 《見る》の原形として いわゆる四段活用をする《む》を想定して その不定法=未然形の《ま》を持って来たい気持ちがある。
  • 《ま(見るという原義)‐し(其れ)》と言って 《見たい》と表わした。したがって 《・・・せば》で仮定した条件の内容を承けて そこから帰結される主文の内容を《見られるものならば 見たい》と言っているのだと。
  • この推測は 意味の上から合っているかも知れない。歴史的な事実としては あやうい。

このミヤズヒメの歌に イリ日子動態の表現行為の上での歴史の誕生を見ると言ってもよいのではないだろうか。
用言(動態用言と状態用言)の法活用――要するに 話者の意思表示のあり方である――および補充用言のやはり法活用の展開において イリ日子動態をゆたかなものにしていった。また 意思疎通の中味を豊かに・確かなものにしていく。
仮りにわれわれが非現実のことがらを望んだりするとき これを 霊能力に頼って 死者や土地の霊に聞くということから 現実の問題に対処する行き方と そして この呪術には頼らずに 言葉の表現をとおして 対処してゆく行き方とである。後者は どこまでも 自己の同一に留まる。自己還帰したオホタタネコ原点を そのまま うんうんと押していくのであって ここから離脱しない。
呪術宗教は もしこれも信仰であるなら そのような表現行為として誰もが自由であるが これを人に押し付けることは 自由ではないと考える。
そして おそらく問題は この呪術を得意とするタラシ日子歴史知性は 呪術から自由なオホタタネコ歴史知性のイリ日子表現の原点(=動態)をも 先取りし 時に 自らの行き方との交換を申し出るにまで到るかと思われる そのことである。

呪術表現の問題点

イリ日子表現を先取りし 模倣し あるいは 交換したのち 自分のものとしたならば もはや むしろ 事態は よくなったと考えるべきではないのか。必ずしも そうではない。この先取り・交換のときには ウタもしくは人格が 互いにそれこそ微妙に絡み合うことになる。
言いかえると オホタタネコの側の者は このとき――例のスサノヲ原則によって 須く佐くべしを実行しており―― ひとまずにでも 交換を受け入れているのである。これは しばしば 自動的に・自然のちからの過程としてのように 起こり そのように推移する。
言いかえると タラシ日子の側の人は 交換したからといって ほんとうには イリ日子表現の主体にはなっていないのである。むしろ オホタタネコ主体の自由を縛って 自分の表現を通そうとしただけなのだから。この事態の中にあって オホタタネコ主体は 相手のタラシ日子主体のひょっとしての自己還帰を待ちつつ そのタラシヒコ主体の呪術による表現じたいは これを その事態のつづく間は 封じていることになる。ほとんどは 元の木阿弥に終わるようであるが われわれは 可能性を棄てるわけには行かない。
もし タラシ日子主体が われわれオホタタネコ主体の表現形式を模倣し先取りするならば その間としては たとえば かれらは 《鵜飼が伴 いま助けに来ね》と言って援軍を呼び求めるという行為に入らない。《みつみつし久米の子ら》に号令をかけるのは しばしばものごとを善と悪との二項に分割しての振る舞いになり勝ちである。これをも その間としては むしろわれわれが 封じている。オシクマとフルクマを交換する・あるいは 敵方の弟ウカシのウタを そっくりそのまま自己のウタの中に 先取りする こういった風習からも 一旦 離れる。
この一時的なひまにおいて かれらタラシ日子主体は たとえば《御真木入日子はや 御真木入日子はや 己が・・・知らにと・・・》といった童謡(わざうた)が 自分の身の上に関して うたわれるようにならないかとでも 思っているかと思われる。人びとの共同主観を自己の身に帯びた感覚を持つらしい。一時的にだが またあくまで模倣としてだが かれらは われらオホタタネコ主体の霊に同一化するようである。そのわざには 長けている。
われわれオホタタネコ主体は 補充用言の法活用を 大いに活用して言葉の表現を怠りなく進め 自己の同一にとどまっているとき ミヤズヒメのうたに見たように 《ここ》なる現実の時間と必然の流れから自由であるように勝利することを 見ている。言いかえると そのような形で 生命の木なるオホモノヌシの神に仕えている。ここには 歴史が誕生しているとわれわれは 考えるのであるが このような動態としての勝利・言いかえると未実現の勝利には どうやらタラシ日子主体は食指が動かないらしい。ゆえに かれらは あたかもヨリ憑いたわれらの霊から去って行く。われらは この今に寄留しつつ このように歴史している。つまり人間している。わたししている。
(つづく)