caguirofie

哲学いろいろ

第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第二十章 継体ヲホド天皇のウタの構造――その第一の解明――

――私たちはあなたのために金の模像を銀の飾りをつけてつくろう――
副題の中で《あなた》とは たとえば若日下部のミコのことである。
ゆえに それは言うまでもなく 過去に帰るためではない。また 過去の人びとに 想像において――永遠の現在において―― 栄光を帰すためでもない。古事記の作者が かのじょを悼みつつも ただ慰めるために あるいは自分みづからを慰めるために この書を編んだのではないことに じゅうぶん明らかだとしなければならぬ。
この意味で歴史は不可逆であって 過去に帰るためにわれわれは歴史するのではなく 現在を生きるためである そこにおいて同時に過去の人びとの復活を見るためである。金の模像つまり 鏡というのは 人間がカミの子であっても カミを分有するというに過ぎず なお模像(土によって作られたもの)でしかないゆえ。しかし鏡つまり鏡そのものを見て永遠の現在の王国に生きるのではなく 鏡を作りつつ生きる つまり 永遠の現在なるオキナガ共和国が一個の鏡であるゆえ この鏡を作り変えつつ生きるのであることは われわれ人間の特権であった。
われわれは この《国家》段階にいま在り それがどのように作られていったか これを論議している。
金の模像( similitudo )が むしろ《しるし・象徴》したがって《謎(謎とは 不明瞭な寓喩である)》であるとするなら これに《つけるところの銀の飾り》が 《鏡・社会・歴史》である。

経営管理のほか何もしない騎馬民族。経営は巧い。

原日本人は 稲と鉄 農耕と技術がより多く海外から渡って来たものであることをもちろん 自覚していた。呉や越やの中国江南の倭人たち(むろん漢民族という意味での中国人ではない) あるいは のちの新羅百済などの韓人たち――さらには 扶余族の騎馬民族が来たとするなら かれらは これら原日本人と倭人と韓人たちの同化した社会に入った――が農耕や道具の技術をもって渡って来たものと思われる。
のちに大和(畿内の)が発達してからは この大和の視点に立って これらの新しい文明(《日子》がその能力を耕した結果である)の入って来た場所を 《草香》の地に当てたのかも知れない。
昔 河内の地は 大阪湾をさらに河内潟に入って 生駒山西麓の地・クサカの港にたどりついたのである。クサカの津が 終着点であったから ここは 世界に開かれた新しい文明の窓であり この意味で《ヒノモト》であったかと考えられる。

  • いま 九州における文化の先駆的先進については触れていない。歴史知性の歴史的展開として 大和での概要を知ることによって 類型的に同じか または一般にこれまで考察したうちの《弥生人》の段階であったかであると いまは その理由について捉えている。
  • もちろん大和での概要という意味は 三輪のイリ歴史知性の社会を基軸にしつつも それはやはり形而上学的な考察であるという点では この地に限定されないとも考える。

いまやはりこの仮想に立って議論しよう。
弥生時代の進展するにつれて 大和の地でも 倭人や韓人たちを含めた日本人たちが 邪馬台国とその連合→葛城カシハラ・デモクラシ→三輪オホタタネコ原点の社会 といった過程を経て この《日の本》の地(草香)をとおしての文明と文化の新しい展開をとげていったと見られる。
いわゆる魏志倭人伝の資料が そういうふうに読めるということが いまの内容である。邪馬台国が九州にあったとする場合にも そのような歴史の展開が大和において捉えられるように思われる。
三輪のミマキイリヒコ政権が出来たころ 九州に騎馬民族という新しい渡来人の一団がやって来た。

  • 来なかったかも知れない。その場合は 騎馬民族の考え方が入ってきて その地の人びとは 少なからず もしくは 同じようになるまでに影響を受け そのウタの構造の中に入ったという事態を想定する。
  • 相手に同化して その相手のいいところをすべて吸収するという習性であるらしい(江上波夫の日本古代史―騎馬民族説四十五年など)。名を交換し 人格までを取替えるかに受け取りうる。また 自分たちは 管理・経営のほかは何もしないとともに この経営がずば抜けて巧いという。などなど。
  • つまり 支配者でおらずにはいないという。

かれら騎馬民族に 近江オキナガ・タラシ系の人びとが 合流したかも知れない。あるいは それらは 後世の作り話であるかも知れない。騎馬民族と見まがうような新しい勢力が 九州に興ったのであるかも知れない。ただし 近江オキナガ・タラシ系の人びとが 古くから たとえば仮定として大和の邪馬台国のとき以前にも すでに活躍していたと考えうるようにも思われた。
騎馬民族が来たとするばあい かれらは 九州の地でまず百年を経過する間に 南九州のクマソやヒムカにまで勢力を延ばしたかと考えられる。これらは もっと後のことで そうではなかったかも知れない。まずは 北九州の地域をじゅうぶんに支配下におさめたであろう。そうして 西暦四百年ごろ ホムダワケを第一日子に立てて やはりクサカの地を目指してやって来た。のである。
この動きに対しては 同じ近江勢力の中でも 反対が持ち上がったのであって 神功オキナガタラシヒメの夫・仲哀タラシナカツヒコの 別の妃の子であるカゴサカ(香坂)・オシクマ(忍熊)の二王子を中心とする勢力である。おそらく応神ホムダワケの側にとって これら二王子(ホムダワケの異母兄弟)の軍事的に反対する勢力は 容易に相手になりうる動きであったかも知れない。
あるいは 善悪の木を立てていて はじめから軍事的な衝突をよしとしたのではなく しかも アマガケルもっぱらの日子のアマテラス宗教の輪に入れと迫ってのように 相手から先に武力による戦争を始めさせるように仕向けたかも知れない。もっと言うならば あたかも光の天使を装ってのように(つまりこの場合は 非存在を装う正体不明の歴史知性としてではなく われわれは福音をもってやって来たのだと見せかけてのように) しかも 相手つまり香坂・忍熊の二王子をだまし討ったかも知れない。
この推測のばあいは 秋山のシタビヲトコと春山のカスミヲトコとの《神うれづく》の物語が 活きる。応神ホムダワケの登場に際して この兄弟のあいだのウタの構造の対立的な関係を物語ったうわさが 流れたという記事が活きる。あるいは さらに上陸したクサカの地では あの神武イハレヒコにとってトミのナガスネビコが待ち受けていたように 軍事的な衝突が かれらを迎えたかも知れない。特に軍事的なばあい かれらは これを倒したものと思われる。
ひとまず河内に落ち着いた応神ホムダワケ政権は 日の本の草香を 日の下の草香また《日下=クサカ》と規定しなおしたものと思われる。こうして アマガケル日子のウタの構造の拡張が 行なわれていく。それには 日に敵対する(日向)のではなく 背に日を負うのがよいと考えるようになる。つまり 必ずしも軍事力による征服を目指すのではなく――もっとも 公然・隠然と 暗殺をおこなったが―― アマガケル日子=善悪の木の観念的な共和国をきづき上げるのがよいと。
なぜなら 三輪や葛城や河内南部の人びとは すでに譲歩する道をとっていたからである。ただし 日の本が 日の下(した)の草香つまり《日下=クサカ》として 書き換えが行なわれていった。言いかえると あたらしい 文明の窓というよりも 諸外国の文明を自己の下に支配するアマガケル日子政権 すなわち ここでもいわゆるナショナリズムが・統一第一日子のウタの構造が生じたのだと考えられる。
このナショナリズム 民族としての善悪の木を 神聖不可侵のものとして押し立てる共同観念なるウタの構造が 諸外国になかったのではない。また あの聖徳太子の随との外交は このナショナリズムのウタを前提にしたうえで 主体的な行動だと評価されている。

統一第一日子

ホムダワケ河内政権から時代を飛んで 継体ヲホドノミコト統一政権がたしかに成立すると ウタの構造が より複雑で重層的なものとなったと考えられる。
一つには 言われているように史実を反映していないながら 古事記ではこの天皇の項で 《伊勢の神の宮》の成立が 引き合いに出される。すでに《出雲の神の宮》のことも――史実をたがえてだが だから ずいぶん昔のこととして――触れられている。二百年近く前の垂仁イクメイリヒコイサチ天皇の段である。であるから この《伊勢》と《出雲》との両つの神の宮への言及で これも言われているように ナショナリズムのウタの重層的な構造を言おうとしたと考えなければならない。
いま見ようとするのは すでに《国家》の段階にあって 《もっぱらの日子》の圏域(支配者公民圏)の中に 仮象的・擬似的な《根子(イヅモ)‐日子(イセ)》の連関が つくられたというようなことである。

  • いわゆる一九五五年体制を思うべきである。自民党伊勢神宮と 社会党出雲大社との本体と影との連関。
  • もっともイヅモは スサノヲ・オホクニヌシの基礎として 根子市民圏の象徴であり続けるとは思われる。ウタにおいて 何がなにを たとえとして 表わすかという問題に限定しての話である。

もともとは 《ミマキイリ日子‐オホタタ根子》連関が 《公民‐市民》連関として形態的に制度的に確立していったという基礎に立っている。それまでは 《日の本の草香》を介しての各地域の日子政権の並立・連携から成る社会であった。これらもろもろの共同体の集まりは 統一第一日子なる《日の下》のイヅモ圏域を構成することになり 《日の上》には イセの圏域としてのように アマガケル日子らのタカマノハラがそびえるという重層的なウタの構造が現われた。
もう一つには 同じく継体ヲホドのくだりの記事として 《筑紫のキミであるイハヰ(石井)》のことが出ている。いわゆる磐井の叛乱(527年)の問題である。
応神ホムダワケの前身である九州勢力は その地で このイハヰらと同盟関係を結んでおいたであろう。あるいは 《カミを帰(よ)せたまう》タラシヒメ・タラシヒコ(類型的な概念として)が ミコトノリしたことにもとづいて 九州の原日本人らを 善悪の木の旗のもとに 感化しておいていた。応神ホムダワケの後身である継体ヲホド政権は 日本の統一国家を宣言するに及び イハヰとの同盟関係を 支配関係に変えようとした。感化関係を 固定的な支配・従属の関係に変えようとした。
磐井(いはゐ)が 異議を唱え 武力衝突の結果 敗退するにおよび ナショナリズムのウタは 突き進んでいったものと思われる。磐井の異議申し立ては 《叛乱》として規定された。

  • 互いに《等し族(うから)》ではなくなった。

これで ウタの構造いっぱいに 国家が成立し ここまでの歴史を古事記は それから百五十年ほどののち 形態的にも天武天皇のときに国家が確立した時点で 総括したのであった。

社会形態としての国家は残った

すでに三輪ミマキイリヒコ政権のときに 《ネコ(市民)-ヒコ(公民)》の社会構造的な連関が成り立ったものと思われる。これはこれで 原初的なあたかも平屋建ての原形的な国家である。のちの国家は 二階建てである。この《オホタタ根子‐ミマキイリ日子》連関構造の中から 日子公民が もっぱらの日子公民として 単独分立する動きが始まるなら かれらは 第一日子を立て さらにはこれを 統一第一日子としてアマアガリさせ 第二階がつくられていく。二階建ての国家となる。これが アマガケル日子らのウタの構造の中に 《国民》なる自己の想定ないしその認識を促しつつ 一つの民族(多民族から成るひとつの民族)と一つの地域(領土と呼ばれる)との政治的なまとまりをもって 社会形態的(善悪の木=法制度的)に確定されていった。

  • もっとも オホタタネコ原点=イリヒコ視点の有効であるという基礎的な側面としては この二階建て国家におけるナショナリズムも インタナショナルなインタムラ(村)イズムを推進する方向で捉えていくとよいかもしれない。

天智天皇大化の改新ではまだ 律令(善悪の木のオキテ)も じゅうぶんに発足しておらず 国家統一にはまだ遠かったと言われることが正しいなら 天武天皇の飛鳥浄御原律令の成立にかんがみて そのとき 《国民》という自己認識(生活現実)が生起したものと考えられる。ただし このように国家形態への動きが 完成されたとき 完成された時点で アマガケル日子らのウタの構造は 虚像であって 幻想的な自己認識であるから すでにまったく崩壊したと考えるべきであろう。人は ひとりの存在として 《根子(身体また市民)‐日子(精神また公民)》の連関する構造をもって 生きている。アマガケル日子のウタでは 日子がもっぱらの日子として 単独分立するという。根子市民は あたかももっぱら市民であるということに固定されてしまう。これが 人の存在のあり方として そもそも 虚像であり幻想である。それゆえに 律令という成文による善悪の木(つまりそのような人間の社会関係の規定)が必要となったのである。身分関係が 法律としても決められてしまう。
しかも この限りで この制度の限りで 人びとと領土との統一的な社会形態としての国家じたいは それとして存続することになった。
ということは スーパー歴史知性による幻想的な永遠の現在なるそのウタは 実質的に崩壊していたということだと考えたほうが はっきりするのではないか。天武天皇は 中央集権体制を完成させたがゆえに ウタの構造としての《国家》 これは幻想であることを告知したのである。《資本》主義が 企業の経済活動の形式・様式等 さなざまな段階をとって推進されてきたように 《国家》主義も 一たん形態的に国家が確立し そこでウタの構造としてのそれが崩壊した新しい舞台に立って 今度は 残された幻想(永遠の現在なるマツリゴト)があらゆる形態変化をとげるというようにして この天武体制の以後 推移したのである。
時は経って 国家資本主義といったふうに規定される新しい段階をすでに経過しつつあるとするなら 一方で 国家という幻想のウタの構造があらゆる形態を採り終えてのように 死滅していこうとしており 他方でこれとともに 資本の概念=現実も 新しい形式のもとに捉えられていくのであろう。経済活動の側面からだけ言えば 国家は影であり 資本は――国家資本主義のもとでは 資本主義的な資本も ある種の仕方で――本体である。であった。
《法律》というものは 日本の社会であまり大きな意義をもたなかった。その意味で オホタタネコ原点が証言する生命の木が ふたたび――天武体制以後――省みられたと考えられる。これが実証されるには 現代に至るまでに 《近代人》の合理的な経済活動の発展による社会全体の有機的なつながりの確立を待たなければならなかった。
言いかえよう。近江のタラシ系および河内のホムダワケ系の 統一第一日子のアマアガリとその国家形態樹立への動きは 天武天皇の時代にいたるまでの数百年間 じつに何もなかったことに等しい――すべての歴史が 無効であった―― このことが まず 古事記の完成という歴史的事件をとおして いにしえのオホタタネコ原点の回復として そこにおいて 確認された。
その後 現代にいたるまでの千二百年余のあいだ この無効と分かられた《アマガケル日子のナショナリズム》のウタの余韻つまり 社会形態的な制度として残った国家の中で・国家に対して というかたちで すでに 三輪イリヒコ共同自治の歴史社会が 生きられ 進展してきた。
それには ヨーロッパ近代市民の資本主義が 古墳造成に奔走するかのように しかし巨大古墳といった権威主義的なアマガケリとしてではなく モノの木の領域で・モノづくりとして・その意味で実質的なかたちにおいて 駆け足で推し進められた。今では 推し進められなければならなかったと表現すべきように 推進されてきた。そう表現しうる地点が 三輪のイリ政権の歴史社会の地点もしくは系譜であると考える。
今後は いっさい無効であった《タラシ・ワケ》系のウタの構造が残した制度をも超えていくことになるであろう。再編成されていくであろう。資本主義自由経済をさらに そのためには 推し進めるべきであるとか否かとか その議論のほかには やはり 自己の同一にとどまる新しいと同時に昔からの歴史知性が そのような経済制度をも用いていけるようにする番であろう。
天武天皇は そういう位置において捉えられる。つまり三輪市政のミマキイリヒコイニヱとオホタタネコとのように 天武アメノヌナハラオキノマヒトと例えば柿本人麻呂とというように。もちろんこれら二つの《ネコ‐ヒコ》連関は 一つは国家以前の段階においてであり もうひとつは国家の段階においてであり 従ってというように 現代の問題をあてはめるならば 国家以後の段階としてということであろう。
具体的な議論をできないけれども 同じく従って まず古事記という書物は このような史観を提出するものとして位置づけうると考える。現代においても これを共同相続してのように そのように井戸端会議してゆく それが具体的な議論の第一歩であると思われる。そうして 自己の同一にとどまるその方法が 一つの目的でもあると言えるであろう。
何もしないたたかいであって その意味で おおまかに・かつ抽象的に述べているとき 何はともあれ近代市民の資本主義経済かつ民主主義社会が このような古事記の見直しにおける史観の解釈をなしうる基盤をつくったのだけれど ただ それによって 《人間の誕生》が実現されたのではない。むしろ逆であって 人間の誕生がすでに歴史的に 資本主義的な経済発展の基軸となったのだという当たり前の議論を まず確認して進まなければならない。たとえ自覚していなかったとしても すでに歴史的な系譜の問題として 振り返っておくことが大事だと考えられる。
この確認の作業は ある意味で 世界史的にも おのおの民族社会が みづからの内でまず固有に 歴史させなければならないものとも思われる。固有にというのは むろんナショナリズムのためにではなく すでにナショナリズムのウタの構造から自由に その構造の中の旧いものはこれを揚棄するため そうして固有の要因(人間の誕生ないし人間の自己到来なる知恵の同一性)を用いていくためである。ここでは いづれにしても きわめて抽象的な議論をしてきている。

天武アメノヌナハラオキノマヒトと柿本人麻呂

古事記は 継体ヲホド天皇の以降 さらに百年余ののちの推古天皇の時までの七つの代を その取り扱う範囲に入れている。ただしこの八代ないし七代はすでに 系譜の継承関係の記事等に限られていて おおまかな流れとしては このあたりでナショナリズムも――それとして――確立しかつ終焉したと言ってもいいと言っているようである。
それは 継体ヲホドの統一第一日子への擁立というものが 歴史知性にとってありうべからざる奥の手によって なされたからである。非存在をよそおうこと 意志の喪失の見せ掛け 人格を脱ぎ捨てることは ほんとうにはありえないことである。それは 奥の手である。逆に 上のように言いうることは 継体天皇の成立に際して 奥の手が使われたことをやはり物語る。イリ歴史知性は 欺かれたのであるが ほんとうには欺かれ得ない というのは かれらが譲ったところの相手が 奥の手を使い自分たちの目的を成就したところで 投げ出されたからだ。永遠の現在なるウタをうたう幻想の国家は 成立と同時に崩壊したのである。われわれは その亡霊に悩まされたのである。崩壊・幻滅は わかっていた。

おほきみは神にしませば 天雲の雷の上にいほらせるかも
(人麻呂 万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)巻三・235)

ここで人麻呂は むろん言葉の上では アマガケル永遠の現在思想とお付き合いをしている。そのウタの構造をなぞっている。《いほ(廬)らせるかもね。》と言って。そしてかれの足は オホタタネコ原点=ミマキイリヒコ知性の上にある。
こののち 継体天皇以下の八代の中では その第四代である欽明天皇の名前(和風諡号)つまり《アメクニオシハルキヒロニハ》に《アメ》というアマテラス・マツリゴトを示す語が一人だけ見られるのを受けて 第八代推古天皇の次の次の皇極天皇から その代々の天皇の名に――日本書紀では―― 《アメ(天)》の語が用いられるのである。
これを言いかえると おおよそ実際問題として 推古天皇(六百年前後)のあたりで アマガケルアマテラスのナショナリズムは 少なくともウタの構造じょうもはや盛んなのであって 確立を見たがゆえに 《アメ》の語が 観念の古墳(新墳たる権威)として付加されたもののようなのである。つまり 付加されたゆえに 崩壊が始まった。崩壊とは この場合 すべて無効であったと分かられたことである。死が死なない という第二の死が この意味で 死んだ(方向が向き変えられた)。
このナショナリズムを実質形態的に実現させていった天武アメノヌナハラオキノマヒト(御真木に対して 真人。これは 単純な比較)の時代は――その時 原古事記が書かれたであろうと推定されている―― さっき言ったように 特異な位置にある。虚構たるウタの構造として その実態を・つまりみづからの体制を 明らかにしたのである。

  • 人麻呂のうたも そうであろう。

また その後つぎの八世紀に編集上 成立していった万葉集も少なくとも編者の視点は この国家体制をたしかに――《虚(そら)見つ 山跡(やまと)乃国》(巻一・1番)と表記したように―― 一つの虚妄なる虚構であるという新しい(または 前々から相続されていた)ウタの構造で貫いているもののようなのである。
むしろ舞台は――過去の歴史を排除するようにして しかも それを全く振り切ることはできないだろうから―― このようであるが この虚構を合わせ持つ地点で――ここが ロードスなのだから――われわれ(古事記作者ら)は 金の模像を銀の飾りをつけて作ろうと語ったかのようなのである。
歴史事実への忠実と偽りとを超えて――わたしの嫌いなニーチェふうに言えば 《善悪の木の彼岸》に―― 古事記万葉集とを あの柿本人麻呂を歴史経験的に仲介者として つなげて われわれは強引にでも古代史理解をかたち作りたいとも思う。

ミネルヴァのふくろう

したがって もう一度 人麻呂のうたを取り上げるならば

皇者 神ニ四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨
(人麻呂 巻三・235)

この歌は 題詞によると 《天皇 雷岳に御遊(いでま)しし時》作られたというのだから 現実のイカヅチの岳を 雷に見立てて詠んでいて むしろ第一巻頭の1番歌の《虚見つ山跡の国》の視点を 継いでいると言うべきである。したがって 雷(かみなり)の上になんかいないと言うのである。ただ イカヅチの岳の上に立っていらっしゃると言うのである。言いかえると 歌の意味表示するウタの構造は もうすでに終わっている ゆえに これを歌いえたとも考えられる。

  • ミネルヴァのふくろう(《日子》)は 夕暮れにやって来るというのは このような意味では 真実のようである。

この235番歌には 次の註がついていて それによると 雷の岳に出かけられた天皇(天武のあとの持統天皇か)に対してではなく 天武の第九皇子であるオサカベのミコ(忍壁皇子)にたつまつったとある。そしてその歌は いくらか趣きを変えていて

王 神座者 雲隠 伊加土山尓 宮敷座
(おほきみは神にしませば 雲隠る雷山に宮敷きいます。)
万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)三・235 左註)

だという。《皇(235番)》と《王(同左註)》の文字表記の違いは 重要だとは思わない――時代の旧と新とを示しているようには思われる――。《皇・スメラミコト》ではないオサカベノミコに対しては すでに終わっているアマガケル日子のウタの構造を人麻呂が ここで ていねいに解説しているかのようである。《日の本の草香》を《日下=クサカ》とするアマガケル日子 それは 奥の手を使うと言ってのように 《雲隠れ》が上手で  《伊加土山に――つまり土を 上部に加えるのである―― 宮敷きいます》のだと教授した。そこから見れば クサカは日下なのであると。これは歴史知性だが つまり日子の能力を介してでなければ そんな視点は持ち得ないが 幻想であると。もちろん 人間だけが 歴史知性を持ち これは 幻想をも想像しうる。
つまり このような歌は――直截に述べるゆえウタは ウタガヒ(疑)・ウタタ(転)と同根だと言われる―― しかし価値自由的な一認識であって そうなのだが そうであるがゆえに 価値観(自己のウタの)を保留しつつ批判を宿している。けれども 当時 このような歌は すでに公けに認められ受け入れられていた。つまり現代の問題としては このようなウタを歌いうるかというわれわれ自身への問いかけでもある。
人間のウタ(真実)はなお人間の真実でしかなく それは 金の模像ないし銀の飾りであると考えられた。考えられていたのである。ただし 当時の人びとのあいだでは 古代市民の国家体制の中にあるゆえに 身分制など自由の制約はきびしかった。われわれは 表現の自由を獲得したと言われている。

中間のむすび

はたして 人間の誕生を素描できたであろうか。われわれは 第二部・歴史の誕生にすすみたいとおもう。
また ともあれ 縄文人から弥生人への移行に現われた歴史知性は こうして一千年をかけて 国家という社会形態をつくりあげていった。言いかえると 一千年ののち国家の確立をもって その《根子‐日子》連関的存在という構造(動態)の起こりうべき(起こり得た)曲折・肥大の誤謬を そのとき 同時に 基本的に止揚したのである。弥生時代六百年の終結古墳時代四百年の開始にあたって形成されたオホタタネコ原点=ミマキイリヒコ視点という歴史知性のあり方を 不動のものとした。
アマガケル日子の古墳時代終結をあらわす律令制の社会形態は 曲がりなりにも 明治維新まで千百年つづいた。あるいは そうであるほどに 法律による規制としては その法律は 一般の人びとにとって どうでも良かった。

  • 法律の不要論ではなく 法の問題には 法律をそしてまた法じたいをも はみ出すそのような領域があるという意味合いである。

王政復古をもって 近代市民の時代に入った。天武天皇の時代は アマガケル日子の膨張に終止符を打ち 明治天皇の社会は ふたたびアマガケル統一日子の制度をもって 善悪の木による社会共同自治の方式をむしろ 止揚することを始めた。法律統治の方式をふたたび始めることによって 同じそれを揚棄することを始めた。天武体制は 下からのアマアガリであり 明治体制は 上からのアマクダリであると おおきくは考えたい。後者で 上からのアマクダリを――その方向を――実現させようとして同じく下からのアマアガリは行なわれた。スサノヲ市民キャピタリストの登場と呼びうる。
天武‐人麻呂という一歴史知性の社会関係の前に ミマキイリヒコ‐オホタタネコという社会共同体が存在したするなら――ちなみに 原始共産制というのは きわめて あいまい かつ 不十分な概念であろう―― 明治天皇‐臣民という一歴史知性の社会方式の後に あらたなゆたかに復活した三輪政権方式の歴史知性共同体が たしかにきづかれてゆくであろう。
ここまで放談してよいと思われた。
第二部 歴史の誕生では この第一部の所論をさらに固めつつ ウタの発生と確立――ことばの問題としてのいわゆる歌謡および文章の発生――というテーマで考えていくはずである。
(つづく)