caguirofie

哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

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第二十三章 古事記の精神

六七二年(壬申)の乱を勝利にみちびいたあと――古事記・序によれば――天武天皇は 各氏族でそれぞれ伝えて来ている歴史が史実と違っているのを見て これを恐れて 一個の定説を押し出そうと考えた。結果 各氏族の本辞を編集・改正して成立したとなっている《古事記》も これまでに研究されて来たところによると 必ずしも史実をそのまま明らかにして反映させたものとはなっていない。そのことは 出来なかったのかも知れない。
いま 最初に成立したと思われる原古事記のことを言っている。ここでも既に 各氏族のもとでは――勝手に――編集されていた系図や社会的生活の歴史の記録のまちがいをただすことは 不可能に近かったか あるいは 意識的に敢えて為さなかったかであると考えられる。
極端に言えば 例えると義経が大陸に渡ってジンギスカンになったという類いの系譜伝承があっても もはや いちいち改めなかったかも知れない。大筋において その後の現古事記が 原古事記においては一度改められた記述を なお いじくったとは思われない。文章の大筋において 現古事記は原古事記を踏襲したものと思われる。つまり 論証なしに言うのであるが 文体は変わっていないであろうと思われる。したがって 原古事記は 系譜伝承の改定よりは 神話にかたむいてでも 自己認識としての歴史認識という姿勢を採用したかも知れぬ。

於是〔天武〕天皇詔之 

朕聞 《諸家之所賷(持)帝紀及本辞 既違正実 多加虚偽》。
当今之時 不改其失 未経幾年 其旨欲滅 斯乃 邦家之経緯 王化之鴻基焉。
故惟 撰録帝紀 討覈(究明)旧辞(本辞) 削偽定実 欲流後葉。

時有舎人 姓稗田 名阿礼。年是廿八。・・・
古事記 (岩波文庫) 序)

《邦家之経緯 王化之鴻基》は すでに述べた上の事情において書かれたものと考えられる。《帝紀を撰録し 旧辞を討覈(とうかく)し 偽を削り実を定む》ことは 史実をそのまま究明し反映するものとしては おこなわれがたかった。そして いたづらに《削偽定実》をおこない切らなかったそのことによって ある程度の古代史の事実も 《後の葉(世)に流(伝)》えられることとなった。この意は じゅうぶん報いられた。
つまり ここで問題はむしろ 《ヒエダ(だから原文の《姓》は 《氏》の意)・トネリ(姓)・アレ(名)》に《誦習》させることになったというのであるから 原文ではこの後 《帝紀日継及先代旧辞〔を誦習せしめた〕》と書いてあるにもかかわらず すでに一度 〔原〕古事記三巻として完成していたこの史書をであったと考えなければいけない。
稗田阿礼が 編集したとも著述したとも言っていないのであるから。――もし《序》に名を明かしている太朝臣安万呂が著者であるとしたなら それはそれでよいと思われる。ただ その場合に この安万呂がみづからはっきりと《削偽定実》と書いて その結果として表現された内容は そうなっていないことが その当時の読者なら誰にでもわかったものと 言わなければならない。このとき――その当時ですら あるいは 当時であるゆえに―― そのように矛盾の明らかであるのに この安万呂執筆説が成り立ったとは 思われない。
この点は 言うまでもなく すでに指摘されている事柄であるが それにしても この古事記の本はその後ながいあいだ 省みられなかったのである。この経緯にかんがみても むしろ史実をもはや忠実に映さなかった――原古事記がそのように書いた――ことにより それを読む人びとの心の中には それは反面教師としてであるが 史実が 赤裸々なものとなったであろうことを物語る。のではないだろうか。これが忘れられたころ 古事記は公けに取り上げられたのである。
一つの代表例は 政権が必ずしも一系ではなく じっさいには紆余曲折があった あったにもかかわらず そのことが当時の人びとにじゅうぶんわかっていたにかかわらず 統一的な一つの政権の歴史として書かれていた。

  • もっとも形而上学的な整理としては ミマキイリヒコ市政の前後の時代にわたる歴史的展開―― 一つの系譜的なそれ――でよいわけである。
  • つまり そう言うときにも 一系譜を言うときにも 各地の政権それぞれの歴史を 排除しないし およそその意味では 普遍的な概念による科学的な記述として書かれているのである。
  • かんたんにわかりやすく言うと 《国譲り》の歴史としてその後も 一系譜――各地域の日子政権それぞれの最小公倍数として類型的な一系譜――として つづいていることに変わりはないから。形而上学的にというのは そういう意味である。
  • 各地の風土記が これを――各地なりに―― ゆたかなものとして記述できたかも知れない。
  • ただ 現存する各風土記も 《歴史の誕生》の視点からは書かれておらず その大部分はすでに消失しているのであるから 消失していても 支障をきたさないほど 古事記が その意味で普遍的だと言いうると考えたいのである。

要するに 統一的な一つの政権の世襲的な歴史として書かれてしまった。書かれてしまったのである。人びとは これに気づいた。そして 驚愕し動揺した。のではないだろうか。これが 古事記の行き方であった。
つまり こころ(古事記の精神)は普遍的で その行き方には 弱い一面がある。また この弱い一面――それは 《削偽定実》をしなかった点――ゆえに 古事記の精神が――今度は 科学的な論文としてではなく 生きた歴史知性(井戸端会議の突破口)として―― 明らかになるという恰好である。現代においては弱い側面をことさら克服し去ってしまうべきではないだろうが 《削偽定実》の方向つまり 一般に 良心・表現の自由(つまり これにもとづくところの 反面教師ではない行き方)は 大前提となっている。もちろん 美辞麗句を並べればよいというものでないことは 不変の真理である。
のちに いまひとつ別の日本の歴史書として日本書紀(日本書・日本紀?)が編まれるときも この原古事記に 代々の政権の継承史として 従わなければならなかった。と思われる。《邦家の経緯 王化の鴻基》は いづれにせよそのように あのアマガケル日子らのアマガケル動静の終着駅として 国家が確立された時点で 歴史書として成立することになる。政権の系譜が ただ一つのものとして成り立った。古事記以上の史観の表現は 無理であったろう。あくまで事実にもとづくという意味で《削偽定実》していけば 断片的な資料集になったかも知れない。
ヒエダ・トネリ(=殿入り)・アレ または オホノ・アソミ・ヤスマロといった氏・姓・名による社会的な自己認識が 国家制度的に確立されたとき そのウタの構造は 虚構であって そのような二階建ての骨組みじたいは 虚構であってもよかった。確立へ向けてのアマガケリの幻想性が くすぶっていて アマアガリの方向ではなく 逆のアマクダリにおいても 歴史知性を超越する想像=幻想の世界が 繰り広げられる余地がじゅうぶんあったと考えられる。
稗田阿礼は 藤原不比等が自己韜晦したその本人であって 古事記の原作者が柿本人麻呂であり この不比等と人麻呂との関係が すでに触れてきたようであったと説くときには 自己のウタが無効であったと気づいたタラシ日子らが 歯軋りしてくやしがったその姿は よけい実感をもって描きだされるであろうと言うにすぎない。
ここでは 《ミマキ・イリヒコ・イニヱ》の社会的な歴史知性(つまり 人間・市民)の原点・原形式が確認されたに過ぎない。
もし古事記が たとえば鎌倉時代――もっぱらの日子(アマテラス者)がいちどスサノヲ市民となって(源氏が 臣籍に降下して) ふたたび新しいアマテラス者となった時代――まで ほとんど普及しなかったと考えられるときには 《人間の誕生》は スサノヲ市民圏で継承されていたけれども 《歴史の誕生》は一般に 腫れ物に触るのを恐れるがごとく 隠されていたのであろう。この意味で 情報公開という点も 一つの課題であるだろう。
人間存在という意味での諸《善》の社会的職務による序列化・その分業による社会的な共同性が 善悪の木による歴史の生成であろう。きわめてどうでもよい性質のものである。この法治社会――あるいは 意地悪く言って タラシ日子的な連帯なる和・大和――という鏡をとおしての自己認識・自己到来が 歴史の誕生だと考えたい。古事記の著者がおこなったことは このことであろうと考える。これに達したと思われる。

たとえ自分たちが偽りの歴史知性に見えようともという場合

この点で 歴史の区分を 次の三つの段階にわれわれは求めたいとも思う。すなわち 国家成立の以前 国家の段階 および国家以後として。
三つ目の段階は 国家形態の歴史的移行の過程として 現代をあてるべきであろう。しかも これらの歴史をとおして見る その史観の原点は 国家成立の以前の段階において 一例として《ミマキ(氏)イリヒコ(姓)イニヱ(名)》なるウタの構造の生起に求められるしこれであれば 現代にまでつづいている。
《イリ日子》は 《名つまり個体》の社会的自立として むしろ歴史知性の普遍的な自己到来であり これが制度的に固定され 職務として世襲されるなら アマガケル日子の目指す国家的社会形態にまで拡大展開する。
あらためて ウタの構造としては タカマノハラ・アマテラス・マツリゴトの大枠――これは 権力の名において 神聖不可侵であった――の中に歴史知性のマツリが寄留するという全体としての舞台である。この意味では 一つの画期的な国家の段階であり これらを明らかにして一書がまとめられた。この三巻の構成を明らかにして 次のように言う。

天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合命以前 為上巻。
神倭伊波礼毘古天皇以下 品陀御世以前 為中巻。
大雀皇帝以下 小治田大宮(推古天皇の時代)以前 為下巻。
古事記 (岩波文庫) 序)

つまり 

神―→命
―→天皇―→御世
―→皇帝―→大宮

という変遷 言いかえると 

カミから ヒコノミコトへ(上巻)
カムヒコノスメラミコトから ミヨへ(中巻)
ミカドから オホミヤへ(下巻)

という推移を 内容的にも物語らせたと考えられる。スメラミコト・ミヨ・ミカド・オホミヤのそれぞれの間に あまり違いはないかも知れないが 記述にしたがう限り カムヒコ(神武天皇)からアマノマヒト(天真人・天武天皇)へ到る間に アマガケル日子らとの関係・相互対立的な展開の歴史があったことをしめしたかのようである。
つまり アメノミナカヌシの神と 日子ナギサタケウガヤフキアヘズの命との関係(上巻)――すなわち そのような一歴史知性における《カミ‐ヒコノミコト》の連関――を 類比的にそれぞれ中巻・下巻にも投影させてのように 神ヤマトイハレ毘古天皇とホムダ(応神天皇)ノ御世との関係 および オホサザキ(仁徳)皇帝とオハリダ(推古天皇)ノ大宮との関係に あてはめて捉えたとも推測される。
原点たるミマキ入日子が ここには明示されていないのは これら全体に及ぶ意であり 《御世》との関係対比において 神毘古天皇であり 《大宮》とのそれにおいて 皇帝だというのである。また これらは 天武(アメノマヒト)天皇の時代から捉えられているのだと考えられる。
同じく原点たる入日子や意富多多泥古は これらと別個に離反していると言おうとするのではなく 御世や大宮の世の中に寄留しており つねに寄留しており 時に 神毘古天皇であったり皇帝とも呼ぶべき存在として 存在たりうる者として かつ 自己の同一にとどまっている。というもののようである。
換言すれば 原点に小さくまとまるのではなく それだけの幅をもって 動態的に自己の同一にとどまる知恵を展開させていると言うようなものである。神毘古天皇とか皇帝(この場合 仁徳オホサザキ)とか表現するのは ミマキイリヒコを三輪の王者と言ってのように 実際それらが実体としてそうあるというのではなく 時にそう表現して呼ぶのがより一層ふさわしいであろうという意味に解して 史実を違わないし 古事記の意図にそぐわないことはない。ここには たたかいがある。
ここにたたかいがあるであろう。つまり 道を譲った人びとは 必ずしも史実を純学問的に明らかにするという作業によりは――学問は必要であり 有益である―― たとえ自分たちが偽りの歴史知性に見えようとも 幻想のアマテラス帯日子のアマガケル動静に対しては 社会的諸関係の総体(やしろ)としては おつきあいしていくのである。アマテラス・マツリゴトの中では そのアマガケル日子らは それをよいことにして 表現として同じく 《つきあいが大事だ》と言って なれあうことがある。
ゆえに 古事記作者も 歴史の誕生を考察し見るにあたって 史実そのままを撰録・討覈したのではないといった様子なのである。
念のために言い添えておきたいが そのために学としての歴史研究が 必須なのである。一般に―― 一般にだが――いわゆる歴史学は 知解行為(研究と啓蒙)の領域に属し 古事記の行き方は 愛の行為(啓発。また生きた動態そのもの。歴史知性という生きた一個体たる書物)である。人間存在が一巻の書物である。一人の歴史学者が 両方をなしうれば 鬼に金棒である。
この古事記の行き方というのが ここでの主眼でもある。だから 学者を責めよということに 力点がおかれている。井戸端会議を推進し ふたたびの万葉集を編集しつつのように――臆面もなく―― 呼びかけていきたい。

  (つづく)