caguirofie

哲学いろいろ

第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第十三章 ウタの構造としての《ワケ》ないし《タラシ》

――このような人びとを汚すのは とりわけ高ぶりそのものである――
《その大后(おほきさき)オキナガタラシヒメノミコトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき》と始めて 古事記は この《アマガケル日子・永遠の今》のマツリゴトの成立過程を 科学的に考察している。

その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后オキナガタラシヒメノミコトは当時 カミを帰(よ)せたまひき。

  • さらに その昔 オホクニヌシのときの《ヤ〈ガミ〉ヒメ》や 開化ワカヤマトネコヒコオホビビの妃の《オキナガミヅ〈ヨリ〉ヒメ》や あるいは オホタタネコの祖の《イクタマ〈ヨリ〉ヒメ》やと違って オキナガタラシヒメは すでに 《イリ》歴史知性を獲得している。
  • ゆえに カミに《ヨリ》つくのではなく ただし カミに《イリ》ゆくのを止めて それを超えてのように カミを《ヨセル》ことを欲しこれを実践(?)したというのである。

故(かれ=彼有れば) 天皇が筑紫の訶志比の宮に坐しまして 熊曾(クマソ)の国を撃(う)たむとしたまひし時 天皇は 御琴を控(ひ)かして タケシウチノスクネの大臣が沙庭(さには=ここでは まつりごとの場)に居て カミのミコト(命令)を請(こ)ひき。
ここに大后はカミを帰せたまひて 言(こと)を教へ覚(さと)し詔(の)りたまひしく
――西の方に国有り。金(こがね)・銀(しろがね)を本(はじめ)として 目の炎耀(かがや)く種々(くさぐさ)の珍しき宝 多(さは)にその国にあり。吾れ(=カミが語っているその自称)今 その国を帰(よ)せたまはむ。
とのりたまひき。ここに天皇 答へて白(まを)したまひしく
――高き地(ところ)に登りて西の方を見れば 国土(くに)は見えず。ただ大海のみあり。
とのりたまひて 詐(いつはり)をなすカミと謂(い)ひて 御琴を押し退(そ)けて控(ひ)きたまはず 黙(もだ)して坐しき。ここにそのカミ 大(いた)く忿(いか)りて詔(の)りたまひしく(=カミを帰せているオキナガタラシヒメの口からである)
――凡(およ)そ この天の下は 汝(いまし)の知らすべき国にあらず。汝は一道(ひとみち=死の国)に向かひたまへ。
とのりたまひき。
ここにタケシウチノスクネの大臣 白しけらく
――恐(かしこ)し 我が天皇(おほきみ) なほその大御琴あそばせ。
とまをしき。ここに稍(やや)その御琴を取り依せて なまなまに控きましき。故 幾久(いくだ)もあらずて 御琴の音 聞こえざりき。すなはち火を挙げて見れば 既に崩(かむあが)りたまひぬ。

  • 仲哀タラシナカツヒコ天皇は アマガケルヒコの《永遠の現在》なるカミのことば のウチに入らなかったというのである。
  • カミを寄せるオキナガタラシヒメにとって《永遠の現在》なのだから 事はなんでも起こると信じているようだと捉えうる。
  • 次に この善悪の木の内容が具体的に表わされている。


ここに驚き懼(お)ぢて 殯(あらき)の宮に坐せて(=葬るまでの間 屍体を安置して) 更に国の大幣(おほぬさ=贖いの品物)を取りて イキハギ(生剥)・サカハギ(逆剥)・アハナチ(畔離)・ミゾウメ(溝埋。前項と同じく畔の解放)・クソヘ(屎戸)・オヤコタハケ(上通下通婚)・ウマタハケ(馬婚)・ウシタハケ・トリタハケ・イヌタハケの罪の類(たぐひ)を種々 求(ま)ぎて 国の大祓(おほはらへ)をして

  • 罪の共同自治に関して イリ日子歴史知性の範囲内でおこなわれていた自己のミソギが 上からのアマガケル日子によるハラヒという形になったのである。
  • オホモノヌシのカミとのマツリ(共食)あるいはこのカミに対する悔い改めの個人的なミソギが 国の真ん中に打ち建てられた堂々たる善悪の木=智恵の木のもとに・その傘のもとに・この円屋根のもとに 第一日子のおこなうマツリゴトへと変わり 同じく集団的なハラヒの儀式となっていった。

また タケシウチノスクネ 沙庭に居て カミのミコト(お告げ)に請ひき。ここに教へ覚したまふ状(さま) 具(つぶさ)に先の日の如くして
――凡そ この国は 汝ミコトの御腹に坐す御子の知らさむ国なり。
とさとしたまひき。

  • 《オキナガタラシヒメの今 懐妊中の子(のちの応神ホムダワケ)が統治する国である》と霊媒となってのごとく今 カミを寄せているオキナガタラシヒメの口から ミコトノリがあらためて発せられた。

ここにタケシウチノスクネ
――恐し 我がオホキミ そのカミの腹に坐す御子は 何(いづ)れの御子ぞや。
とまをせば
――男子(をのこご)ぞ。
と答へて詔りたまひき。ここに具さに 請ひけらく
――今かく言教へたまふオホカミは その御名を知らまく欲し。
と請へば すなはち答へて詔りたまひしく
――こは アマテラスオホミカミ(天照大御神)の御心ぞ。また 底筒男(ソコツツノヲ) 中筒男 上筒男の三柱(みはしら)のオホカミぞ。〔この時に その三柱のオホカミの御名は顕はれき。〕いま寔(まこと)にその国を求めむと思ほさば アマツカミ・クニツカミ(天神地祇) また山のカミまた河海の諸のカミに 悉(ふつく)に幣帛(みてぐら)を奉り 我が御魂(みたま)を船の上に坐せて 真木の灰を瓢(ひさご)に納(い)れ また箸また葉盤(ひらで)を多に作りて 皆みな大海に散らし浮かべて度(わた)りますべし。
とのりたまひき。
古事記 (岩波文庫) 仲哀天皇の段)

このあと みづからが《ヨセ》たカミの命令にもとづくものとして 新羅に渡ってその地を征服したと――あるいは マツリゴトで感化したと――伝えられている。また オキナガタラシヒメの母方の祖は 新羅の王子アメノヒボコであったとされている。

  • ちなみに わたしにはこのような《感化による征服》というのが 上を下へに相手を つまり新羅市長を持ち上げて 友好関係を取り付けておいて 帰って来ると自分たちの根子市民たちには 善悪の木の感化が海外にも及んだぞと言って アマガケル日子の自分を持ち上げるやり方でなければよいのだがと感じられる。
  • もしそうであれば それは 古いやり方であり 生ける屍=奴隷の霊を受けた歴史知性の 第二の死の状態である。
  • まさか 文中に《真木の灰を瓢(ひょうたん)に納れうんぬん》と言っているからといって これが 御真木入日子なる原点を脱ぎ捨て葬り去るということまでを意味するとは言えないであろう。

すでに懐妊していたオキナガタラシヒメは 新羅から筑紫に帰ると この御子すなわちホムダワケノミコト(オホトモワケともいう)を生んだというのである。古事記作者の歴史知性は ここに登場したアマテラスオホミカミつまりその誕生と そしてアマガケル第一日子ホムダワケの誕生とを ウタの構造とその主体の生起としては 同一のものとして哲学したかのようなのである。
アマガケル日子の歴史知性は アマテラスオホミカミのアラヒトガミ(現人神)となって 永遠の現在の国へアマガケリし これを第一日子ホムダワケが主宰するというかたちである。こういう観念および幻想による帝国主義である。
しかし このアマガケル日子の善悪を知る木が 《畔離ち・溝埋め》すなわち農地解放を そして 《上通下通婚・馬婚》を それぞれ罪だと言わなかったならば 人はこの罪のおこないを知らなかったのである。なぜなら 人びとはアマガケル日子のマツリゴトのもとに 自己の同一性を保って すでに譲歩していたからである。
これが 河内《タラシ・ワケ》政権の誕生であり ウタの構造の実態である。念のために言い添えれば 善悪の木それじたい=人間の日子の能力そのもの=そして律法が 悪であったり罪であったりするものでないことは 言うまでもない。

タラシのスーパー歴史知性は高らかにうたった。

このウタの構造のもう一面は アマテラスオホミカミを立て 人間の理性による想像力の光りを神格化することによって 卑弥呼の鬼道に帰ったごとくであることにある。カミが――つまり人間の口を借りて―― 《新羅を奪え》と言ったら その思いを最後まで遂げようと――《撃ちてし止まん・一億玉砕》と――言ってのように 実行するというウタの構造にある。

  • 旧約聖書にも 戦争しかも人殺しの絶対命令が出されている。
  • たぶん この永遠の現在教団との違いは 外から見て霊媒師と言われかねない預言者であっても この預言者が幾人も出て 預言は一定の時期まで受け継がれていることであろう。
  • もう一点は 《撃ちてし止まん》と もし仮りに預言者が言った場合 それには 嘘や裏がないことである。《一億玉砕》と言うばあい それは 指導者が 裏では和平を模索しつつ 表で兵隊さんたちにけしかける言葉をかけているに過ぎないことである。

精神の天使化あるいは神格化であるアマガケル日子のその究極としての《アマテラスオホミカミ》と その第一祭司ないし第一主宰者たる《第一日子(スーパー歴史知性)》とは あの歴史知性の確立の介在によって 別のものである。両者とも その存在じたいが危ういものだが その観念の問題としてでも 互いに別のものである。カミのマツリを主宰するというのなら まだ第一日子も歴史知性のあり方としてその極端だという捉え方で済むかも知れない。オホヒルメのムチ(貴)が アマテラスと名づけ変えられるだけなら 何のこともない。
しかるに ここでは カミにヨリつく原始心性でもなく カミの世界にイリし自由意志が与えられているとして受け取り時間的存在の歴史知性を確立したウタのあり方でもなく 端的にカミをヨセル歴史知性が現われた。
卑弥呼(ヒメのミコト)が 人びと(根子市民)によって《共立》されたというのは 要するに このミコトが カミと同一視されたというところまで行き着く。モノゴトとオホモノヌシのカミとが同一視されていた(言いかえると モノゴトの中には オホモノヌシノカミそのものであるというモノやコトがある)というとき 人びとは みづからの智恵の木の限界を知って カミの意志に委ねるかたちで 卑弥呼を共立したという側面とともに 別の側面がある。ミコトたる人間に過ぎない卑弥呼なる人物を あたかもカミの意志だというかたちに 自分たち人間の智恵の木によって 決めたという一面である。
この後者の側面を重視するならば 人は 智恵の木による合議を まだ 諦めてはいけないという結論になろう。言いかえると かんたんに カミをヨセテはいけないのである。生命の木を智恵の木の世界に かんたんに引っ張り出して来てはいけない。

  • それならば まだ けんかをしたほうがましだという考え方さえ成り立つかも知れない。
  • どっちが勝つにせよ そのけんかを通じて よい智恵が浮かぶかも知れない。
  • 一般にほとんどつねに弱い立ち場にあるオホタタネコ歴史知性であり続けて悪いのではない。その原点の同一にとどまってよいのである。

しかるに オキナガタラシヒメがカミをヨセルとき アマテラスオホミカミというかれらの提唱する生命の木のもとに 第一日子が直(ぢか)につながるというものである。
卑弥呼の共立者と 第一日子の擁立者(つまり タケシウチノスクネや オキナガタラシヒメら)とに もちろん違いはある。かつまた 卑弥呼のカミと オキナガタラシヒメらのアマテラスオホミカミとにも違いがある。なおかつオキナガ思想家は 自分たちの新しい宗教を 卑弥呼の時の宗教の高度化であり高次の普遍化であると考えたであろう。そう説いたのではないだろうか。オホタタネコ原点としての有限なる弱き自立では もの足りないと考えたのだと思われる。つまり そのぶんでも 日子の能力が 強くなったのである。カミを 人間がヨセテも よいと結論づけたことから発しているであろう。
タラシ・ワケなる歴史知性は このようにうたったのである。このウタの構造なる観念の帝国(タラシ=連帯)が 動き出した。われわれは長く これの亡霊に悩まされ続けて来たわけである。

近江=タラシ? 河内=ワケ? だが いづれにしても イリ歴史知性が オホタタネコ原点であり 歴史の原点であるとおもう。

ちなみに 邪馬台国が大和にあったとする説に立つと 次のような一見解が提出されている。要点のみを引用しようと思う。

すなわち 弥生中期末葉の卑弥呼の共立時に営まれた軍事的通信施設を伴なう高地性遺跡は 西は北九州から瀬戸内海を東行し六甲山地 北摂(淀川右岸)を経て生駒山麓に達するものの 木津川流域(山城)や大和盆地にはまったく見られず 近江のそれも 湖南地域で終着地点となっている。
いわばこれらの通信施設が 一方から他方へ狼煙(のろし)によって連絡をとることが機能であるならば これらの遺跡の分布現象から 大陸から半島を経て瀬戸内海を通る瀬戸内海ルートと 日本海から近江に入る近江ルートとの二つの通信ルートが 存在していたことが考えられる。
さらに このことは 卑弥呼共立直前の邪馬台国には 瀬戸内海ルートと近江ルートにそれぞれ対応する二つの部族を中心とする対立があり その一方の旗頭が 生駒西麓の河内勢力であり 他の部族は近江の湖南を中心に勢力を伸張していた近江の部族であったと推測されるのである。
この政治的対立の要因は 弥生前期以来の生産力の発展にともなう首長権の成長など共同体のもつ基本的な矛盾が根底に横たわっていたことは いなめない。しかし その直接的な原因は この肥大しつつあった共同体の矛盾を隠蔽し 新しい支配方式を地域首長に提示するために 銅鐸祭祀(鏡を用いておこなう天を祀る祭祀)に代わる新しい鏡の祭祀を主唱した近江湖西の部族と 旧来からの銅鐸祭祀に固執した河内勢力との主導権争いであったとみてよかろう。
(丸山龍平〈ヒミコの時代――高地性集落と銅鐸――〉岡田精司編《史跡でつづる古代の近江》1982)

卑弥呼邪馬台国〔連合〕とそして狗奴国との対立とともに 邪馬台国じたいの側のなかにこのような歴史知性(マツリにかかわる)の書き替えをめぐる対立的な運動があったかも知れず すでに近江の部族はこれに関与していたかもしれないということである。
もしこのままの仮説に従うとするなら 葛城の《根子日子》歴史地性(孝霊・孝元・開化)の氏族(これが 狗奴国か?)が 近江勢力のそれよりさらに新しい――鏡を見るのではなく 鏡をとおして見る――そのようなウタの構造を指し示して 政権の座についた(つまり 邪馬台国は滅びた)。この後 三輪の氏族が ミマキイリヒコ視点としてこの歴史知性を確立したことになる。邪馬台国(生駒・トミか?)は これで崩壊した。(武力的な衝突もあったろう。)近江と生駒西麓の河内と これら両部族は なおその後 ミマキイリヒコ視点の上を行こうとしたのである。
ホムダワケ政権樹立の画策つまりアマテラスオホミカミ宗教の創出にまで発展する。もっとも ミマキイリヒコ視点は オホタタネコ原点でもあって このオホタタネコは 河内の南部の美努(みの)の村から 迎えたと書いてある。つまり 三輪の氏族でのみ 確立したのではない。また これに先行した葛城の氏族のウタの構造(《根子日子》視点)にも留意しなければならないであろう。
のち この後者は カヅラキ政権の祖である神武カムヤマトイハレビコの事跡にちなんで 《カシハラ・デモクラシ》とよぼうとおもう。ただし これは 理念であったことに注意する必要がある。歴史知性が 理念としてあるというのは たとえてみれば《悔い改めよ》と説いた洗礼者ヨハネのようなもので 日本古代史までは このヨハネから二百五十年余ののち 洗礼者ヨハネの預言とは別のかたちで・つまり言ってみれば 三輪イリヒコ政権の実現を用意するべく 葛城ネコヒコ政権は 武力的な紛争を受け持ったかのようなのである。
神武カムヤマトイハレビコの時の軍事的な征服 これ(この記事)は おそらく孝霊オホヤマトネコヒコフトニあたりの時の 邪馬台国に対する征服過程をのべたものなのではないだろうか。記事じたいは まったく別であるかも知れない。ただ そのような経過がありえたと推測するというものである。
まとめて言いかえると カヅラキの根子日子なる歴史知性の発現にもとづくカシハラ・デモクラシの理念が ミワの御真木入日子なる歴史知性の確立として 結実した。この前後の過程に 近江や河内の諸氏族は その以前では 邪馬台国卑弥呼らに まつりの鏡の新しさをめぐって対立しつつ 仕え その以後では ふたたびの如く 歴史知性のアマガケリを欲し やがて 河内の新しい日子政権に応神ホムダワケを迎え これに従うようになったと考えられよう。
ちなみに――古事記には触れられていないが――日本書紀では 神功オキナガタラシヒメを 卑弥呼に比定している部分がある。時代がちがうから同一でないことは 明らかである。両者は互いにウタの構造において 近いものがあるとは考えられる。
オキナガタラシヒメとホムダワケの母子の登場と これにかんして ふたたびミマキイリヒコの時代の前後の頃からのアマガケル日子の淵源としての動きに 触れてみたことになる。これらが 史実であったかどうか わからない。歴史知性の基本要因の流れとして このように妄想するというものである。
このような相互に錯綜し対立するウタウタの展開――その一つの画期は アマテラス宗教の創出という出来事であるだろう――これがあったという歴史的な真実の点では 譲歩したくないのである。史実じたいの研究は この同じ史観にもとづいて・もしくは 別の史観を開示しつつ それらに合った別様の解釈が とうぜん 提出されるであろうし 提出され争われるべきなのである。そのような井戸端会議が 必要・有益である。
かつて結論として こうであった。

故 その御世を称へて 初国(はつくに)知らしし御真木のすめらみことと謂ふ。
古事記 (岩波文庫) 崇神天皇の段)

これが――古事記成立の当時の――人びとの 井戸端会議におけるひとつの議論であった。

  • 順序から言って第十代の天皇の御真木入日子印恵命が 《初国知らしし》と呼ばれたのである。

   
(つづく)