caguirofie

哲学いろいろ

第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620
(photo=葛城 一言主神社

第十五章 攻防ののち 継体ヲホド天皇の出現のなぞ

――今まで自分の所有であった者たちを欺き そのアマガケル儀式によってかれらがいわば清められ いな むしろ惑わされ 溺れさせられるように自らを偽りの仲介者としてあらわす霊――
前章の表5において 両政権の世系がなにゆえに絶えたか 絶えたと書かれているか したがって いかようにして統一政権の後継者としてこのあと 近江勢力の継体ヲホドノミコトが擁立されるに到ったか これが いま問い求める焦点である。はじめの想定のまま 問うこととする。
仮説の上に立っているから むしろ勝手な想像をずばり明らかにしてみたい。
その上で なお 歴史知性の歴史的な構造化および展開が しっくりと把握されるなら――史実の確定というよりも―― 古事記の読みをとおしての古代史理解の一助となる視点を提出することができると考える。
しかし 系譜の記載がでたらめだということは 定説として言われている。それでは なぜ 古事記の作者も おそらく各氏族の伝承においてそのようにでたらめの作為が見られたであろうそれぞれの系図を むしろ意図的に そのままに温存して これを編んだか これが われわれのここでの問いでもある。これを 発展させてみたい。
ともあれ 第二部で見ようとするように 古事記の《序》は 《削偽定実》と記して 史実にもとづく系譜と歴史を明らかにすると言ったにかかわらず そうはなっていない。とするなら むしろこれは 作者にも一般の読者にも分かっていたことなのであり それは何故かが問われるべきであろう。
このことは ただ 編纂時の政治的な勢力関係が反映したと説明するだけでは 不十分であると思われる。邪推を逞しくするなら 現古事記は――はじめの原古事記ではなく あとの現古事記は―― そういうような解釈がおこなわれて ともかく系譜関係記事はでたらめだとして葬り去られることさえ 望んだかも知れない。なぜなら 原古事記では でたらめな作為(つまり各氏族の作為的な伝承)をそのまま認めて 全体として打ち出すように編集構成したと考えられなくないからだ。はじめこの原古事記は しかるがゆえに 公にされがたかった。月日も経ち 上に述べたような解釈ですんでしまうであろうと認められた頃 いくらかの改定などをつけて 現存の古事記なる書物として 世に出されたのではないか。この邪推については それじたいを深く追求しない。
しかし同じくそのためには 史実を一つひとつ明確にするというよりも――それは きわめて困難な仕事である―― 各氏族のでたらめの系譜伝承を容れた記述のなかにも ウタの構造じょうは 歴史の基本的な展開が 文字の奥にわかるように書かれたと思われてくる。
これをいま 空想してみよう。
われわれは ともかく 三輪イリ政権の側のイチノベオシハのミコが 河内ワケ・タラシ政権の雄略オホハツセワカタケによって抹殺されたことを知っている。その骨を埋めても 塚をきづかず 平地と同じようにしておいたのだと記されている。しかし 例のオキメのオミナ(置目老媼)がその出来事を その淡海の蚊屋野の地で はっきりと見ていた。これを覚えていたオミナは 顕宗ヲケ政権のとき ヲケがその地を探し求めていたところ 申し出て これをおしえ 掘り出してみたが 果たして イチノベノ押し歯ノミコは 歯が三つの枝のようになって突き出ているという特徴があったので まちがいなくこれを確認したというふうに記されている。
ゆえに 雄略ワカタケによる市辺忍歯王の暗殺は 事実であったか 少なくとも或る動かし難い真実を語るために 受け継がれてきており これが物語られたかだと思われる。われわれはまず このことを知っている。
そこで でたらめな推測を この一点からひろがって 披露したいと思う。
政権統一への野望をもっていた河内ワケ政権――つまり アマテラス・マツリゴトは アマガケル日子の帝国(善悪の木の共和国という名の帝国)を確立するまでは 捨て置かない――は あせった。市辺忍歯王の二王子が発見されるに及んで さらにあせった。かくなる上は 奥の手を使ったのである。
すなわち――いまの焦点は 両政権とも なにゆえ世系が絶えるか 絶えたと書かれているのか にある―― 河内政権の日子とも三輪政権の日子とも 血筋のつながらない第三者を みづからが仲介者となって押し立てて 統一政権の達成を企てたのである。これが かねてから河内政権を支える有力な部族であった近江勢力から出たという継体ヲホドノミコトであると考えられる。
《品太王(応神ホムダワケ)の五世の孫》であると言って つまりそう見せかけつつ――ということは 誰も 確かな系図を説明しえないような血縁関係ゆえに 明らかに第三者だとわかるように 見せかけつつ―― 実際は たとえば雄略ワカタケの一王子を ひそかに 近江ないし越前(三国)に遣って育てさせ(ちなみに ヲホドの父は 早くに亡くなっているとも書かれている) これを擁立して来て 統一政権の第一日子としようと企てた。話をそう三輪政権の側に持ちかけた。
言うも憚られるが 三輪政権の顕宗ヲケ・仁賢オケ・武烈ワカサザキの子らはこれらを そして 非常手段のためには――まことに狂気にも――みづからの側の安康アナホ・雄略のほかの子ら・清寧シラカの子ら これらをも じつに皆 抹殺したのである。まったくの邪推であるが 一考の余地あり。後者のほうは 安康アナホまでの系譜にかんしては 記述にもあることだ。内紛の虐殺の事件として語られている。善悪の木によるアマガケリの成就のためである。
おそらく 相手側では 武烈ワカサザキがまだ政権の座にあった頃 言いかえると 時にみづからの側の清寧シラカをも いづれ抹殺してしまって それはちょうど西暦五百年のころ 五世紀・百年の攻防を終わらせるかのように ヲホドノミコトを近江から呼びもどして 第三者たる第一日子として押し立て 統一政権の座をねらったのである。この継体ヲホドは 近江から駆り出され はじめ樟葉(クスハ)の宮にあり その即位五年に山背の筒城(ツツキ)に 十二年に弟国(オトクニ)に移り 外交交渉(?)が成立すると(三輪イリ政権が譲歩すると) その二十年に大和に宮を移し 入ったという。継体ヲホドの擁立とその三輪イリ政権との交渉が整うのに 二十年かかっている。と書いてある。
この仮定の中では 第一に 雄略オホハツセワカタケが 大悪天皇と言われ(=書かれてい)るのに対して 同じように悪逆の君主と伝えられるあの武烈ヲハツセワカサザキが しかし実際 その所業はいかなるゆえにであったか そして第二に 継体ヲホドないしその擁立の主体(大伴金村)のウタの構造はどのようであったか したがって要するに 二点を綜合して このときの歴史知性の構造的な展開は いかなるかたちであったか これが 問われるべきである。――この妄想にもう少しお付き合い願いたい。
第二点は さほど問題ではない。アマガケル日子の善悪の木の帝国のために 血筋のうえから第三者(敵対者にも公平を期してのように第三者)(に見せかける)を擁立すると言うに尽きる。見せかけと分かるような・そして分かって欲しい第三者である。また その河内ワケ政権の祖の 外からの任那の王たる御間城入彦にしろ 内からの筑紫の一勢力にしろ そして河内にやって来た応神ホムダワケにしろ その出自・性格は ほんとうのところ あいまいである。アマテラスオホミカミの高天原(タカマノハラ)からやって来たと 自称し見せかけるためには その出自などはっきりしないほうがよいと すでに語っているようなものである。先住の根子市民たちは とつぜんやって来られたゆえに その新しい人びとを タカマノハラ(概念じょうは もっぱらの日子の圏域)から来たのだと 了解したのでは ない。タカマノハラ・要するに天からだと あいまいにしたのは 応神ホムダワケらのアマガケル日子たちである。

  • このような神代の記事(いわゆる神武東征)が いま 応神ホムダワケの出現に関してあてはまる部分があるであろうと見立てた上での議論である。

九州の最果ての地・ヒムカ(日向)に天より降り立って ここからヤマトにやって来たのだと 神武カムヤマトイハレビコに当てて もし応神ホムダワケも言われているとするなら 継体ヲホドは 北の最果ての地・越前ミクニから出たと伝えたのであろう。善悪の木の旗印に照らして 公平な第三者だと言いたいのだと思う。
いつわりの仲介者!!われわれのオホタタネコ / ミマキイリヒコイニヱノミコトなる歴史知性も 泥古になりうる御真木の主体として 恵みの印(似像)にしか過ぎないのだとしたら それは 表現じょうの一つの虚構である。しかも 善悪の木をもっぱら御真木とし さらに生命の木とも見なして これをアマテラスオホミカミと名づけ この国をタカ〔ア〕マノハラとするアマガケル歴史知性 これは 一つの虚構であるだけではなく 幻想である。幻想を 同じくもっぱら善悪の木の旗じるしのもとに おしえ おしえつつ その共和国という名の帝国を実現しようとするなら それは 錯乱の歴史知性である。
すべて 永遠の現在のマツリゴト かれらの信奉する生のかたち すなわちアマテラスオホミカミ(そのような観念の生命の木)のためだという。これが カミ=生命の木の法則=資本(やしろ・愛)の推進力のハタラキにかなった歴史知性の展開だと考え 言いふらしていったということである。
しかるに これに対する三輪イリ政権は 後継者がたとえ抹殺されたとしても その共同体の中で オホタタネコ原点を継承し 生活してゆけばよいではないか 少なくとも 善悪の木のアマガケル国家への動きに対して ウタの構造じょう道を譲ったということは どういうことか。けれども おそらくこの頃には 樟葉あるいは筒城の宮で継体ヲホドが立っていたであろう。そのとき 三輪政権の最後の日子(市長)となる武烈ワカサザキは じつに悪逆の限りを尽くしていた。問題の第一点としたものである。
その答えは こうである。
実に 三輪の王者――こう考えるのであるが――は このとき 河内政権の狂気におつきあいしたのである。

  • その隣りびととなったという表現。

もちろん わざとしたのではない。また 善悪の木のオキテから言っても 武烈ワカサザキの所行は 凶悪である。しかしながら ウタの構造じょう つまり全体的な社会のモノゴト関係の中にあっては 大悪天皇日本書紀の表現)と呼ばれた雄略オホハツセワカタケの所行を初めとする河内政権の動きに つきあわざるを得なかった。これが 三輪の側は――はじめに――譲歩していたからだという情況の実態である。のちに 《須佐之男命》――須(すべから)く佐(たす)くべし――というように 相手の罪と虚偽を憎み これは徹底的に憎み(つまり 虚偽を内的に棄て) かつ 相手の存在(オホタタネコ原点――善悪の木のことではない――)を 愛したのである。罪の行為を憎み 存在を愛し抜いた。
歴史知性の鎖国的な無関心よりも 後で悔い改めるべき余地の残された破廉恥な行為のほうが じつに 生命の木の原理=愛にかなった人間の歴史知性的な展開であることがありうるのだ。
無関心が 死である。
つまり 人間の日子の能力によって 善悪の木の想像的規範のなかにアマガケル 偽りの精神主義なる悪徳である。これを 三輪の王者は よう為さなかった。かれらは 能力によってこれを為しえなかったのである。じつに 生命の木のチカラを分有し 敬虔によってこの愛の推進力の司令するところはすべて行なうと決意した者は 自分と同じように相手を愛する。自分もかつてはそのような悪徳の母斑の世界にいなかったためしはなく かつこの母斑の前史から生命の木によって復活したことを知っているゆえ このめぐみの時間にあっては 隣りびととならざるを得ない。そのように あの生命の木なる存在と同じように この世にあっては 十字架じょうにはりつけにされている。
しかも この世にとってわたしが わたしにとってこの世は 張り付けにされていると知った人びと(オホタタネコ)は これが 罪の取り除かれた復活の歴史知性のまったき自由であると知っている。ほかに自由はないと知った。まったき愛は 恐れを取り除く。
かくて 武烈ヲハツセワカサザキは 破廉恥の限りを尽くした。これは 日本書紀の伝えるところであって 古事記には何も書いてない。雄略オホハツセ(大長谷)ワカタケに対して つまりかれのウタの構造が及んでいる河内政権の人びとに対して ヲハツセ(小長谷)ワカサザキとこの武烈はならなければならなかった。

  • 現代では そのように悪に対して 同じ悪でもって つきあうという必要も義理も理論も ない。ウタの構造・その制約が 古代人にはあったかと わたしには 感じられる。

ワカサザキ(若雀)というからには オホサザキ(大雀)と呼ばれた仁徳を継いでいる。仁徳オホサザキは 崇神ミマキイリヒコイニヱを継いだのである。応神ホムダワケは オホサザキまたは ホムダマワカノミコ(品陀真若王)を あの善悪の木によって・つまり 精神主義的に道徳の問題として 倣ったのであろう。その上を行こうとしたのである。おそらく古墳の巨大さがそのことを示し これによってアマガケル日子の宗教のほうが より偉大だと言いたかったのである。

  • 現在の通念では 仁徳オホサザキの陵が 最大の古墳として残されているそれに比されている。つまり三輪イリ系の市長のほうが 観念的にも モノとしても アマガケリ競争で覇を追い求めたのではないかと反論されうる。この向きには これまでの仮説をやや訂正しても 仕方がないかも知れない。
  • すなわち第二部で議論するように 仁徳オホサザキは 応神ホムダワケの直後の世代であって この時 ホムダワケの没後 河内政権は ただ婚姻関係の和議だけではなく 大幅に三輪政権に譲歩してみせたということが考えられる。仁徳陵が 最大の古墳だということが 明らかに確定したとしての話だが――これは 次の議論によってありうるかも知れない―― 河内(難波)の政権の新しい市長に 三輪からこの仁徳オホサザキを迎えるといった譲歩である。
  • つまり 永遠の現在なる国家統一の悲願のためには 今度は クニユヅリなるコトを 見習ってみせたのである。
  • 応神ホムダワケは 気比のオホカミとは 名を取り替えた。ここでは 市長の交換が成ったかに見える。――ちなみに 一般論に広げて 模倣欲望という問題として論じられることがある。→今村仁司排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)。なお わたしも《えんけいりぢおん》でこれを取り上げている。→2004-11-28 - caguirofie041128;その§21~§23.
  • 仁徳オホサザキ一代でこのことは終わり 戦争状態はふたたび始まる。雄略オホハツセワカタケの頃には――ということは 百年近くかかったわけだが―― 味方をも欺くという非常手段に出たのであろう。

この結果 つまり このような形の一個の歴史知性の発進の結果 河内政権は 雄略ワカタケ大悪天皇を出すに至り なおこれに懲りず 第三者であると言う継体ヲホドを ひそかに企画して 擁立し 統一的な第一日子としたかったのである。
事実は 継体《天皇》の成功ののち 混乱はあったものの――欽明朝と安閑・宣化朝との対立 あるいは筑紫の磐井(イハヰ)の異議申し立てなどがあったものの―― 中央集権的な国家体制の確立へ道は進んだ。聖徳太子が これをさらに明確な企画とした。かれには 雄略ワカタケのような恐怖政治があった。また 近江大津京への遷都を計画し 実行に移した。
天武天皇は 各地域政権と連携し 壬申の乱を起こし この近江《オキナガ=永遠の現在》宗教政権の打倒をはかった。成就したところで 幸か不幸か 中央集権制が 実現した。
このアマガケル日子のアマアガリ(アマテラス化)は 同時に それ以上の幻想的な肥大はないと言ってのように 歴史知性のオホタタネコ原点への復帰をふたたび獲得したと思われる。

  • そういう中央集権的な国家という社会形態はともかく実現させた。その中でだが ミマキイリヒコ視点の復活を模索した。

つづく時代は ともあれ この国家体制の中での・また国家体制への 歴史知性の十全な展開が繰り広げられるはずである。現代にまで到る。
ゆえに 唯だひとりの第一日子統一政権の確立のためにヲホドノミコト擁立は みづからを意図せずして偽りの仲介者としてあらわす歴史知性の奥の手を用いるやり方によったのである。実際はおそらく 雄略ワカタケの子であったろうヲホドノミコトを 見かけ上は 近江の一人の日子たる第三者であるとして訴える これは それまでの忠実な内つ臣であった《オキナガ / タラシ》氏が アマテラスオホミカミとなり アマテラスの位置にいた河内《ワケ》の日子が その内つ臣となったことを意味する。
継体ヲホドは 応神ホムダワケの五世の孫であると称された。これは もともとは 全くの第三者であると名のっていた者が 河内ワケ政権の傀儡であると分かられたとき そのように譲歩して見せたのである。ただし 雄略オホハツセワカタケとその間にわざわざ《子無かりき》と記されたところの妻ワカクサカベノミコとの実際には子であったことは あくまで隠されたのである。
古事記作者はむしろ この表面的な結果(伝承上)のとおりに 書いた。継体ヲホドが 若日下部王との間の子であったと推測するのは そう空想すると 単純に 現代から見て 愉快だからである。もっとも これだけでは 不謹慎であるから 次に《まことしやかな》一つの論拠をお目にかけよう。
ともあれまず まとめておくと 《ワケ》と《タラシ》とが 《オキナガ》=永遠の現在のマツリゴトを創出し これにおいて これの社会全体における統一的実現を図り やがてその手段として用いた最後の奥の手は 言わば両者――ワケとタラシ――が攻守(主従)ところを替えて このマツリゴトなるアマガケル儀式によって あの大悪天皇の罪の所行から自分たちが清められる(ミソギできる)と考え――雄略ワカタケの子が清寧シラカノオホヤマトネコと名づけられるのは その限りで ふさわしかった―― こう考え 平和的共存なる政権統一への仲介者としてみづからを現わした。
これは 歴史知性の問題である。この虚偽の確定という――歴史知性の曲がりの確定。ブラック・ホール化という――人間の第二の死を回避するという問題に属する。
ゆえに しかも 大悪天皇・ワカタケ雄略には ついに葛城の山で ヒトコトヌシノカミが 現実に現われたと うわさ(共同主観)されるまでに到った。狂気に対して すべからく助けるべしと。もちろん 歴史知性の問題をはずさなければ 歴史事実じたいの経過を解釈・推定する研究は いろんなふうに別様に成り立つであろう。

継体ヲホドは 雄略オホハツセワカタケと妃・ワカクサカベノミコとの隠された実子である(!?)

わたしとしては この試論では 継体ヲホドが 雄略ワカタケと若日下部王との隠された子であったと大胆に言ってしまった手前 これについて補足しなければならない。ワカクサカべノミコには 明らかに《子無かりき》と書いてあることに反して すべては 第三者であると見せかけるために仕組まれたアマガケリ大作戦の一環――基本的戦略(=雄略?)――であったのではないかと見るゆえんは そう明記されていること自体が くせものであるとまず うたがってみたいからである。
そこで その出身は九州の日向であるとされるワカクサカベには  《子無かりき》と古事記では分註で書いてある。神武カムヤマトイハレビコ(いわゆる第一代の天皇である)の段では 神武イハレビコは日向から大和へやって来ている。そのとき まず《日下(クサカ))のタテツ(蓼津・楯津)》に上陸したと言う。これが 応神ホムダワケのやって来たときのことだと妄想するなら 《日下》には因縁がある。しかも 実に古事記の《序(その第三段)》には 原文表記の約束事を註解したところで その例として 《日下》と《帯(たらし)》との二つを挙げている。

姓(うぢ)におきては 《日下(にちげ)》を 玖沙訶(クサカ)と謂(い)ひ 名におきて《帯(たい)》の字を 多羅斯(タラシ)と謂ふ かくの如き類は 本(もと)の随(まにま)にして これを改めず。
古事記 (岩波文庫) 序・第三段)

もちろんこれは 単なる例示として挙がっているのである。と同時にわれわれは 《日下》と《帯》とが くさいと見なければならない。太朝臣安万呂(おほの・あそみ・やすまろ)の著もしくは監修になる現古事記は おそらく稗田阿礼が誦習したところの原古事記――つまり そのときには すでに一たん完成されていたであろう原古事記天武天皇の時代に成立したと思われる)――の表記に 上に述べている如く 従ったのである。文字表記の約束事にも そして その例示に《日下》と《帯》の文字を挙げることにも 従ったであろうというのが ここでの空想である。
もしこの空想の線では じつはこれら二つの語がくせものなのであると 原古事記作者じしんが 言いたかったという推測である。このうたがいの線で――つまり そういう色眼鏡をかけて眺めてみると―― これまで捉えてきたように推測してみれば たしかに《タラシ(多羅斯・帯)》(近江オキナガ)と《クサカ(玖沙訶・日下)》(若日下部王 をとおしての雄略オホハツセワカタケ)とは 歴史知性の歴史的展開にあたって その根幹(ないし節目)にかかわっていると思われる。
《タラシ》は 中臣鎌足そしてその子 藤原不比等にまで――《内つ臣》として――ウタの構造じょう 及んでいると捉えられる。《クサカ》は 一つのミッシング・リンクとしてである。
これで 四世紀と五世紀の二百年をおおまかに見た。舞台の配役は イリ歴史知性とタラシもしくはワケ歴史知性 かつ これらが この世にあっては 互いに錯綜して入り組んでいるというものであった。次には 三世紀ないし 古墳時代ミマキイリヒコ視点の確立の前の弥生時代を あらためて眺めてみることにしよう。神武カムヤマトイハレビコの条りが その焦点となってきているであろう。時代として 孝霊・孝元・開化の三世代=《根子日子》歴史知性の社会であり ふたたびこの淵源から捉え返して クサカ・タラシについては 行論の途上でさらに考察できればと考える。
(つづく)