caguirofie

哲学いろいろ

第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第十六章 継体ヲホド天皇のなぞにかんして 三世紀のウタの構造(歴史知性のあり方)

――最も低いものへの仲介者・最も高いものへの道を阻む者たるあの極めて不遜な霊がより多く支配権を持つような悪徳は 別の道をとおってこれを避けるか 己が十字架として引き受け この十字架すなわち復活の生命の木によって克服すべきものに他ならない――
古事記は 史実を忠実に反映していないという点では 偽りを述べているのである。かつ当時(原古事記の七世紀後半。現古事記は八世紀はじめ) それが 歴史知性の歴史の一つの総括だった。と見なければなるまい。
ちなみに現古事記は なお原古事記の総括を 改作し混乱させたかも知れない。させなかったかも知れない。天武天皇のあと 持統天皇など その第一日子(また日女)がアマテラスオホミカミになるというウタが ふたたび現われないわけではないから 改作はあったかも知れない。天武天皇は 統一政権への動きの発進以来の過程では ミマキイリヒコ原点を保った。天武イリヒコに対して オホタタネコは 試みに言えば 柿本人麻呂であったと考えたい。これは 梅原猛氏が言い出したことであるが 原古事記の作者も 人麻呂であったかとも空想において感じられる。

タカマノハラの上書き

三輪の王者――覇権を競わない――ミマキイリヒコの前史では 縄文時代論を措くとすると 弥生時代の歴史の中で 一つに――古事記に従うと―― 神武カムヤマトイハレビコノミコトにまつわって哲学された歴史知性の展開が その焦点である。
カムヤマトイハレビコ(神倭伊波礼毘古命)の祖であるホノ二ニギノミコトのいわゆる天孫降臨の条りから このイハレビコの時代までをひっくるめて 何が起こったか。
このホノ二ニギから神武イハレビコに到る物語には すでに触れたように ホムダワケとタラシ氏族が九州から河内へやって来るという歴史が投影されていると あらためて言うまでもなく思われる。また ウタの構造の類型的な異同を見究めれば 継体ヲホドの政権統一の歴史さえ反映されたかも知れない。あるいは ホノ二ニギが いわゆるタカマノハラから突如やって来たというからには 任那の王としての御間城入彦(だから騎馬民族)の九州上陸をも反映させているのかも知れない。

  • 任那の王としての御間城入彦というのは 想定としてでも 何故そのようにいうのか。御間城は ミマナの城主という意味あいがある。入彦は わからないが ここでは オホタタネコ原点であるイリヒコ歴史知性からの《ワケ=分け・別》という観点から 入リと名のっても まちがいではないという理由である。
  • タカマノハラ(高天原)は まさにアマガケリしたその状態を反映させて名づけられたと思われるが 確認しておくならば オホモノヌシ=ヒトコトヌシの神が 新たに アマテラスオホミカミとして哲学されたところでのその天の圏域を言っている。
  • このタカマノハラに対しては われわれは すでに葛城のカシハラ(橿原)・デモクラシを言っていたが 一般に アシハラ(葦原)が対応する。
  • ウタの構造としては 根子と日子との対応・対立が基礎である。

神武イハレビコの物語では さらに継体ヲホド以後 六世紀・七世紀の政治状況における各氏族の位置関係を大いに 反映させているかとも考えなければならないだろう。もっと言うならば ここでも同じく ワケ=タラシ系の歴史だけではなく イリ系のそれをも ごちゃまぜにしているかも知れない。しているであろうと思われる。三輪のミマキイリヒコを 《初国知らしし》と捉えるのと同じように 日本書紀では 神武カムヤマトイハレビコについて 《はつくにしらす(始馭天下)》と言ったからである。
もちろん古事記でも 《神倭伊波礼毘古の〈天皇(すめらみこと)〉》と規定したのである。三世紀以前に史実として 《天皇》ではありえないし おそらく《すめらみこと》という言葉も 第一日子というウタが出現してから使われたと思うから 史実ではないだろう。後世から 歴史をさかのぼって上書きされたのである。

  • そもそも アマテラスオホミカミじたいが あたらしい言葉だと考えられる。ヒルメ(日る女)・オホヒルメのムチ(貴)と呼ばれたのが前身だと考えられる。

言いかえると まず 古事記は 七世紀の後半に天武体制の成立のあとの時点に立って それまでの歴史を総括したのであり たしかに史実をそのまま記録したのではなく 一つの前提として 当時のウタの構造を――すでに国家時代のそれを――かかげ したがって当時の現代人の自己認識を果たそうと考えたのだと思われる。
ゆえに 古事記本文の冒頭では 次のように記して明らかに この大前提を押し出している。

天地(あめつち)はじめて発(ひら)けし時 タカマノハラ(高天原)に成れるカミの名は アメノミナカヌシノカミ。次には・・・
古事記 (岩波文庫) 本文上つ巻・冒頭)

言いかえると 河内=近江政権のウタの構造――アマテラスオホミカミのマツリゴトの場としては タカマノハラ――が およそ普遍的に覆いかぶさったという現状に初めから立っている。逆に これによって アマガケル日子のウタの統一的なアマアガリは 基本的には止んだのである。とも見なければなるまい。そしてこの新たに覆いかぶさるウタの構造《の中で》 歴史知性が構造的に展開されていくことになった。これ以後は アマテラスオホミカミの幻想の国家が 解体していくしかなかった。つまり 人びとはわかっていた。ゆえに この《タカマノハラに成れるカミ》という大前提を 大前提として明示した。もはや もっぱらの日子(統一第一日子)のアマガケリは 止んだので――もしくは その方向が 上昇から下降(アマクダリ)へと変わってしまったので―― 善悪の木の帝国のウタを 構造的に明示しえたのである。
古事記の作者は むしろオホタタネコ原点に立って このタカマノハラのウタの構造を 前面にそして全面的に――さらにそしてそれは 価値自由的にだ――打ち出すことによって 幻想の帝国の解体を待ったのである。解体の過程を 基本的に 示そうとしたし 示しえた。まず あの奥の手を使った河内の第一日子の政権統一への動きが止んだことを 確認した。これは 弱い方法だが この方向を見なければなるまい。
ゆえに 《初国知らしし御真木のすめらみこと》の前に タカマノハラの第一日子であるとする《神倭伊波礼毘古》に 歴史的に初めて《天皇》の名をつけ加えたのであろう。これは 弱い方法だが その方向を見なければなるまい。つまり いま出来上がった日本国家のウタの構造の現行形態を離れては 歴史総括ができなかった。一たん現行形態を受け取ってから 批判すべきは批判するというやり方である。大筋としては この国家の解体を待つという方法である。当時 国家以後の段階にある社会は 地球上に出現していなかった。

根子日子なる理念によるカシハラ・デモクラシ

カムヤマトイハレビコの出現は 歴史知性の誕生とともに弥生人がその生活原理を一新させて 社会的な共同自治の形態を模索するとき ミマキイリヒコによる歴史知性の確立の先駆者としてその役割をになったものと考えられるだろうか。
すなわち あの邪馬台国の《日女ノミコト》を第一日子の座につける共同自治に行き着く弥生人の――まだ後退志向のような(なぜなら 《ヨリ》という原始心性に未練がある)――生活原理を やはり葛城の根子日子なるウタの構造の出現によって揚棄しようとした歴史が その基本なのであると。つまり 孝霊・孝元・開化の三代の根子日子なる先駆的な市長の時代 これを 《カムヤマトイハレビコ》の物語にも 一つには 投影した。これは カシハラ・デモクラシと考えられるだろうか。それは 理念を言っている。理念先行とは言っても ただし 根子日子というようにであるから もっぱらの日子ではなく もっぱらの日子による永遠の現在なる観念と幻想ではない。
すなわち 銅鐸を中心とするマツリをめぐって しだいに生起して来た歴史知性にもとづき 生活していたところへ 邪馬台国(その連合)は 新しい鏡をもって 日子(精神)の先駆的なアマガケリをおこなおうとした。オキナガ(息長)なる永遠の現在主義つまり 鏡の威力による不老長寿といったところである。また 鏡というモノを根拠とし そのように根拠を置くチカラとしての日子なる能力をオホモノヌシノ神の上に置くというウタとしては すでに超歴史知性の色合いをも宿していた。オホモノヌシの神とのマツリ(共食)ではなくなり 単独分立した日子(日女)が 一般市民なる根子たちと向かい合う形でおこなおうというマツリゴトの先駆形態でもある。
鏡は 不老不死つまり《オキナガ》を映すものとして 新たに生起してきた歴史知性つまり時間つまり生だから死を克服しようとしたのであろう。このとき 卑弥呼や臺与のもとに 近江や河内(これは 生駒西麓つまり邪馬台国民)の勢力が動いたとも考えられる。
これは しかし なるほどモノの木とオホモノヌシの生命の木とを峻別しているが その中間的な日子による善悪の木の誤った宗教化形態であると考えられた。人間は 日子であり 日子は単なる狭義の根子よりも一層すぐれているが なお人間は根子なる存在でしかない。ゆえに 日子一辺倒の幻想的なアマガケリは慎むべきである。こう考えた歴史知性が 邪馬台国に対立し そのウタの構造を競い合った。これが 《根子日子》の歴史知性であり 邪馬台国に対立していた狗奴国のそれであり 古事記に片寄って従うならば 三輪の政権の前段階である葛城の氏族のチカラによるものであった。
邪馬台国が敗北したとき その葛城の人びとの指導者を カムヤマトイハレビコと呼んだのであろう。卑弥呼たちが 縄文人の呪術知性を残して 新しい鏡をもって再び自然のモノと一体のオキナガあるいは 自然のモノを 神を寄せたみづからのチカラによって支配するというオキナガなる不老長寿を想像し これを人間におけるカミと想定し このカミガミは タカマノハラに住むと考え 一般の根子市民たちは 大地の《アシハラ(葦原)》にしか住まないと分裂したかのように錯視していったとするなら カムヤマトイハレビコたちは タカマノハラとアシハラとを アウフヘーベンする根子日子であると つまり カシハラ(橿原)の視点を新たに提出したにちがいない。

  • 葦原は 当時は湿地が多く 葦が生えていたからであるが 根子日子はたしかに自然の中でもっともか弱い考える葦であった。
  • アマテラス宗教の創出の以前であるから タカマノハラもまだ 明確に概念の把握がなされていなかった。とするなら おそらく ただし日の神の信仰はもともとあったであろうから この自然的な宗教の書き換えとして アマテラス・マツリゴトも創出されたであろうし これが創出された以後の時代から見て 上のように 新しい概念を投影させて総括するというのであろう。

弥生人のあいだで生起した着実に耕されていったところの歴史知性は ここで第一次的(先駆的)な確立を見たにちがいない。これが 生活原理また共同自治の考え方としての《カシハラ・デモクラシ》である。デモスとは 根子というほどの意味である。
ただ このカシハラ・デモクラシなるウタは その主体たる根子日子を いまだ《〈カム〉ヤマトイハレ〈ヒコ〉》と名づけたからだと言ってのように この生活原理の実践を むしろ自然との一体の中に求めようとしたのではないか。いや 《カムロキ または カムヒコ》の概念を受け継いだだけだと見るなら さらに言いかえなければならないと言ってのように まだこのカシハラ・デモクラシのウタは 邪馬台国の《先駆的なオキナガ 幻想的な歴史知性》に対する一つの反措定であった。

  • 不老長寿を願うのは 死を認識しており だから生を大事にしようという時間的存在の歴史知性が始まっていることに間違いはない。

反措定つまり 邪馬台国のウタの否定が はじめの肯定に回転するのは 《モノの木とオホモノヌシ生命の木》との世界の中に位置するところの内的な《人間の誕生》に俟たなければならない。これが カシハラ・デモクラシのウタは モノの木とオホモノヌシとを峻別し かつ人間を根子日子として すでに十全に主体化させているが この根子日子をカムヒコと名づけるほどに そのウタを 至高の理念とした。言いかえると カシハラ・デモクラシによって世界が動き カムヒコ・即・世界であると考えた。言わば カムヒコと呼ぶべきネコヒコ主体が 人びとの前衛となって 共同自治がなされるという類いのものである。
オホタタネコ原点では 社会の共同生活の原理は ただ社会的役割としての日子の座(市長)に ミマキイリヒコを立てたのである。理念としては 日子(タカマノハラ)と根子(アシハラ)との連関を カシハラ(根子日子)で結ぶデモクラシであり これに対して すべての市民が――根子日子ではなく しかも 根子‐日子の連関としての――オホタタネコであるというそのウタというよりもはじめの現実をもって 見てとらえるならば それじたい 先進的な思想でありうる。ただし あるいは しかも ここで言うタカマノハラは邪馬台国も たとえ各地の日子政権の連合ではあっても いわゆる国家ではないと考えられるゆえ 一地域政権の座のようなものである。要するに あの――時間・わたくしの生起ののち――むさぼりが開始されて 貧富の差→債権・債務の関係の発生→支配関係の成立を経たのち なおいまだ 統一第一日子の国家支配体制にまでは到らない一小段階での出来事である。
ミマキイリヒコの社会が これを生きたかたちで止揚したあと ふたたびアマガケル歴史知性は 国家的な統一支配の実現へと動き出すと見たのであった。
三輪イリ日子政権も ほかの各地の日子政権の共同体へ向けて 《将軍》を派遣したとするなら――そう書かれている―― 国家統一を志向したことになるか。この点は かんたんに答えにくいかも知れない。少々贔屓目になるかも知れないが 新しく確立した歴史知性(要するに 生活の方法)を 他国(共同体)に輸出することはありうると考え そのように答えておきたい。この場合には 邪馬台国卑弥呼の鬼道から 根子日子のカシハラ・デモクラシを経てのオホタタネコ原点の獲得であるゆえ 集中豪雨的な輸出すら 起こりえたかも知れない。ただし 邪馬台国の連合――オキナガによるタラシ(連合)の前身――では はじめに 永遠の現在という思想(宗教)によっており したがって 統一第一日子を立てるという共和国(帝国)の前身的な形態であったと考えるのである。
ミマキイリヒコ社会は 一人ひとりが オホタタ泥古であり かつ 一人ひとりが イリ日子動態となって 共同自治するのだと 言わず語らずに うわさし合っていった。三輪イリ政権には この井戸端会議があって 葛城ネコヒコ政権にはなかったと見られる。カシハラ・デモクラシなる理念で 先駆したのであると。
神武カムヤマトイハレビコの条りは 一つに これらのことを物語っていると思われた。
葛城氏のウタの構造の中から 三輪のミマキイリヒコ視点が 懐胎したものであるとともに 同じくその中に すでにと言うか 前々からの動きとして 実際にオキナガ氏の動向も 入っていたか からんでいたかである。神武から第八代の孝元オホヤマトネコヒコクニクルの時代に あのタケシウチノスクネが登場し 次の開化ワカヤマトネコヒコオホビビは その妃の一人に近江ミカミ(御上・野洲)のオキナガミヅヨリヒメを娶ったとすれば――そう記すのは―― 上のことを意味表示させたのだと考えたい。系図の上では ミマキイリヒコは この開化の子のひとりである。
同じく系図の上では ミマキイリヒコの母は イカガシコメノミコト(伊迦賀色許売命)である。つまり開化オホビビは 《穂積の臣らの祖であるウツシコヲノミコト(内色許男命)》の家から このイカガシコメを娶っている。ホヅミのオミは 神武イハレビコの条りで 《トミ(生駒・富雄)のナガスネビコの妹であるトミヤビメを娶ったニギハヤヒノミコト邇藝速日命) またその子であるウマシマヂノミコト(宇麻志麻遅命)》に発しているとあるから そしてこのニギハヤヒは もとはトミの側のウタの構造の中に入っていたのが トミのナガスネビコとの対立抗争の過程で 葛城側について仕えるようになったと言っているから 仮りに葛城があの狗奴国であり トミ生駒が邪馬台国であるとすると そのように歴史知性を回転させた人びとであったと推測される。
言いかえると この仮定の上では 邪馬台国の前身的な《オキナガ》のウタの構造に入っていた人びとも 葛城の提出したアンチテーゼに同意し かつ 三輪のオホタタネコ原点へと同じくともに 移行していったと見ることができるかも知れない。
要するに このような人物・氏族の歴史事実的な比定には 学問的な不備もあろうが そのような形而上学において基本的な経過をたどったのではないかと考えた。
中国のいわゆる魏志倭人伝を持ち出さない場合でも 

トミのナガスネビコ

  • その下に仕えていたニギハヤヒが 次の新しいウタへ移り進んだ→

→カヅラキのカムヤマトイハレビコ→
→そうして カムヤマトイハレビコおよびニギハヤヒの流れを汲むかたちが模索された→
→ミワのミマキイリヒコ

このような過程をたどることは出来るのではないか。また すでにこの過程の中に 時に歴史知性の上では傍系として また地域政権としては対等の立ち場として 近江のタラシ日子のウタの系譜を 管見しうるのだと。縄文時代に 日本海側の地域は これも 栄えていたのであり 新しい大和と この地域を結ぶ近江の地も 重要であったであろう。
これは 後世からの一見解である。また つまり 古事記が歴史を総括したと言っても やはり当然のごとく 後世からの一見解としてである。したがって 古事記作者が 神武イハレビコの段を 社会形態的な歴史のはじめの位置において書いたのには そのような視点を込めたものであろうとするのである。歴史の事実と真実とが 微妙に入り組んでいて われわれは 古事記作者が むしろ意図しつつ 後者(歴史の真実)に傾いて書いたであろうと見て まずそのような思弁的な・ウタの構造じょうの展開としての理解を得ようとした。
そうして 葛城の氏族ないし部族の歴史は 根子日子の歴史知性の出現(第七代・孝霊)より以前にさかのぼるといっており――その中でとくに 第五代ないし第六代に アメオシタラシヒコ オホタラシヒコクニオシヒトなる《タラシ》の名も混じる状態であるゆえに その限り 邪馬台国・近江ないし河内との交流も考えに入れなければいけないであろうが―― 第一代神武なら神武という始原を見ているゆえに 九州なら九州から あの邪馬台国と同じようにと言うように この大和にやって来た人びとであったのかも知れない。
両者 《素(もと)より和せず》と考えられるなら 邪馬台国倭人であるゆえに それは 中国江南の越人であって 葛城・狗奴国は 同じくその地の呉人であったかも知れない。もちろん現地(この日本の地)の原日本人と同化して共同体を営んだのである。
越人・呉人は 中国からやって来たと言っても 漢民族とは違う。雲南またドラヴィダ人とつながるのだろうか。《百余国》に分かれていた北九州での時代から 時をたがえて両者とも大和にやって来たのであろう。この地で 歴史知性の展開をすすめていったのである。時に同化しつつ 触発された大和周辺のもしくは三輪の人びとらは いまひとつ別の勢力として歴史の新しい推進者となったのである。
三輪の人びとにももちろん この倭人やあるいは韓人(朝鮮半島南部の人びと)が混じっていたことはありうると見られている。また一説として 倭人よりさらに前に渡来していたドラヴィダ系の人びとであったかも知れない。これらの人びとは――もし中国人=漢民族の人びとも来ていたとするなら それらの人びとをいま別として―― その言語において ほとんど同一の文法構造を持っていたようである。
英・仏・独語あるいは ラテン・ゲルマンないしスラヴまたペルシャサンスクリットの諸言語が 互いに同祖的な言葉であるように おおむね文法において同じであった。アイヌは その後の経過から推して むしろ同化しないことをその一つの基本的な生活形式としたかも知れない。すでにこの西日本にも アイヌの人たちがいたとするなら その場合には 上のような観点に立って 別に考えるべきであろう。もちろん そういうウタの構造を持った人びととして この古代の歴史においてである。
三輪の人びとが ミマキイリヒコ政権として立ったとき ちょうどその頃(三百年のころ) トゥングース人の騎馬民族が――南シベリアを駆け抜けてのように――九州に上陸し その地で百年を過ごしてのち 近江オキナガ・タラシ系の人びととともに 第一日子たるホムダワケを押し立てて河内に上陸するようになった。かも知れぬ。その後の五世紀百年は すでに大雑把に眺め捉えた。
いくつかの民族が集まって ウタの構造じょう ミマキイリヒコの時代に 日本人の原型がかたちづくられた。応神ホムダワケの河内政権の登場から以後――この氏族が 騎馬民族系であるかどうかを別として―― 実質的な《日本人》の形成が 開始されたのである。
継体ヲホド天皇は この河内ワケ政権から――少なくとも そのウタの構造から――出たものと考えられる。そしてそれには 近江タラシ系の人びとが 関与していたと考えられるが かつこのタラシのウタの系譜を 三世紀のウタの構造の展開の中に捉えようとしたのであるが この点は 明らかにできなかった。ただ その日子政権の共同体は もちろん存在していたであろうし その動きも いくらか管見しうるというにとどまった。
四世紀の成務ワカタラシヒコのところで 突然この近江が都であったと出てくるのもおかしいから――または その一代前の景行オホタラシヒコオシロワケの時代に その子ヤマトタケルが 伊吹山のカミを征伐に行く(そこでは 逆に 惑わされた)という記事が載っているけれども これでも 古い歴史が明らかではないから―― じっさい明らかにしなければならないのであるが もともと一つの勢力として共同体が存続していたであろうとする以外に そして のちに要するに《タラシ》の歴史知性をになう動きを見せたとする以外に いまは わからない。
ただ 言えることは 近江の人びとに対して恨みも妬みもないのであるが このタラシという性格は じつにむしろ そのようにして 正体不明だと考えられるのである。

  • その前身は やはり邪馬台国のマツリもしくはマツリゴトとしての鏡のオキナガ=永遠の現在の思想が垣間見られたかに思われる。

しかも 開き直りに見られると思うが 古事記じたいが このタラシのウタの中味について 正体不明であると言いたいとさえ思われる。強引であるだろうか。継体ヲホド天皇のなぞは このようにして捉えるしかないと言えば 非学問的だと言って 一蹴されるであろうか。テオロギアにおいては 悪魔は 非存在を装うと説かれると言いたいのである。これは 気持ちの問題になってしまった。――非存在を装うのだが 公平な仲介者として現われる。
 
(つづく)