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哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第三十一章 ガ格をめぐる取り替えばや物語

神武カムヤマトイハレビコについては 崇神ミマキイリヒコの歴史知性の社会の前身として位置づけた。
オホタタ根子原点とイリ日子歴史知性との社会の実現のまえに 根子日子なる人間の理念が芽生えたと捉えた。これを 理念主義の嫌いがあるが カシハラ・デモクラシとも名づけた。
神武イハレビコにとって 高千穂の宮よりやまとにのぼり来て 日下に下り立ったときから トミのナガスネビコとの戦いが始まった。言ってみれば 歴史知性の開発では このナガスネビコもしくはやはりイハレビコらと同じように外からやってきたその祖のニギハヤヒのミコトにも その実績があったからである。
神武イハレビコの側から見れば トミビコらは《粟生に〔生える〕臭韮(かみら)一もと》だったという。互いに宿敵となった。この場合は――根子日子(身体‐精神 /  市民‐公民 )の理念を言いながらではあるが―― ウタの構造の照り競い合いではなく 武力による雌雄の決定であったようだ。
《粟〔の〕生(おふる)〔畑=すなわち 縄文人の社会に対して アハの農耕と関係するスクナヒコナの社会 もしくは これが象徴的に捉えられ ここでのウタの主体にかんがみて 新しい社会としての神武カムヤマトイハレビコらのカシハラ・デモクラシ 要するにこの新しい思想を持ってきた社会。粟から米への移行の時期にあたるのでもあろう〕には かみら(あの臭い韮)〔が〕一本〔混じっている=あたらしい根子日子の歴史知性の考えを持たずこれを拒む人びとがいる〕》と考えたようである。

鵜飼が伴・・・

戦いは続いている。前章で見た《みつみつし久米の子らが》の二首に続いて 《兄(え)師木(しき)・弟師木を撃ちたまひし時 御軍 暫(しま)し疲れき。ここに歌ひけらく》

楯並めて 伊那佐の山の          多多那米弖 伊那佐能夜麻能
樹の間よも い行きまもらひ        許能麻用母 伊由岐麻毛良比
戦へば 吾はや飢(ゑ)ぬ         多多加閇婆 和礼波夜恵奴
島つ鳥 鵜養が伴 今助けに来ね    志麻都登理 宇加比賀登母 伊麻須気爾許泥
(記歌謡・15)

ガ格の潜勢的な役目を考えるならば 強引に 次のように解してみる。

Aハ 〔吾ハ〕=〔疲れて飢えている吾(イハレビコ)について言えば〕
Bガ 鵜養ガ=〔鵜飼として食事係りなる兵士たちが〕
来(こ)ね=〔今助けに来て欲しい。〕
  • 《Aハ|〔吾ハ〕》とした《吾ハ》は 前半からつづいた主題で《吾はや 飢ぬ》の《吾》を承けたものである。
  • 《吾はや 飢(ゑ)〔去(い)〕ぬ》の文については 《A(吾)ハ‐ヤ B〔吾‐ガ〕 C(飢ぬ)》という文型である。
  • むろんと言うべきか 《鵜養(うかひ)‐ガ(属格)‐伴》という解釈を捨てよというものではない。《鵜飼なる伴》といった形で 属格は 同格の用法を持っている。
  • イハレビコが《我が伴(部下)なる鵜飼よ 助けに来て欲しい》と言っているものと考えられる。イハレビコが 鵜飼の伴=鵜飼の所有している部下のことを呼んでいるのではないだろう。
御真木入日子はや・・・

一つひとつ歌を吟味していくというわけではないが すでに取り上げたミマキイリヒコに関わる歌について見ておきたい。必ずしも はっきりしないゆえ 取り上げておいたほうがよいと考えられる。

御真木入日子はや               美麻紀伊理毘古波夜
御真木入日子はや               美麻紀伊理毘古波夜
己(おの)が緒(を)を 盗み殺(し)せむと  意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登
後(しり)つ戸よ い行き違(たが)ひ     斯理都斗用 伊由岐多賀比
前(まへ)つ戸よ い行き違ひ         麻幣都斗用 伊由岐多賀比
窺(うかが)はく 知らにと           宇迦迦波久 斯良爾登
御真木入日子はや               美麻紀伊理毘古波夜
(記歌謡・23)

ミマキイリヒコの命(《緒》=長くつづくものの意から)を タケハニヤスノミコが狙っているという童謡(わざうた)である。或る少女が歌の中味も知らず歌っていたという。のち いくさになり 決着するという経過をたどった。
《己が緒》は いくら何でも 属格の用法で《自らの命》ということであろう。

  • 太刀(たち)が緒(記歌謡・2)
  • 染木が汁(5)
  • ふはやが下(6)
  • 熊白檮が葉(32)
  • 吾家(わぎへ←わがいへ)(33)

などなどは 連体格の《体言+ガ+体言》の基本用法である。
ただ 上のミマキイリヒコの歌では まず初めに《御真木入日子‐ハ‐ヤ》と第一主題(Aハ)を言い出したあと やはり《己‐ガ》という関係第二主題(Bガ)が しっかりと表わされた形を取っていると思われる。言いかえると 《A(御真木入日子)‐ハ B(己)‐ガ 己が緒を・・・》とつづくものと考えられる。
《殺(し)せむ》は 《死なせよう=殺そう》。《盗み》は 《盗んで》=詰まりは 論述条件詞(副詞)のごとく 《こっそりと》。つまり 《表門より裏門より 人びとの行き交う中に紛れて》=《後つ戸よ い行き違ひ 前つ戸よ い行き違ひ》だと思われる。《窺はく》は 例のク語法で 曰くや思わくと同じように 《窺うこと》である。《知らに》のニは 否定法の補充用言(助動詞)ヌの概念法活用(連用形)だと言われる。《知らずに云々》と途中で切った言い方である。
従って 大枠での《〔人びと(A)‐ハ 人びと(B)‐ガ〕 〈御真木入日子はや・・・知らに〉と〔言う(C)〕》という部分を除けば その噂の内容の部分は 次のように分析される。

Aハ 御真木入日子‐ハ
Bガ 〔己‐ガ〕
Tヲ 窺はく〔‐ヲ〕
知らに

そして 《Tヲ|窺はく〔‐ヲ〕》に 一文がつらなっている。

Aハ 〔或る人(タケハニヤス)-ハ〕
Bガ 〔その或る人‐ガ〕
Tヲ 〔イリヒコにとっての〕己が緒‐ヲ
C1 盗み殺せむと
C2 窺はく

《御真木入日子(A)‐ハ‐ヤ》という第一中心主題を 初めに二度繰り返し 最後にも一度締めくくる形で 事態の緊急であることを示そうとしている。
それぞれの文において 《Tヲ》にあたる《窺はく〔‐ヲ〕》および《己が緒‐ヲ》は 第三主題のことである。論述主題Cが 最終主題であり この論述Cと 第一主題A及び関係主題Bとの間に 自由に 別様の主題を 表現することが出来る。対格(ヲ格)と与格(ニ格)のまとめて賓格が 主なものである。ほかに ノ格が属格 ト格が引用格であり ヨ(ヨリ)格は 起点格・経由格である。‐ハ‐ヤのヤは 呼びかけ法・確認法・実定法などにかかわり ここでは 主題についているので 主題条件詞と考える。

振熊(ふるくま)が痛手負はずは・・・

ここまででは ガ格の潜勢力のようなあり方を推し測って検討した。まだ これまでの例文では ガ格をめぐって 名の交換 人格の取り替えが 見られたということではない。次に そのような疑いが持たれる歌を取り上げよう。
東征して来た神武イハレビコに トミのナガスネビコが立ちはだかったように やはり筑紫からのぼって来た応神ホムダワケの前には 腹違いの兄弟 カゴサカのミコ オシクマのミコが戦いを挑んだ。果たして オシクマノミコは追い詰められ 琵琶湖に来た。

ここにその忍熊王と〔そのいくさのきみ〕伊佐比宿禰と 共に追ひ迫めらえて 船に乗りて海に浮かびて歌ひけらく

いざ吾君(あぎ)              伊奢阿芸
振熊が 痛手負はずは          布流玖麻賀 伊多弖淤波受波
鳰鳥(にほどり)の              邇本杼理能 
淡海の湖(うみ)に 潜(かづ)きせなわ 阿布美能宇美邇 迦豆岐勢那和
(記歌謡・39)

とうたひて すなはち海に入りて共に死にき。
古事記 (ワイド版 岩波文庫) 仲哀天皇の条)

オシクマのミコが 自らに仕える将軍イサヒノスクネを 親しんで《あぎ(吾君)》と呼び 最後の言葉をかけている。《さあ きみよ フルクマ(オシクマらにとって敵方の将)の手痛い攻撃を身に受けずに カイツブリ(鳰鳥)のように 水に潜って死のう》。

  • 《死のう》と付け加えるのは 意訳であって 元の歌は 単に 《潜ろう》と言うのみではある。
  • 中西進氏によると 

・・・むしろ《振熊が痛手負はずは》という句をかくせば《さあみんな 近江のうみに潜って遊ぼう》という遊びの歌 あるいは息長族の漁撈の集団歌として立派に通る・・・。
それが建振熊の話に結びついた時 《振熊が 痛手負はずは》がくみ入れられることとなった。
古事記をよむ (3) p.211)

《鳰鳥の》のノ格は 《鳰鳥の(属格)淡海の湖》とつながるのではなく 比況格と言われる。《の如く 潜きせなわ》とつづく。そのナは 現代語でも用いられるナ・ナア ネ・ネエ ノ・ノオの念押し法だと思われる。念を押すことで 話者は主観的に要請している。希望・誂え・決意・勧誘の法判断(気持ち)を表わすと説かれる。《今助けに来ね》(前掲・記歌謡・15)のネに同じであるらしい。また そのワは 感情を表わす条件詞だと考えられる。
《痛手負はずは》のハは ハ格であるが 第一中心主題格から派生して 副次的に他の主題を取り立てる活用格だと捉えられる。もしくは 必ずしも体言主題として提示されていない論述部分についても これを副次主題として取り立てる役割を果たす。むろん現代語にも用いられているそれである。
けれども それでは この歌の主題はどのように提示されていると考えるべきなのか。 
第一中心主題Aは 《いざ かくなる上‐ハ / そのわれわれ‐ハ / その今‐ハ》だと思われる。関係第二主題Bは 論述Cが《潜きせ‐ナ‐ワ》なのだから その主格が必要であり その主格をなす主題だと思われる。《われわれ‐ガ》もしくは 特に皇子のほうの自分を押し出して《われ‐ガ》ないし《オシクマ‐ガ》だと見られる。次のようになる。

Aハ いざ〔かくなる上のわれわれ‐ハ〕
Bガ 〔オシクマ‐ガ〕
潜きせ‐ナ‐ワ。

《C|潜きせ‐ナ‐ワ》を条件づける《フルクマが痛手負はずは 鳰鳥の 淡海の湖に》の部分は省略した。
また別様に 《痛手負はず‐ハ》を仮りに第一主題だと見なすならば どうなるであろうか。副次主題ではなく 中心主題だという見方をしたときである。
《いざ吾君》は 呼びかけとして 基本の主題からはずれていく。《敵のフルクマの攻撃による痛手を負わずに‐ということについては》が Aハの中心主題だと見なした場合である。関係第二主題としては 《鳰鳥》が思い浮かんだのである。《鳰鳥‐ガ》と言いかけて 《鳰鳥が水に潜るごとくに》という内容を確定させた。それが 《鳰鳥‐ノ》である。《淡海の湖に潜きせ‐ナ‐ワ》という論述Cがつづく。

Aハ フルクマが痛手負はず‐ハ
Bガ 鳰鳥‐ノ
淡海の湖に潜きせ‐ナ‐ワ

先の分析例と合わせて ふた通りが可能であると考えられる。
ここで 込み入っていることは 潜在的な表現句の《オシクマ‐ガ》と実際に表現されている《フルクマ‐ガ》とが 妙に似ていることである。結論として言えば これは 決して 名の取り替えが実際に行なわれているということではない。ただ そこに錯綜がありうるというのみなのだが その可能性が捉えられることが いまの問題点だとも考える。

内の朝臣が・・・痛手負はずは

この歌は 日本書紀では 次のように歌われている。

いざ吾君 イサチスクネ      伊装阿芸 伊佐智須区禰
たまきはる 内の朝臣(あそ)が  多摩枳波屢 于知能阿曽餓
頭椎(くぶつち)の 痛手負はずは 勾夫菟智能 伊多氐於破孺破
鳰鳥の 潜きせな          珥倍廼利能 介豆岐斎奈
(紀歌謡・29)

《イサチスクネ(−智− / 五十(い)狭(さ)茅(ち)宿禰)》と書かれている。オシクマ軍の将だが おそらく 《イサヒのウスクネ》のことで 同じ人物だと思われる。だとすると 今度は その後の《内の朝臣》が気になる。日本書紀では これも はっきりしている。和珥臣(わにのおみ)の祖・武振熊(たけふるくま)》のほかに その上に 例の長寿の人《武内宿禰(たけしウチのスクネ)》が将軍である。《内の朝臣》のことである。

[超文条件=呼格]吾君ヨ イサヒの内の宿禰
Aハ いざ〔かくなる上‐ハ / われわれ‐ハ〕
Bガ 〔われわれ‐ガ / オシクマ‐ガ〕
[論述条件]内の朝臣が頭椎の痛手負はずは
[論述条件]鳰鳥の
潜きせ‐ナ

つまり 名の取り替えではなく 名の錯綜の実態は こうである。
《いざ吾君 〔かくなる上‐ハ〕〔オシクマ(=吾)‐ガ〕相手のフルクマが(=の)痛手負はずは・・・》という続き具合いだったことが 一方にある。他方では 《いざ吾君 イサヒのスクネなる内の吾兄(あせ)〔よ〕〔かくなる上‐ハ われわれ‐ハ〕〔われわれ‐ガ / オシクマ‐ガ〕相手のタケシウチのスクネなる内の朝臣が(=の)痛手負はずは・・・》という表現だったものと思われるからである。
言いかえると むしろ既に なんらかの形で ウタ(思想)の先取りとしての取り替えばやの物語は 始められていたのではないかとすら推し測られる。
邪推としてではなく まともに論じると次のようになるかも知れない。

この〔古事記におけるオシクマのミコ〕物語が〔オシクマにとって敵方の〕建振熊(たけふるくま)を祖とするワニ氏の氏族伝承であること 《日本書紀》における同じ物語が蘇我氏によるその改作であることは かつて吉永登氏も論じられたことである*1が 《古事記》の物語がワニ氏の氏族伝承であるなら 忍熊王の辞世の歌を作ったのも  ワニ氏自身であったはずである。
とすればワニ氏の語部は ワニ氏としての自らの現実的な立場を離れて 忍熊王への共感からこうした物語を生み出したのであろうか。
どうもそうではないと思う。《振熊が痛手負はずは》という歌詞からすれば この歌の意図は建振熊の武威を語ることにあったと思われるが にもかかわらず 忍熊王の剛気を表現する結果になっているのである。
それは振熊の武威を表わすためには忍熊王も勇者として表現されなければならないという戦いの物語のメカニズムによるもので このようなメカニズムは 律令天皇制以前の氏族制的天皇制社会にその基盤があるであろう。〔そして自らの祖である建振熊の威力を 敵将の勇猛さを描くことによって表わすその方法は ワニ氏が八田若郎女に対する仁徳天皇の愛を語るために 嫉妬する磐之媛皇后の人物造形に努めているのと同じである。・・・〕
伝説として伝えられた説話の中の人物を人間として描くことは 右(上)のように氏族伝承において 自らの祖先ばかりでなく 対立関係にある人物についても見られるのである。・・・
(土橋寛:古事記の歌物語 上田正昭編《日本古代文化の探究》 1977 社会思想社

投身自殺を遂げた忍熊の王が勇者だというのは 《・・・琵琶湖に〈潜って〉屍が見つからぬようにし 自分たちに止めの大刀を浴びせようと構えているであろう建振熊に泡をふかせてやろうじゃないかという気持ちであり 自殺さえも一種の攻撃として歌われている》(土橋)という説明になる。
異母兄弟(応神ホムダワケと忍熊の王)の間で 忍熊に対しては振熊 その吾兄(あせ)のイサヒの宿禰に対してはタケシウチの宿禰を配するという構成からして わたしには 名の交換でないとすれば 模倣欲望の問題*2が嗅ぎ取られてしまう。どうも悪いくせなのかも知れない。 
ちなみに 言われるように 政治的な圧力があって 歌や地の文の内容に有利なように改作が行なわれたとするなら 和邇(わに)氏はその祖の建振熊を顕揚したであろうし また日本書紀では蘇我氏がその祖の武内宿禰を持ち上げた。そしてこれを 古事記の精神は 《削偽定実》しないという行き方を取ったのである。
(つづく)

*1:吉永登:振熊から内の宿禰へ 万葉―その異伝発生をめぐって (研究叢書 (33)) 1986 和泉書院

*2:模倣欲望今村仁司氏の《第三項排除の理論》に 承認欲望などとならんで 出てくる。歴史知性以前の心性の問題でもある。[えんけいりぢおん](→2004-11-28 - caguirofie041128)の第二十一章から二十三章までに詳しい。