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哲学いろいろ

第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第十九章 継体ヲホド天皇は 雄略ワカタケと若日下部王(后)との隠された子である

――くにびとらは あなたのもとに王の敵の心で倒れんとす――
いわゆる神武イハレビコ天皇の条りを 応神ホムダワケの大和への到来として読むならば かれは 九州のヒムカ(日向)から河内のヒノモト(日下。つまり本来は草香)にやって来たということになる。
ヒノモトから ヒムカにやって行き そのアマガケル日子のマツリゴトによって感化しようというのではない。その逆である。生命の木(義の太陽)に背向いて しかるがゆえに 日下にやって来た この含みがここには感じられるという読みが一笑に付され得ないほどの問題が ワケ・タラシ政権には見え隠れするのではないか。
というのは――例によって いつも空想の結論を先に述べるのであるが―― 実際の草香(そのタテツ=港)は 海外から 知識や技術がもたらされる《ヒノモト(日本)》と捉えられていたのではないかと想像されるからであり おそらく この《ヒノモト(日本)の草香》を 《ヒノモトの /もしくは ヒのシタの》と解し直して 《ヒ(アマガケル第一日子)のモトの草香》と定め 《日下》と書いて《クサカ》と読むというふうに 事は推移していったのではないだろうか。

  • これを考えついたあと 西宮一民氏に すでにこの説があったことを知った。
  • 西宮説を採り入れたというかたちであると認めざるを得ない。わたしのは 思いつきであるから。
《日の下の草香》

さて 《日の本の草香》などという――あるいは これに類した――慣用句が この草香の地について言われていたであろうことは すでに説かれてもいる。その中で クサカは 一義的に 《日下》であったかどうかが 問題の一つの焦点である。
今日にも伝えられている《飛ぶ鳥の明日香》《春日(はるひ)の〔かすむ=〕カスガ》《隠(こも)り処(く)〔隠口〕――長谷(ながたに)――の初瀬》などが それによって それぞれ《飛鳥=アスカ》《春日=カスガ》《長谷=ハ〔ツ〕セ》という表記の慣用を持ったことは知られているとおりである。あるいは 《山処(やまと)》が 漢字による表記によってその社会の内実(人間関係)を意味表示させようとしてのように 《養徳 / 大和》――または中国人は《邪馬臺》と書いた――などという表記の慣用を持ったこともここに挙げられる。

  • 倭人の倭とは 小人の意味である。相対的な問題だから 間違っていないか(!?)。だが 邪馬台国の邪は ひどい。
  • 養徳:ヤントク→ヤマトと読ませるのは 大和がまったくそうであるように 意訳しようという含みが色濃く感じられる。
  • 徳を養うというのである。が これを それほど 日子の能力の突出と取る必要もないであろう。

養徳は 普及せず 大和もしくは日本が用いられたのだが これらの用例と はじめに挙げた飛鳥=アスカなどの例とは 事情が違っているようである。ヤマト以外はみな ことの謂われがあって説明づけられるというかたちをとっている。中身は必ずしも明らかではなくなったが 伝承があったことを窺わせる情況がある。
けれども 《日の下の草香》については 他の長谷=ハセなどと違って 実際まったくその伝承が明らかではないことに 特異性がある。
これはむしろ――気が短くはなく長いけれど遅くもなく早いものだから――大胆に言ってしまえば 歴史的に記録し 伝承してゆく必要がないと 少なくとも 根子市民たちの井戸端会議は 判断し そうした結果からではないだろうか。
大和は つまり和の本能が 罪の共同自治への一般意志としてのように たとえ呪術的な心性における歴史知性の段階においても 生命の木に《ヨリ》ついてでも 縄文人たちが 自己を《カムロキ・カムロミ》として 認識していったその歴史社会に現われていると言わなければならないように その遠い昔からの伝統を受け継いでいるからだと考えられる。《和を以って貴しと為す》と言われなかったならば 和を乱すことを知らなかったと言いたいその反面で 《和》じたいは・つまり言いかえるとこれを理性的に了解する《善悪の木=日子の能力》じたいは 悪でも罪でもないのだから したがって 《大和=やまと》という慣用表記は いまにまで残ったものと思われる。
《日下=クサカ》は その表面的な慣用じたいが残り つまり普及している と同時に その由緒は 伝承されずに廃れてしまった。
ところが まず価値自由的な一般論としても 《飛鳥 / 春日 / 長谷》そして《日下》を それぞれ アスカ / カスガ / ハセそしてクサカと読ませるのは やはりその順序が転倒しているのではないか。転倒しているという前提条件を忘れなければ このような慣用表記は 一般に素朴に おもしろいのである。しかし この順序の取り違えには 明らかに これまで論じてきたように 歴史知性たる人間の自己認識におけるあの三つの木の順序にかんする倒錯が 基本的な要因として はたらいたのではないか。
単純な一例をあげるなら 第二人称の《アナ(己=おの)ムチ(貴)》――これは 大国主命と同一視される《オホアナムチ》に見られる――が 《ナムヂ→ナンヂ(汝)》となり 廃れてしまったこと あるいは別様の第二人称としての《おまへ(御前)》が 貶められた言葉としてしか使われなくなったこと そしてこのときたとえば《アナタ(つまり カナタ(彼方)》という元は第三者称が それら二例の言葉に取って代わり第二人称になったことが考えられる。
転倒・転換とは このような変化に見られるものと同じようであるとすれば 自然の流れのごとく感じられるかもわからないが いくつかの種類と性格の変化が入り混じっていると考えられる。
基本的には やはり自己認識の問題である。歴史知性のあり方である。モノの木と善悪の木(人間・その精神)と生命の木とをめぐる世界認識である。この三つの木をめぐって それらの間に順序の取り違えがあるなら 主体どうしの人間の位置関係に 倒錯が起きる可能性がある。
遠来の客に対して《あなた》と言うことは ありえよう。彼方からの客人である。しかし 日常生活の互いの呼称において 用いられるなら 第三称と第二称とが 倒錯されている。しかも そのことが 遠慮ないし敬意をあらわすことになりえた。

  • ヨーロッパの言葉に例をとるなら たとえば独語 sie(かのじょは)→Sie(あなたは)。

あたまの《飛ぶ鳥》と終わりの《明日香》とが 明らかに倒錯されても 問題ではないと思われる。だとすれば あたまの《日の下》と終わりの《草香》とが 転倒していても 普通の事態だろうか。
おそらく この場合 ヒノモトが 《日の下》とそして《日の本》との二通りの用法が 現われた結果に問題があるのではないだろうか。どちらも それほど意味あいに違いはないだろうが 後者の日の本のほうが ヤマトに用いられ ゆくゆくは国名に当てられたのだから 道筋が 大きく二つに分かれてしまったと考えられる。

  • 草香のタテツは 埋め立てが行なわれていって 海外の文物が入ってくる港ではなくなったという事情も 影響しているのかも知れない。つまり 日の本でも日の下でもなくなった。第二十章=2005-07-11 - caguirofie050711の写真を参照。

だが 基本的に言って ここでは 明らかに 本体と影(つまり鏡に映った姿)とが 転倒しているのではないか。根子市民(本体)の中の《日子》が――これが《鏡》をとらえようとするわけだが だからそれとして客観的でもあるのだが しかし 客観は 悲しいかな 影でしかない この《日子》が―― もっぱら単独分立し 本体と逆になってしまった。あるいは イリ日子なる本体と これのもっぱらのアマガケルその形態(だから そこでは 日子の能力なる善悪の木が もはや至高のものとして 樹立される)とが 転倒してしまった。
この転倒を推進したのは 明らかに イリ日子から分かれた《ワケ》なる歴史知性であろうし あるいは 神聖にして侵すべからざる善悪の木としてこのワケの第一日子を擁立して支え 人びとはこの《日の下》に連帯(和)せよと説く宗教家・《タラシ(帯)》歴史知性であると考えざるを得ない。同じヒノモトという言葉だが 一定の地域(領土)全体に この神聖なる木のウタを敷き及ぼさずにはいないというときには その統一第一日子なるスメラ(或る意味で頂き)から 日の《下》という表記を選んだと考えざるを得ない。
人びとは 井戸端会議して これを 嫌ったのである。ヤマト=日本がのちに選ばれるようになった。

  • ヤマトにしても 一つの地方の名だったのだから クサカ=日下が 日本の国の全体の名に用いられても おかしくはなかった。シキシマ=敷嶋 アキツシマ=秋津嶋ほどにも 国全体を表わすようには 残らなかった。

すでに 応神ホムダワケの河内政権の発生から始まり ついに 雄略ワカタケの代のとき この全国制覇の大作戦を具体的に企画し 奥の手を使って あの継体ヲホド政権の誕生へと 奔走していったと見てきたわけだが この戦略のなかで いまのクサカ=日下が どのように かかわっているか あるいは かかわりはないかを 見ようとしている。
というのも 正体不明の歴史知性 これが 歴史知性であるなら あるからには――つまり いちどは あの《イリヒコ》歴史知性に立ったと考えられるからには―― その正体の片々をどこかに表わしているはずだとの見通しがある。
このような色眼鏡で見なければ われわれは 自己の同一にとどまりえないような情況 これが いま あると考えている。

  • 1990年代前半 こう考えていた。

悪(日子の能力をもっぱら分立させ かつ おそらく曲げて 用いること)に対して われわれは 子どものようでいればよいが ものの考え方においては 同時に 大人にならなければいけない。これは オホタタネコ原点(それは動態)である。
われわれは ことばや文字表記の問題で争うべきではないが またそのつもりもないが それらをとおして 歴史知性の構造的な成り立ち(ウタの構造)を明らかにしうるなら その成り立ちを・そしてそれを推進しているところの起源をも そのウタなりに 推察し明らかにしていていきたいと思う。
じっさいわれわれが 継体ヲホドは 雄略ワカタケと若日下部王との子ではないかと言ったとき 《日下》の問題とともに 後者の二人のなれそめに関する次の古事記のくだりが 注意されるべきだと思われたからである。あらかじめ言っておくとすると ここでは 雄略ワカタケのきさき・ワカクサカべのミコを擁護しようとおもう。
そこで古事記の記事というのは 雄略オホハツセワカタケが ワカクサカべノミコに求婚するために その家を訪れたというときのくだりである。このとき ワカクサカベは《〔オホハツセワカタケが〕日に背(そむ)きて(=日を背にして) いらっしゃったので それは畏れ多いことだから 求婚の申し出をお受けしましょう》と答えているところ これが いまの問題の焦点となると考えられる。若日下部王が それだけで 結婚を受諾したのでないことは 追って 触れたいとおもうのだが まず念のためにも ストーリの全体を掲げ そのあとで検討してみよう。

初め大后(ワカクサカベのオホキミ)が 日下(くさか)にお住まいになっていたとき その河内へは 日下の直越え(ただごえ)の道をとおって ワカタケ大王はお行きになった。
途中 山の上に登ったとき 国の内を望まれると 堅魚木(かつをぎ)を屋根にきづき上げた家が見えた。大王は 誰の家なのかと問われるので 《シキ(志畿)のオホアガタヌシ(大県主)の家です》と答え申した。大王は 《奴(やつこ)や おのが家をスメラミコトの御舎(みあらか)に似せて造れり》とおっしゃって ただちに その家を焼き払うよう人を遣わされた。
これを見たオホアガタヌシは懼(お)ぢ畏(かしこ)まって ひれ伏してこう申し上げた。《奴にあれば 奴ながらに覚(さと)らず 過ちをおかしたことは 大変おそれ多いことでした。稽首(のみ)申して許しをお願いするしるしに この御幣(みまひ)の物を献ります。》白い犬に布を掛け鈴をつけ その親族(うがら)の一人で名をコシハキ(腰佩)という者にその犬の縄を取らせて 献上した。オホアガタヌシは こうして 火をつけられずに済んだのである。
そこで大王は ワカクサカべノミコのもとに行かれ この犬を次のように言ってさし上げたまうた。《この物は きょう来る途中で手にした奇(めづら)しい物である。これを妻問いのしるしに》と。ここにワカクサカべノミコは 大王にお答え申し上げた。《日に背きて 幸行(い)でましし事 いと恐(かしこ)し。故(かれ) 己れ直(ただ)に参ゐのぼりて仕へ奉らむ》。
そこで大王は宮に帰りたまうことになったが その山の坂の上に来て立ち止まって こう歌いたまうた。

クサカべ(日下部)の 此方(こち)の山と
畳薦(たたみごも) ヘグリ(平群)の山の
此方此方(こちごち)の 山の峡(かひ)に
立ち栄ゆる 葉広熊白檮(はびろくまかし)
本(もと)には いくみ竹 生(お)ひ
末方(すゑへ)には たしみ竹生ひ
いくみ竹 いくみは寝ず
たしみ竹 たしには率(ゐ)寝ず
後も くみ寝む その思ひ妻 あはれ

そこで この歌を持たせて 使いを返したまうた。
古事記―付現代語訳・語句索引・歌謡各句索引 (角川ソフィア文庫 (SP1)) 雄略天皇の段 私訳)

いくらか推理小説めいて来て 恐縮であるが 神武カムヤマトイハレビコ――いま その記事のいくつかを 応神ホムダワケノミコトにあてている――が日向から瀬戸内海をとおって河内にやって来たとき まず 日下の津に上陸したのである。ところが ここで トミ(その南はヘグリ=平群)のナガスネビコが軍を興こして 待ち受けていた。神武イハレビコの兄弟が 痛手を負ってしまった。そこで

《吾(あ)は 日の神の御子として 日に向かひて戦ふこと良からず。
故 賎しき奴が痛手を負ひぬ。
今者(いま)より行き廻(めぐ)りて 背(そびら)に日を負ひて撃(う)たむ》
と 期(ちぎ)りたまひ〔き〕。
古事記―付現代語訳・語句索引・歌謡各句索引 (角川ソフィア文庫 (SP1)) 神武天皇の段)

武蔵と小次郎の話ではないが 日向と日下とは アマガケル日子のウタの構造にとって その歴史知性としても 実践としても 微妙に関連しているようなのである。単なる偶然あるいは必然とは 思えぬようである。
この《背に日を負ふ(負ひて撃たむ)》ことや 《日に背きて幸行でます》というのは いったい どういうことか。
いま はじめに結論を述べるというわれわれの常をたがえて もう少し状況を把握し その証拠を集めるとしてみよう。二点ある。
すでに触れたように 若日下部王は その祖が 日向の出身である。この第一点も いくらか話が込み入っており 次のとおりである。
応神ホムダワケの時代に 話は さかのぼる。すなわち かれホムダワケがはじめ 《日向の国のモロガタのキミ(諸県君)の女(むすめ) 名はカミナガヒメ(髪長比売)を その顔容(かたち)美麗(うるは)しと聞いて 喚(め)し上げようとなされた》。ここでは 応神ホムダワケの子とされる仁徳オホサザキが ナニハ(難波)の津にやって来たかのじょカミナガヒメを見初めて あのタケシウチノスクネに頼み 父である応神の代わりに自分が妻に迎えたいと申し出させた。事は そのとおりになった。
仁徳オホサザキと この日向のカミナガヒメとの間に出来た子が ナガヒヒメノミコトとも呼ばれるハタビノイラツメ すなわち我らが若日下部のヒメミコである。その兄は オホクサカノミコ(大日下王)とも呼ばれるハタビノオホイラツコ。
ここから 話は 状況証拠の第二点に移る。それは 雄略ワカタケの求婚の申し出の前に 因縁話があることである。
安康アナホノミコが 同母弟(いろと)である雄略ワカタケのために まず この若日下部のみこを妻に迎えてやろうとした経緯が介在している。ネノオミ(根臣)と呼ばれる者を 安康アナホは 大日下王(つまりワカクサカべノミコの兄である)のもとへ使いとしてやったのである。兄・大日下王は これを快く承諾した。ただ ここで 使いのネノオミは これを礼儀にかなっていないと見たのであろう。そこで 大日下王は これを見て取って さらに敬意を表すために礼物(ゐやじろ)として 押木(おしき)の玉縵(たまかづら)を贈った。しかしここで 事がややこしくなるのは ネノオミがこれでもおさまらず 安康アナホのもとに帰って報告をして言うには こうであった。
《大日下王は 勅命(おほみこと)を受けずに 〈己(おの)が妹や 等し族(ひとしうから)の下席(したむしろ)にならむ〉と言って 横刀(たち)の柄(つか)を取り 怒りをあらわにした》と。安康アナホは これを聞いてこれによって 大日下王を打ち殺し その妻を召し上げてしまった。安康アナホはその後 この召し上げた大日下王の妻の子に殺されてしまうのであるが この経過ののち 雄略ワカタケは 第一日子の座についたとき あらたに日下に求婚に行ったのである。
これらの二点を言っても 必ずしも情況証拠にならず また 《日向》《日下》であるとか 《背に日を負う》《日に背いていでます》とかの意義を明らかにすることは出来ないように思われる。何が――ウタの構造として――問題であるだろうか。何もそこにはなく ただ無用の推理であるだろうか。
ワカクサカベノミコが 《オホハツセワカタケは 日に背いて来た》と言ったのは かのじょの兄である大日下王を 雄略の兄である安康アナホが殺したからであるだろうか。

  • ちなみにかれ雄略が のちに《大悪天皇》と呼ばれるに到ったのである。また 葛城の山でヒトコトヌシの神に出会って 《恐(かしこ)し 我がオホカミ 現(うつ)しおみあらむとは(又は 現し臣にあれば)覚らざりき》と言って 拝(をろが)んだ。

つまり 安康アナホはその殺してしまった大日下王の妻を取り上げて皇后としたが その大日下王の子・マヨワノミコに殺される目に会い これに対して――まだ言い及んでいなかったことだが――雄略ワカタケはその子マヨワノミコとそしてかれをかくまったツブラノオミとを攻めて死なしめた。このことが 若日下部のミコにとって むしろ皮肉られて 言われたのであろうか。あるいは じっさい 雄略ワカタケは マヨワノミコと共に死なしめたツブラノオミのむすめであるカラヒメを娶ったのであるが この出来事が糾弾されているのであろうか。
わたしには 《日の本の草香》を 《日の下の草香》そしてさらに《日下=クサカ》としたウタの構造が 問われているように思われる。クサカで トミのナガスネビコに敗退したとき 神武カムヤマトイハレビコが 《期(ちぎ)っ》たそのウタの構造が 根っこになっているように思われる。あの快く求婚の申し出を兄として承諾した大日下王に対して 《疑いの知性》によってかれを謗り 中傷して安康アナホに偽りの報告をしたネノオミが 問題になっているのでないか。と指摘することに 若日下部のミコのこころは――いま大きく広げて考えるなら―― あったのではないか。
《根の臣》とはむしろ 安康アナホその人ではなかったか。《疑いの歴史知性》において。それは 雄略ワカタケについても 当然というように 家を焼き払われかねなかったあのシキのオホアガタヌシとの関係過程に・その問答に現われていた。
《根子(市民)》に対して ウタの構造じょう 《根の臣》となって そのさらに低き地を這ったのが あなたがたではないか。あの屋根に堅魚木(そのようなデザインの飾りである)を立てていた大県主を怒った雄略天皇 あなたがネノオミではないか。これが 《日に背きていでます》アマガケル日子の疑いの歴史知性 偽りのオホタタネコ原点ではないのかと。

日下部の 此方の山と 畳薦 平群の山の 此方此方の 山の峡に 立ち栄ゆる 葉広熊白檮(かし)

  • このカシハラ・デモクラシ(それは オホタタネコ原点の前身)の

本(もと)には いくみ竹 生ひ 末方には たしみ竹生ひ

  • というように タカマノハラに譲歩して アマテラスオホミカミなるアマガケル日子のデモクラシを支えているのに 日に背きて出かけられるのなら

いくみ竹 いくみは寝ず たしみ竹 たしには率寝ず 後も くみ寝む 
その思ひ《夫(づま)》 あはれ

と若日下部のミコが――ワカクサカベのミコが 雄略ワカタケの思いの中で その口を借りて――うたったのだ。申し出に対して承諾を得て 引きかえす途中 山の坂の上に来て このミコの心を 雄略ワカタケは こうして悟ったのだ。ワカクサカべのミコは お心ならばお仕えしますとうたって この《大悪天皇》を愛した。
のち 宮に呼ばれて仕え 二人のあいだに《子無かりき》と書いてあるけれども この雄略大王の子を生み これが ヲホドノミコトとして近江で密かに育てられ この河内政権のオミたちによって ヲホド継体なる第一日子としてその座へ擁立されていったのではないかと。
雄略ワカタケの祖父である応神ホムダワケが もし日向から来たなら 若日下部のミコも母方は 同じ日向の人であったから。応神ホムダワケが日向の人でないとしたなら――ウタの構造として《日向》の人であったと ここで強弁するにせよ・しないにせよ―― 日向の田舎者とでも思っていたであろう若日下部のミコを みづからのアマガケル日子の全国制覇大作戦の手段に使ったのである。運良く(?)兄オホクサカベノミコら一族はすでに死んでいた。この大日下部王は 雄略ワカタケの兄である安康アナホに対して――ネノオミの口がそう言い得たというほどに――《等し族(うから)》であったと考えられるからである。

  • 出身が同じゆえでなくとも オホタタネコ思想は 皆が互いに《等し族》であることを 宣言したのである。

若日下部のミコはそのワカタケの欠陥を憎み存在を愛し 悪に譲歩して仕えるというほどに ワカタケに嫁いだ。田舎者だと思われてそれが憎かったら そうはしなかったであろう。
《飛ぶ鳥の明日香》を《飛鳥=アスカ》とした人びとのウタの構造 すなわち 本体(オホタタネコ)を自己認識して生きるのではなく その鏡に映った姿(影)によって――いわゆる腹芸・以心伝心・察し会いがこれによって生じる。《飛ぶ鳥》と言ったときに《明日香》を想起するといった連想ゲームである その影によって―― マツリゴトをつかさどるという。そうなると どうしても軟弱で 弱きゆえ奴隷の霊を受けたごとく(《日本の草香》を 《日下=クサカ》として 連想ゲームさせなけらばならず) ネノオミとなり かつ アマガケル日の御子とならずにはおかないと言ってのように 疑いの知性によって善悪の木を押したて 昼(善)の自己規制と夜(悪)の甘えの中に つき進みつつ生きるウタの構造 これが 古代史の総括たる古事記の歴史知性によって 糾弾されていると見なければなるまい。
《飛鳥》《春日》と書いて アスカ・カスガと読み読ませる このような文字表記の慣例じたいに 問題はあるまい。ただ これが 疑いの歴史知性によっては その本体――《明日香》また《草香》――をすべてその影によって言い表わしえてのように捉えるというとき もはや自分は 自分の本体・その人格を 脱ぎ捨ててよいと思い込みはじめる。《日に背いて出かける》結果 自分の心のウタを だれか一人 相手のこころをとおしてしか つかまえることが出来ないようになる。
このワカ日下ベノミコをとおして 自分の本体の《影》をつくった つまり かのじょとの間の子を逆に自分の《本体》として しかも密かに のちに栄光の座につけるべく 育てはじめる。《雄略ワカタケ= 継体ヲホド》つまり 《雄略=をほど》《継体=わかたけ》となる。

  • 応神ホムダワケは もともと三輪政権を搦め手から攻めるとき 気比のオホカミと名を取り替えることから 始めたのである。

そういうウタの構造つまり 《雄略(ををしき はかりごと)》だというのだと思われる。正体不明(人格をすでに脱ぎ捨てている。極端には 経済活動・政治支配のみに走る)ゆえ その《ウタの構造》の展開は 相手の心の中に侵入しうることによって 《融通無碍》である。これが 正体不明な歴史知性の正体である。本体は停滞してしまった つまり死んでしまった つまりこの死が死なないようになってしまった。われわれのたたかいは ここにある。
若日下部のミコは その兄が殺されたことを根に持ちつづけ オホタタネコの歴史知性へ遂に開かれなかったと言うべきであろうか。誰が愚かにもまた厚かましくも そう言うであろうか。
また 古事記作者の歴史知性に対して それは 史実を反映しておらず 偽りの歴史書だと一面的に見て――この一面(それは 真実だが)を全面として―― 自己のその学問的歴史知性をのみ誇り 逆アマガケリ(差別に対して 逆差別)するであろうか。
《タラシ》の善悪の木による連帯(和)は この《雄略ヲホド=継体ワカタケ》なる本体と影とを錯視した第一日子を 布教したのである。そのしるしは 《永遠の現在= オキナガ》だと自称した。
イリ歴史知性とワケ・タラシのそれ――これらは この世で互いに錯綜し入り組む――がくりひろげるウタの構造(資本関係の過程) これについて ほぼ 《人間の誕生》のテーマのもとに あとづけることが出来たかと思う。次章でまとめとし 第二部では ここに誕生した人間の実践の側面に重点を移して 古事記の史観をとらえていこうと考える。

  • 継体ヲホドが雄略ワカタケとその后ワカクサカベのミコとの子であるという仮説の打ち出しが ここでの目的でないことは すでに触れている。
  • 別様の解釈が さまざまに行なわれて なおかつ それらが 古事記の言おうとしたところを 一般にウタの構造として 明かしているなら そして やはりわれわれと同じくオホタタネコ原点を摘出していたとするなら 幸いはその上がない。

 
(つづく→2005-07-11 - caguirofie050711)