caguirofie

哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第二十一章 歴史の誕生

木に《モノとしての木》と《生命の木》とがあり いわば人が 禁断の木の実を採って食べたあと 生命の木のもとで生命の木のみちびくままに生きるモノの木々の楽園を追われた。

  1. この禁断の木が 《善悪を知る木》であり これは 人間の《日子》の能力 すなわち精神・理性・知性と関係してくるから 考えてみると ジレンマに陥るごとくで 厄介であるが さらによく考えると おそらく一人残らず誰もが まずは この楽園追放のあとの状態で 楽園追放を知ったという情況にあるのだと思われる。
  2. 言いかえると そのようにして上の冒頭の認識を持つことになるが このとき しかも生命の木は目に見えないのだから この認識は きわめて時空間の長く広い範囲でわれわれが観想することによって得られる知恵のごとくの歴史現実である。
  3. はじめわれわれが生命の木に触れられていたのは 根子(身体)としても日子(精神)としても そうなのだが おそらくその触れられていた楽園を追われたあと初めて この木と同じようにモノから成るわれわれの存在が 根子と日子とにそれとして分かれていて このことを日子の能力をつうじて知ったということだと思われる。
  4. とはいうものの 楽園において 生命の木が あたかも資本の推進力としてのように 木々にあらゆる実を成らせていて これを採ってわれわれが食べていたとき 定められた禁断の木の実のことを告げられ知っていたのは 日子の能力であると考えられる。
  5. 日子の能力として 《知恵の木》はもともと知恵の木であり それとして どこまでも知恵の木である。
  6. また 楽園追放のあと 善悪の判断を 共存=社会生活=罪の共同自治のためには おこなっていかなければならなくなったというとき 禁断の木の実ということに関しての判断は 楽園にいたときにも持っていたと言わざるを得ない。善悪を知る木から採って食べる前にも それとして 善悪を知っていたとも考えられる。
  7. それでは 禁じられたりんごを食べたそのどこが いけなかったのか。なにも 悪いところは なかったのか。
  8. 一般的に言って 楽園追放の内実は 日子の能力が 善悪を知る木つまり自分自身からも その種の実を成らせるということが生じたというのではないか。
  9. 木を育てる 木を植える 木を道具に使う。みづからの植え育て成らせた木からその実を採って食べることが 始まった。
    • そこから わたくし・時間・したがって生と死が生じたと言おうとしている。
  10. 天使でもなければ獣でもない中間的な存在であるわれわれは この日子の能力によって 生命の木をはるか遠くに眺め見て 根子(身体)-日子(精神)の連関なる主体的存在であると知った。自己還帰として オホタタネコ原点であった。
  11. その傍らで われわれは 同じ日子の能力に物を言わせて 中間の状態にとどまり得ず 天使の能力を欲して《努力》した結果 世界を得て その中心的な存在であると自認するようになった。
    • わたくしからは むさぼり・ぬすみ・そしてこれら貪も盗もなかったと言い張ろうとするためのように ころしが生じたと言おうとしている。
    • これら善と悪との両方を共同自治するための努力も 怠りなかった。そして さらに工夫をこらすように促されている。(同じ一つの神を信じると言いながら けんかし合うのだから。) 

楽園というのは 自然のめぐみが豊富であったかどうかを措くとしても 言ってみれば単純に われわれのものごころのつく以前の状態であったのかも知れない。もっとも この状態で人はむしろ成人しているのであって 幼児そのものというわけではない。

  • ちなみに このとき いわゆる原始共産制の社会あるいはその時代というものを 想定しうるであろうか。だが 時間・わたくしが潜在しているような原初的な歴史知性とその共同性について なにを想定するというべきか。
  • 善悪を知る木(人間)たちの善悪のおこないを共同自治するその方式について 優れてよく日子の能力を発揮するといわれる専従の日子たちに任せろ いや 任せられない というかたちでの体制側と反体制側との議論に いまの原始共産制の話は 持ち出せないと考えられる。
  • もし 原始共産社会の人びとに潜在していた歴史知性が いまの楽園追放後の社会にも生きているという大前提を認めるならば 話はかみ合うと思われる。ただ そのときには 原始共産制という想定を持ち出してくる意味が あまりないのではないか。
  • それは 将来の理想社会を想定し持ち出す場合にも 同じようであると考えられる。

だが なにものにもヨリつく原始心性から この世界に主体としてイリ(入)する歴史知性は その自己到来について オホタタネコ原点を宣言するに際して 人(オホタタ根子)は オホモノヌシの神の子であるとうわさし合ったのである。これについて考えてみなければならない。
たとえば この世の中で 人やその業績をたたえるとき 《金の模像を銀の飾りをつけてつくろう》とする。これは この世という鏡に映った姿が 本体であるとは限らないことを――言いかえると この鏡そのものを見るのではなく 鏡をとおして見ることを―― 戒めのごとく おしえている。楽園を追われたあとでは いっそうきびしく注意しなければならないかも知れない。ところが この模像をつくるにしても すでに新しい歴史知性に立った(自己還帰した)わたしが これをおこなうのである。
繰り返して話をつづけるなら われわれは この世で それは 謎を持った鏡であるだろうが しかも おのおの わたしが このなぞにおいて 生きるということにほかならない。さらにしかも われわれの古代市民たちは 人(オホタタネコ)は オホモノヌシなる神の子であると伝えた。すなわち 問題は あの楽園を追い払われ この世界にあって この失楽園のあとも なお 生命の木にみちびかれて生きる神の子であるとうわさし合ったという事態にある。これは 謎である。それは 鏡をとおして見るならば このうわさの内容を 人びとは その心根の内に 見出したと会議したものと考えられる。
いわば 国家の以前も 国家の時代も 国家の以後の段階でも その原点の歴史知性は 同じようであろうと信じたもののようである。
この理論を吟味してみなければならない。
おそらく その理論の含みとしては あの永遠の現在なるもっぱらの日子のアマガケリのウタ これは 存在しえず 無効であると言っているものと思われる。
裏返して言うならば もしわれわれオホタタネコが オホモノヌシの神の子でないとすれば いかに虚構で幻想であっても それとしての罪の共同自治のための方式として アマテラス永遠の現在宗教は 有効であり 世界に誇るべき社会理論であるということになる。もっとかんたんに述べるなら この世は この世こそ楽園であり 軽々しく言うわけではないが すべてを悟り 人はすべからく 飲めや歌えやの常世を実現させていかずばなるまい これである。われわれは アマテラスの徒として 世界にこの聖なる談合の社会とその平和を伝道していかなくてはならない このウタである。

善悪を知る木から採って食べた

一つの解釈として 禁じられた木の実というのは 特定の木ではなく 人の内的な生命の木の声 これが信じられていて これに反して 木の実をわたくしする・すなわち むさぼるという行為を言ったのではないだろうか。つまり 自然と一体の心性において共同体の中に生活していたというとき 人びとは いわば集団の声とそして生命の木とを 識別していたと思われる。なぜなら ここに わたくしの声が生じたのであるから。つまり 集団の声は 《わたくしたち》の声であって その限りで すでに わたくしは存在しないわけではないから。つまり わたくしたちの声と生命の木の声とを識別していたとするなら この識別するのは わたくしであるにほかならないから。
生命の木は わたくしの もしくは わたくしたちの むさぼりを禁じていた。もしくは 禁止という概念を持たないごとく 共同の心性のもとにあったかと思われる。生命の木などというものを持ち出すと 話がわからなくなる場合もあるようで 次のように言うことにしよう。わたくしは 存在していたが 身近な人びとのそれぞれわたくしと つながっていた。この共同性が 各々わたくしの突出を 自然の本性のままに 包み込んでいた。これが 生命の木の声に従っていたことだと思われる。別様に言えば 一定の集団の声が みづからの共同性の外に向かって そのわたくしたちの一塊として 他のわたくしたちに対して むさぼりを はたらくように囁いたかも知れない。
ある時 わたくしの声に従うなら きみは つまり わたくしは むしろ生命の木である神のようになるであろうとの考えが生じたというのは 共同性からの外出を言ったものであるかも知れない。いな もっと言うならば 依然として 共同性の人間関係にあって その共同性の中の一人であるとして わたくしが みづからを自覚しただけのことであったかも知れない。つまり 自己到来であり オホタタネコ原点でもある。
だが 共同性が あたかも慣性の法則によって 人びとの心と生活において なんらかの制約を伴なったひとつの慣習であり 不文律でありえたとすると どうなったであろうか。
わたくしの自立は 慣習違反であり 罪であるとなる。けれども ここには ふたつの側面がある。わたくしの自立について わたくし・もしくはわたくしたちの声と 生命の木の声とを混同し 前者がすべて後者と同じであると決めつけるのは 罪だと考えられる。と同時に わたくしたちの声の中で むしろ生命の木の声に従って わたくしが自立するのは 罪だとは考えられない。こうではないだろうか。
わたくしの自立には ふたつの側面がある。わたしの自己到来としての自立と わたしのむさぼりとしての自立と。したがって 集団の問題は ほんとうには 重要だとも考えられない。したがって 生命の木とは 決して罪ではない自己還帰として自立するわたくしの存在を支えるために われわれが持ちえたことばであるというに過ぎないかも知れない。
しかしながら 互いに譲り合う共同の心性を持ったヨリ(憑)の知性が このように自己到来して あたかも生命の木のもとの世界にイリ(入)する歴史知性を確立したあと あたかもこのイリヒコ歴史知性に倣おうとして 以前と同じようにヨリついていく知性が現われたかも知れない。人であるイリヒコ知性と同じようになろうとして その支え(推進力と言っていた)である生命の木の声をヨセルという新たなヨリ知性が生まれ出た。これを ワケ・タラシの歴史知性だと考えていた。
生命の木の声をヨセルというとき その声はあたかもわたくしのみなもとであるのだから タラシ歴史知性は その日子の能力をじゅうぶんに発揮して その声の光り輝く天使の能力をそれこそ貪欲に吸収しようとする。《むさぼるなかれ》とのみことのりを得てくる。《和を以って貴しと為す》べしと。したがって こちらの方面では 集団とその管理といった共同性の問題として――もっと露骨にいえば タラシ日子が 統一第一日子であるための社会経営の問題として―― 罪の共同自治が始まったものと考えられる。このウタの構造にもとづくならば 生命の木のもとに栄光の日子がおさめるのであるからには この現在は永遠であり この世は 常世の郷であることになる。むろんそのために 専門家の集団(官僚)が活躍するという寸法である。
社会の中で具体的にどうであるかといったウタの構造では 問題ははっきりしてくるであろうが いま一度はじめに戻って 木の実を食べたという出来事は 一般にまとめた言い方をすれば むさぼりを伴なったわたくしの自立であったと考えられる。罪ではない自己還帰の側面が捉えられるが 一般には その側面のみを純粋に取り出すということにはならないであろうと考えられる。多少とも 生命の木の声に逆らって むさぼりに傾く木の実を食べたか もしくは 食べることに同意したものと思われるからである。
従って 大きくは 人びとは 罪のひとかたまりとなって 時間の世界に入り 時間知を獲得し 歴史知性となった。死が認識されることも明確となった。

ウタの構造の錯綜する社会の中で

時間ないし価値をめぐるむさぼりの共同自治が始まった。善悪を知る木をそれとして見出し これが 人びとの時間知によって いわば時間知の体系としてのように 立てられてゆく。学問なり法律なり技術なりとして。
この善悪の木も 考え方としてなら 生命の木のもとにあって いわば生命の木によってわれわれ人間に与えられたものだということに おおよそ賛成が集まるものと思われる。宇宙の原理といった内容に等しいものだから。だが これと同時に 実際にどういうふうに扱われているかといえば 歴史知性のウタの構造の違いによって 異なってくるようである。そこで タラシ・ワケのウタの構造が問題であったが 同じことを繰り返すわけにはいかないから 話をさらに進めなければならない。
あらためて オホタタネコ原点の確認から始めよう。
単純に モノの木と生命の木との世界に それら両種のあいだに 潜在的であったわたくしが 芽生え 善悪の木が介在しつつ立てられることになった。善悪の木の主体である自己の対象化を獲得し 自己還帰し 歴史知性の時代が始まり 時には この日子の能力を 以前から信じていた生命の木に取って代える動きが出始めたと見られる。
ここで モノの木に 杉・檜・槙・樟といった個別的な実体と名があるように 善悪の木の主体たる人間にも 個体としての存在(わたし)とそのおのおのの名が はっきりと自覚的に生じたであろう。
モノの木に対する普通の自然本性としての人は 根子であった。善悪の木に対応するその精神的な能力は 日子であった。根子であり日子である人間に内在的に 木や動物にと同じように 生命の木が宿りはたらくと表現するようになった。人間のことばや文字表記は 本体であるよりは なぞをもって鏡に映った影でもあるから 表現行為と現実とは 微妙なかたちで対応していると いま 捉えておく。
科学の時代では いまの生命の木をめぐる世界観は 旧くなったのであるが それは 内容が廃れたからではなく 特別そういう言葉を使って特別そう言う必要がなくなったということであろう。

  • 単純に言って 経験科学は 経験科学でわかるところまでを担当し あとは 自由であるという姿勢に変わった。
  • オホモノヌシ世界観は 暗黙のうちに 共通の了解になったとも言えるし どうでもよいものとして扱われるようになったとも見られる。

このオホモノヌシなる神のチカラを分有する限りで 日子あるいは根子も この神の子であるとうわさされた。古くは ヨリの知性において 人の名に《カミ(カム)》の語がかぶせられる場合もあった。あるいは さらに古く 自然現象の一つひとつが ヒトコトヌシのカミのチカラをあたかも分担しているというように カミガミとして捉えられた。

  • ただし この内容を称して 人はどうして 多神教などというのであろうか。

モノに対するコトに対応して ミコトとも呼ばれた根子あるいは日子は おのおのの個別的な名とともに 普遍的ないし一般的な自己認識の名称を持ったのである。ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)という一個別名は カムヤマトイハレビコ(神倭伊波礼毘古命)という社会的な性格をもつ一般名称を名のるに到った。カムもヒコも普通名詞として普通の概念を伝えようとしており ヤマト(地名)もイハレ(地名)も 宮処であったりと 社会的な仕事(つまり神武天皇とよばれたその内容)に関係してつけられている。
個体としてイニヱ(印恵)という名の人が その社会的な役割を担う能力に注目して 同じくヒコでありかつ このヒコの性格をさらに明らかにして イリヒコ(入日子)であると命名された。ミマキという名称はおそらく かれの出自であるところの氏族もしくは村の共同体を示すものであろう。

  • 別の解釈が生じるかと思われる。単なる美称とされてもよいが  たとえば御真木という漢字をあてて言われるときには 全く意味のない語だと言い切ってしまうことは 合理的ではない。
  • ひとつの想定として受け取っておいて欲しい。

つまり 若御毛沼という特定の人は イリヒコという定義に対しては カムヒコであったわけである。社会的な性格にかんして このような定義づけが それとして争われたとは思われる。だが これを争うことは 現代人にとっても 意外と同じく現実である。
若御毛沼のばあい 出身地ないし進出地にかんがみて ヤマトイハレがつけられたであろう。両者ともに ミコトであり また 根子であり日子であることに変わりはない。スメラミコト(天皇)と後に名づけられるのは 社会的役割としての日子が その頂上(すめら)にあると見られたのであろう。漢字の語である天皇も それとして 同じように選ばれてつけられた。
別の例で言いかえると イクメイリヒコイサチノミコト(伊久米伊理毘古〔または入日子〕伊佐知命)というとき イクメがその出身の氏族などを表わしたのであろう。社会的な役割としては やはりイリヒコという性格のもとに 人びとと関係づけられたのである。かれが 垂仁天皇とよばれるのは 後世の社会形態の中で その一つの歴史的な形態との関連で そのとき存在する一つの役割に対応させてであり むろん遡及的につけられた。一般的に《天皇》であり 個別的に《垂仁》であることは 言うまでもない。
崇神天皇神武天皇など まったく同様である。この命名が 史実を踏まえているか あるいは歴史の真実を表わしているか その当時と同じく後世においても現代においても 学問において争われなければならない。
ただしわれわれは 言葉の問題で争わないとすれば 上の歴史的な事情を踏まえた上で むしろ時間知の構造 あるいは歴史知性の歴史的進展について ここでは議論を与えている。
ミマキイリヒコイニヱノミコトの社会と時代において オホタタネコという自己(歴史知性)の認識が生じた。オホネコ(大根子)が 社会的性格を 形而上学的に含んだ形として オホネコ(意富泥古)でもあり より一層 社会的役割に注目してのように タタ(多多・田田〔または タタラ(製鉄のふいご)のタタ〕)が与えられたのであろう。このばあい 個体としては 

オホモノヌシが 
スヱツミミノミコトのむすめであるイクタマヨリヒメを娶って
生んだ子のクシミカタノミコト 
その子のイヒカタスミノミコト
その子のタケミカヅチノミコト
の子である。

という以外にその名はわかっていない。イクタマヨリビメ活玉依毘売)なども むしろ社会的な性格にかんする一般的な名称であるだろう。つまりかのじょの場合 日子つまり女性であるから日女の性格として ヨリヒメであり さらにイクタマヨリヒメであると捉えられた。ヨリヒメであるから それとして イリヒメの前身であるとも考えられる。
こうして 人間の社会的な自己認識にかんする名づけが生じ その一つの一般的な構造的性格は 《ミマキ(氏族)‐イリヒコ(社会的職務・のちの姓)‐イニヱ(個体名)》が それである。柿本(氏)‐朝臣(姓)‐人麻呂(名)というのとほぼ同じである。もちろん 後者の時代では その社会形態が少なくとも制度的に複雑な構造になっている。また人間の素朴な自己認識として オホタタネコという定義は 通史的に同じであり タタが製鉄に関係しその意味で一般の産業をも意味表示するなら これは 現代にまで共通なのである。現代では 制度じょう社会形態がいくぶんなりとも――あるいは逆に 大いに――変遷してきており 朝臣などの姓が固定的ではなくなった。大臣・社長・部長など 《日子》の社会的役割を意味するものが 姓であるとすると それはそのように現代にまで受け継がれている部分もある。
良きにつけ悪しきにつけ もし日本国株式会社などと言われるように あのウタの構造じょうとしての国家なる社会形態にかんがみて 一応まだ通史的であると見るぶんには その点への言及も必要である。もちろん現代では 身分固定的な制度ではなくなっている。
もっともわれわれの観点は 第一部に考察したところによれば 柿本朝臣人麻呂の時代 つまり天武天皇の時代に はじめの《ミマキ(氏)‐イリヒコ(姓)‐イニヱ(名)》という歴史知性の存在のあり方が 社会構造的におよそ普遍的に確定されたとするなら この社会形態の全体的な確立のゆえに 氏・姓・名の制度的固定化はむしろ止揚されたというものであった。八種(八色)の姓(かばね)などでは それまで上位の姓であったオミ(臣)ムラジ(連)が 下位に置かれるようになった。あるいは そのような氏姓制度じたい 形式(形体)的なものにすぎなくなっているといったように ウタの構造じょうの変化がうかがわれる。
もう一度繰り返すと 制度的な確立ゆえに そのウタの考え方としては むしろ旧いものとして自覚されるようになった一面がある。これは 基本的な歴史知性のあり方の変遷にかかわるであろう。つまり 氏姓制度――ミマキ(氏)イリヒコ(姓)イニヱ(名)という原形式ではなく これの制度的な固定化――は いわばアマガケル日子の善悪の木のオキテに照らし合わせるところの階級づけである。天武天皇の中央集権――時に独裁と見られるような――体制のもとに このアマガケル日子の統一アマテラス宗教体系の中の制度的な氏姓名の構造 これのむしろ 解体する方向が打ち出されたのだと言っていいとおもう。

  • 天武天皇の特異な位置として そう見られる。その後遺症は 長く続いた。

もうここでは それ以上 基本構造(氏・姓・名)を複雑化し権威づけることがなくなり――アマガケル日子の能力も そのアマアガリを頂上まで実現させた―― あとは これの自由な動態をむしろ促すように作用するようになった。
この方向は 自由に採られるようになったと考えられる。タラシ日子ワケのアマガケリが 行き着くところまで行った。
氏・姓・名の社会的なあり方が自由な動態(経済活動の)となるというのは 歴史的に・あるいは歴史知性的に たとえばワカヒコ(分か日子・若日子)つまりワケ(和気・別)という日子の一性格形態 もしくはタラシヒコ / タラシヒメ(帯日子/日女)というそれ あるいはクサカ(日下)ないしオキナガ(息長)という氏族的なやはり社会性格との関係あるいはたたかいの中においてである。言うまでもなく 言葉の問題で争うべきではなく また 善玉と悪玉とに分けて考えるべくもないが これらのミコト(歴史知性)の互いの関係から成る社会が ウタの構造じょう・したがってモノの木の資本関係のうえで われわれの生活してゆく共通の一つの場なのである。
だから イリヒコが ワカヒコないしワケまたはタラシヒコの性格から完全に自由であったとは言えない。同じく クサカないしオキナガが イリヒコの性格を合わせ持っていなかったとも言えない。一般に ワケ・タラシヒコは 《イリヒコ》を一たん通過して なおアマガケリしてゆこうとしたと考えられた。
クサカ氏ないしオキナガ氏は 鎌足不比等をつうじて フヂハラ氏に 同じ類型の日子の性格として 受け継がれたとわれわれは見ている。こう言うと 現代の藤原さんが怒るかもしれないが これをわれわれは 快い緊張関係に変えて 理論における歴史の発展的な継承としては 捉えているかと思う。個体名には関係しない。苗字でもなく 社会的な役割としての姓を 抽象的に取り上げる。
じっさい フヂハラという姓は 〔タケシ〕ウチノスクネと同じ性格のナカトミ(中つ臣)氏が新たに持ったもので フヂ(藤)の蔓が良かれ悪しかれ 日子らの連帯を表わすとするなら そのように――カシハラでもなく アシハラでもなく あるいはタカマノハラにかかわりつつ―― これは オキナガ氏のタラシ(帯)日子のウタを受け継いでいると考えられた。
神功オキナガタラシヒメは 日本書紀の編者によってだが 邪馬台国の女王・卑弥呼に比定されたように じっさい イリヒコ・イリヒメのそのような前史とふたたび ウタの構造じょう 連帯したという側面が大きい。

あらためて 物語を読み進める

以上のごとく 古事記においては 古事記作者によって 歴史はこのように誕生したと物語られた。
オキナガ(氏)タラシ日女(姓)について 時に黒白をつけるようにして 考えるのは その存在つまり ここではその個体名がわからない一女性じしんに対してではなく あくまでウタの構造における位置・その歴史主体としての動きに対してである。欠陥をそこに見るなら これを憎み――つまり自分の内的に棄て―― その存在を愛しなければならない。
継体ヲホドの母ではないかとわれわれが妄想したワカクサカベのミコは――いまひとつの解釈例として―― ハタビ氏に属する長日(または長目)比売命 つまり その本人は ナガヒという名の個体的存在であるとすれば ハタビ(氏)・ワカクサカベ(姓)・ナガヒ(名)という歴史知性を愛し ワカ・クサカ・ベというある意味で姓としての歴史知性の形式 これについて考察をつづけていく。
古事記の作者は これをおこなって かれなりに・またかれらの時代なりに ひとつの歴史を誕生させた。同じように たとえば 中曽根(氏)内閣総理大臣(姓)康弘(名)という人について その姓としてのウタの構造にかんして われわれは論議しまた歴史していく。古事記からの歴史的な連続性に立って また 非連続性をたしかに捉えて かんたんながら井戸端会議の発端を 第一部につづいて すすめていこうと思う。

  • 日子の能力は 善悪の木にこだわるというときには われわれも この善悪の判断についてその見分ける方法などを明らかにしていければとおもう。 

(つづく)