caguirofie

哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第二十五章 敵なるX姓を愛するために

オキナガ / タラシヒコ / ワケと 類型的に同じウタをうたうと見られるタケシウチノスクネ(建内宿禰)は 孝元オホヤマトネコヒコク二クル(崇神ミマキイリヒコの二代前)の筋から出て 各地の氏族とその子孫がつながったことになっている。
なにか詳しい議論をするためではなく 表9のような記事内容から 諸勢力の《タラシ》=そのアマガケル連帯の情況を確認しておけば足りると思われる。

表9 タケシウチノスクネの子孫

若倭根子日子大毘毘命(9開化)
‖―― 御真木入日子(10崇神
伊迦賀色許売命
‖―― 比古布都押之信命 建内宿禰 波多の八代宿禰〔波多臣・林臣・波美臣・豊川臣・淡海臣・長谷部臣の祖なり〕
大倭根子日子国玖琉命(8孝元) 許勢の小柄宿禰〔許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖なり〕
蘇賀の石河宿禰蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸和田臣等の祖なり〕
平群の都久宿禰平群臣・佐和良臣・馬御樴連等の祖なり〕
木の角宿禰〔木臣・都奴臣・坂本臣の祖なり〕
久米の摩伊刀比売
怒能伊呂比売
葛城長江の曽都毘古〔玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣等の祖なり〕
若子宿禰〔江野財臣の祖〕

表では分からないが ちなみに 第九代開化ワカヤマトネコヒコオホビビは 第八代孝元オホヤマトネコヒコク二クルの子であり ひきつづいて両者の妻であることになったイカガシコメノミコトは開化ワカヤマト根子日子オホビビとは従姉弟どうしである。
オキナガ氏を中心として見ようとしたタラシ日子・ワケの連帯と このタケシウチノスクネの筋の動きとをつなげて捉えようとするならば その子の一人である葛城の長江のソツビコは イハノヒメ(石之日売)という女(むすめ)を 仁徳オホサザキに嫁がせているから その関係をもう一度おおきくひろげて系図に見てみると その結合の広がりが捉えられるかに思われる。
建内宿禰の子孫と その他の系譜とでは世代が合わなくなっているが――というか タケシウチノスクネは 三百歳の長寿を保って その子たとえばソツビコも相当の長寿であったことになっているが―― 関係を見る上で記述どおりに従おう。つまり この限りで イリ系とタラシ・ワケ系とが 複雑に関係を結んでいることがわかる。

表10 《イリ》および《タラシ / ワケ》諸系譜の関係

(10崇神 比古布都押之信命
(11垂仁) 建内宿禰
日子淤斯呂和気(12景行) 印色日子命 [葛城]曽都毘古
日子(13成務)//倭建命 五百木日子命
中日子(14仲哀)=息長日売(神功) 品陀真
○=品陀和気(15応神)= =高木日売命・中日売命・弟日売
沼毛二俣王 [日向]髪長日売=大雀(16仁徳)= 石之日売
大郎子(意富富杼王 若日下部王 (19允恭)/(18反正)/(17履中) 黒比売命
〃(若日下部王)= =(21雄略)/(20安康) 市辺忍歯王/飯豊郎女
〔袁本杼?〕 (22)/○= ==(24)/(23)
袁本杼(26継体)== ======== ======== =○/(25)

崇神ミマキイリヒコの前後の時代では 《イリ日子》の生起の前まえから タラシ系のウタが動いており 応神ホムダワケ以後の時代では そのワケ・タラシ系からのイリ系への接触の動き・そして婚姻の成立もおこなわれたのであろう。つまり 表立っては 和議のようなかたちで両系譜の婚姻政策が そしてその裏では 周辺を固めて 三輪イリ政権の包囲網を築く結集がおこなわれたと推し測られる。今の想定の限りでは そのように推測しないほうが おかしい。
雄略ワカタケおよび継体ヲホドのときの動きが そのことを結果的にも証明すると考えられる。そうでなければ いったい何をはたらき掛けていたか わからないということになる。もしくは この日本は この畿内地方に限るとしても 大昔から まったく争いごとのない土地であり社会であったという片寄った見方でしか捉えることが出来なくなる。だが それだと たとえば市辺の忍歯の王が 雄略ワカタケに暗殺されたことが説明つかなくなる。色眼鏡めかざるを得ないと思われる。決定的な証拠はない。
ここで注目してみたいのは 《ヒメ(=日女が 本来の意味)》がここらあたりで 《日売》と書かれていることである。最終的な判断は 保留せざるをえない主題であるとことわった上で 次のような現象が見受けられる。比売とか毘売――その他 ナニナニ売命(めのみこと)・斗売(とめ)・郎女(いらつめ)――ではなく 《日売》と表記される事態が 古事記全体の中で このあたりに集中して現われているといったことである。

表11 ひめ(日女)が《比売》ではなく 《日売》と表記される事例

  • [紀伊]山下影日売=ヒコフツオシノマコトノミコト(比古布都押之信命)
  • 豊鋤入日売命 / 沼名木の入日売命 / 十市の入日売命:いづれ崇神(10)ミマキイリヒコのむすめ
  • 沼羽田の入日売(毘売とも)命=垂仁(11)イクメイリヒコイサチ
  • 八坂入日売命=景行(12)オホタラシヒコオシロワケ(大帯日子淤斯呂和気命)
  • 息長帯日売(また比売)命(神功皇后
  • 高木入日売命= / 中日売命 =/ 弟日売=応神(15)ホムダワケ(品陀和気命
  • 日売真若比売=ワカヌケフタマタノミコ(若沼毛二俣王)
  • 石之日売命=仁徳(16)オホサザキ(大雀命)
  • 日売(吉備の海部の直のむすめ)=仁徳(16)オホサザキ(大雀命)

いまは タケシウチノスクネの関係で調べていて その後裔のイハノヒメ(石之日売)が 仁徳オホサザキの大后になっているところから 系図を吟味しているのだが このヒメの《日売》表記は 結果として オキナガタラシヒメをめぐっての問題であるかに思われることにもなった。もっとも この点については 深く追わない。どうとでも推理しうるかの材料であるように思われるから。
ただ注目したという程度としなければならない。その上で 付け加えることがあるとするなら 繰り返しを恐れずに次のように考える。たとえば 崇神ミマキイリヒコの日女の一人で 豊鋤入日売命と書かれたトヨスキイリヒメは 《伊勢の大神の宮を拝(いつ)き祭りたまひき》と書いてあることに注意できる。この時 伊勢神宮はまだ造られていなかったから。
ミマキイリヒコのすぐの子に 後世からは あのアマテラスオホミカミのウタに関係する動きが関係づけられたことになるが

  • むろん伊勢の神の宮は アマテラス・マツリゴトの以前からのふつうの歴史知性の宮もあったと捉えられている。

ともあれ この一点を捉えても 《比売》と《日売》との表記のちがいは イリとタラシ・ワケとの両系譜の違いもしくは入り組みに かかわっているのではないかと推測させる。新しいふつうのイリヒコの表記である《日子》が 女性では《比売》なる表記に そして《比古》の表記が 女性では《日売》にそれぞれ対応させられているかに 疑われる。古事記作者が これを意図的に書き分けた疑いである。疑いの線で話をすすめさせられたし。
オキナガタラシヒメが 比売という表記をも含めて日売とも書かれている。そして そのほかに イリヒメに 日売の文字が用いられているのを見出す。さらに オキナガ氏と同じウタを持ったと考えられるタケシウチノスクネの母親も ヤマシタカゲ日売だと書いてある。
別の見方をすれば 応神ホムダワケの周辺に《日売》の文字を見出すとともに 仁徳オホサザキの大后が イハノヒメで 建内宿禰の子孫であり かつ《日売》と記されているという状況である。
要するに 疑いの行き着くところは 《比売》にかかわるイリ系と 《日売》にかかわるタラシ系とが 複雑に入り組んでいるという情況であるにほかならない。
この入り組み方は 別の角度からは次のような系図関係について考えることができる。それは 継体ヲホドノミコトが 雄略ワカタケと若日下部の王とのあいだの子ではなかったか――それを密かに 近江もしくは越前で育てたのではないか(ヲホドの父は早くに亡くなっていると書紀は伝えている)――という見解に関連した内容である。

表12 《比売》と《日売》とのヒメ表記の使い分けに関連して名の類似・入り組み
表12−1《品陀》・《[日向]》・《ハタビ(幡日)》

品陀真若王 中日売命
‖―― 大雀命(仁徳)
品陀和気命(応神)
‖―― 幡日之若郎女 / 小羽江王 / 大羽江王
[日向]泉長比売

表12−2《[日向]》・《ハタビ(波多毘)》・《黒比売》・《長目ヒメ》

大雀命(仁徳)=[吉備]黒日売
大雀命(仁徳)=[日向]髪長比売 波多毘能大郎子(亦の名:大日下王)
波多毘能若郎女(右に表示) 波多毘能若郎女(亦の名:長目日売命;亦の名:若日下部命)
大雀命(仁徳)=石之日売 大長谷若建命(雄略)
伊邪本和気命(履中)
黒比売

表12−3《黒比売》・《長目ヒメ》

[淡海坂田]大俣王 黒比売
‖―― 野郎女(亦の名:長目比売
若日下部王=大長谷若建(雄略)(この親子関係のみ仮定) 袁本杼命(継体)

名の類似・入り組みについて 次のようである。

  1. ホムダ(品陀)の同一
    • 応神ホムダワケは ホムダ真若王のむすめを娶っている。
  2. [日向]の地とハタビとのそれぞれ同一
    • 応神ホムダワケ=[日向]泉長比売→その子:ハタビ(幡日)之若郎女
    • 仁徳オホサザキ=[日向]髪長比売→その子:ハタビ(波多毘)能若郎女
  3. 黒ヒメの同一
    • 仁徳オホサザキ=[吉備]黒日売
    • 履中イザホワケ=黒比売
    • 継体ヲホド=[淡海坂田]黒比売
  4. 長目ヒメの同一
    • 雄略オホハツセワカタケ=長目日売
    • 継体ヲホド=[淡海坂田]黒比売→その子:長目比売

これらについて 関連を見るべきではないだろうか。もしくは 関連を見ないようにするべきではないだろうか。
応神ホムダワケは 気比の大神と その当時 名を交換したのである。名前を取替えることから 善悪の木の旗が 各地にひるがえるようになっていったのである。ここでのように 取り替わっておらず 類似もしくは同一の名を残しているというのは 交換あるいは先取りの仕掛けは 同じく始められたが うまく行かなかったかのようである。それとも 交換を申し出ることはなく 単純に真似をしたということも考えられる。ゐや=礼ということである。かれらの考える礼儀としての善悪の木のオキテの慣わしだと考えられる。
これも 情況証拠として留意した。

  • もしこれらが 作為によるものであるとすれば この偽を削ることを 古事記は わざと しなかったのだとわれわれは 考えたのである。
  • 削偽しないで偽のままにしておいたほうが 真実がわかるようになるかも知れない。
  • つまりむしろ おおきな虚構に対しては 徹底してクニユヅリしてかからないと 逆に真実が 曲がったり吹っ飛んだりしてしまうことがある。
  • 念のために言えば 神武カムヤマトイハレビコが初代天皇であるという記事は措いて 初国知らしし崇神ミマキイリヒコの社会を 指導的な立ち場であると見て 考えている。だから 応神ホムダワケの河内政権は 後発だと捉える。だとすれば 名の同一があった場合 それがもし模倣だとすれば ワケ・タラシ系の側が イリ系のものを採り入れたと推定する。
  • 神武カムヤマトイハレビコを取り上げるにしても 日向から東征してきたものである。
  • ただし 技術や文物にかんして 南の九州やあるいは日本海側の地が 大陸に近いということもあり 先進していたとは見られる。
井戸端会議の市民ネットワークが 幻想のウタの維持装置に。

もう少し今の議論を継ぐならば 復唱しつつ次のように。
ミマキイリヒコの時代の後・ホムダワケの登場する前 つまり四世紀のあいだは その当時においてか後世においてかは別として まだただ社会的な職務を示すべきような姓たる名に 混同もしくは模倣が生じたのみである。五世紀になると ホムダワケの登場を画期として――当時においてか後世からかは知らず―― それぞれの系譜じたいが 互いに交換されてのように 入り組んでしまった。
外来者は 土着の家系に入籍しようとすることもあるだろうし 系譜じょうの良き伝承を 積極的にみづからの系譜に採り入れることをはかるかも知れない。良き伝承とは 指導的な立ち場の氏族(つまり天皇氏)とのつながりにまつわる内容のものである。
ホムダワケは 敦賀のカミと名を取り替えたのであるゆえ そのイザサワケというのが ほとうの名であったかも知れないと日本書紀が触れている。と同時に かれの義父である人物に ホムダ真若の王がいるのなら いまではわからない何か本当の名が 応神天皇には あったかも知れない。つまり ホムダワケでもイザサワケでもないとも考えられる。
オホトモ(大鞆)という個体名が明記されているが 今の問題としては 個体名ではなく 氏族名もしくは姓である。姓は たしかにワケもしくはタラシに関係しており 母方の氏族は オキナガであることにまちがいはない。となると 騎馬民族系のX氏(扶余氏?)であったかも知れないとは じゅうぶんに言えるかに思われてくる。姓ではなく 父方の氏が X氏であるかも知れないという意味である。そして 騎馬民族なり騎馬民族のウタ(思想)を身につけた人びとの社会的な位置関係とその役割とを称して いまわれわれは X姓と言っている。X姓またそのウタは 三輪イリ政権ないし広くホホタタネコ歴史知性にとって 敵であると言ってきた。
このゆえに五世紀は この応神ホムダワケの系図とそして 仁徳オホサザキの系譜とが 全体的に錯綜して 記し伝えられていると考えるほうにわれわれは傾いている。扶余氏であろうと そのようなウタの構造を色濃く反映した歴史知性の人びとであろうと このトゥングース騎馬民族の考え方というのは 江上波夫氏の研究によると 飛びぬけて特異である。①みづからは正体不明 ②目的とした結果を出せばよい ③時にそのために手段を選ばない ④手段を選ばずという手段を用いた場合にも 最低限のつじつまを――とくに礼儀のうえで――合わせられるように取り計らうといったことらしい。これは われわれの見るX姓としてのウタの構造である。江上波夫の日本古代史―騎馬民族説四十五年など多くの自著や批評書を参看できるが いまは それはそれとして それらの文献にゆだねよう。
そしてどんな仕方であるにせよ 五世紀の終わり・六世紀の初めには 継体ヲホド天皇が 統一日子となったと考えられている。その動きが 一歩一歩実現していったというのが 一致した見解である。四ないし五世紀の両系統の大筋の流れは 第一部に 一例としての解釈をつづった。第二部では あらためて そこにわれわれの敵なるX姓が見え隠れしているなら これを 実践の中で 生け捕りにするという目的を持っている。
われわれが第一部でのべた解釈例とちがった別様の見解もとうぜんありうると考えられる。そしてその時にも イリ系とワケ・タラシ系との相互錯綜的な対立と調停の関係過程という基本線では われわれは 考えていこうと思っている。つまり 現代までの歴史との関連から考えても この基本線の原点であるオホタタネコ歴史知性の導入は しばらくは 主張しつづけたいと思う。
生け捕りなどと言うと あるいはあの《魔女狩り》を連想するかも知れない。生きているその状態で捕まえると言っていて それだけなのだから ちがうとは言わなければならない。けれども この魔女狩り あるいは礼儀につつまれた魔女狩り これを わが日本社会も 行なっている。たとえばムラハチブである。
ウタとそのメロディーに合わなければ かんたんに人は 狩られてしまう。むしろこの氏・姓・名のマツリゴト制度の中に その排除の仕組みは 埋め込まれているかに見える。いや というよりも そもそも初めから 旋律のちがったウタを あたかも前々より監視していたかのように見つけ出し これを孤立化させ 礼儀のなかに締め付け締め上げていく。幻想の和を乱すことを 極度に嫌っている。それは 永遠の現在宗教の押しなべて実現しているところでは 個々の市民が 体質として 異質のウタを直ちにはじき返すように ならわしが行き届いている。
三輪イリ政権の市民生活における噂と井戸端会議は 別様にはたらく結果となっている部分がある。言いかえると この井戸端会議なる市民ネットワークが 別様に先取りされ 別様に統治の道具とされた。礼儀の中のやわらかなムラハチブでも 排除の目的が達せられないときには 踏み絵が始まる。この永遠の現在なる常世を守るその秩序のためだというわけである。
われわれは なにもしないたたかいである。生け捕りというのは その敵なるウタを保持する人が その歴史知性の矛盾に気づき これを自己申告し ふつうの歴史知性の自己へ還帰することである。だから われわれの仕事は ウタの識別 自己認識 これを明らかにしていくことである。そこまでである。
あるいは この点で言うならば 自己認識やその判断 これが 永遠の現在なるパラダイスのなかにあっては 鈍くなってしまった。イリ日子イリ日女の知性が 眠ってしまうこととなった。長いものには巻かれろというわけである。アマガケルもっぱらの日子・超歴史知性にすべて任せたとなっている。
われわれに言わせれば それが 天翔ける天使を装いつつ あたかも長い蛇のように這って歩く正体不明のX姓なるウタでありメロディーだと考える。ハーモニーが絶妙なのである。ウタの欠陥を憎み 人物・その存在 これは われわれは愛さなければならない。自分と同じようにの程度でである。

迷彩服と相互錯綜の入り組みの中から。

ホムダ真若王の長女・高木の入り日売のみこととの間の応神ホムダワケの子には のち第一日子の坐を争った(争って敗れた)オホヤマモリ(大山守命)とともに イザノマワカ(伊奢之真若命)がいるとされる。継体ヲホドと黒比売との子に 亦の名をナガメヒメとも言うノノイラツメ(野郎女)がいたように 応神ホムダワケには 葛城のノノイロメ(野伊呂売)という妻がおり これの子は イザノマワカ(伊奢能麻和迦王)である。マワカは 真若ならば ほんとうのワケという意味であるだろう。(若様というような意味だろうか。)
ところで 角鹿(敦賀)のオホカミの名は イザサワケ(伊奢沙和気)であった。(または それになった。)イザサのサは サワケとして ワケのほうに付くと見るなら これも 関連性を見うるかもしれない。いわばX姓なるウタは 伝染すると思われる。
言いかえると 外からの騎馬民族であれ内からの一個のワケ氏であれ このタラシヒコ氏(もしくは姓)は たしかに正体不明であり 少なくとも迷彩服を着ていると考えてよい。これを その固有なウタの構造の特色とするはずである。つまりやはり 或る未知なるXなのである。
何を言っているのかわからないと言われるのを恐れて わかりやすく言うと 意地の悪い女または男は そのつれない相手やライヴァルに この奥の手を使う。そしてこれはむしろ 経験科学の公理である。一方で 非存在を装う(または 雲隠れする) 他方で 善悪の木のオキテに照らしてまことの公平な第三者であると自己のウタを示す。悪く言えば みづからを偽りの仲介者となす。民主主義だからと言うので 自分の友だちは多いほどよいと考え 賛同者をつのる。これが ナシオン全体の統一つまり国家形態の確立にいたるまで ウタの構造の展開としてつづいたのである。
これに対して 古事記作者は まず歴史知性として イリ系とタラシ・ワケ系とを識別し さらに このアマガケリの動きを 上の系譜関係の中では 女性の姓名にかんして 《比売》と《日売》との表記の使い分けで 明示しようとした。オキナガタラシヒメに 両方の表記があるのは これに花を持たせたのだと考えたい。花を持たせることで 生け捕ろうとした。

  • 比売と日売との使い分けというよりは イリ系とタラシ・ワケ系とが互いに入り組んでいるよと 知らせてくれていると言ったほうがよい。

そしてたしかに それ以上のことは 行なわないのが われわれの戦いであるのかも知れない。だから自由に 経済活動も政治的な運動も おこなえる。このイリ日子歴史知性の獲得と動態においては 迷彩服はありえない。X姓は なぜなら 善悪の木に縁って空気のような身体をもって 天使の存在を欲するのではなく 天使の能力を欲して 雲の上を天翔りゆく存在であるからであり――非存在を装い かつ 光の天使を装う―― そうでなければ かれらは存在しえないという迷妄を宿命的に負っているかも知れぬ。
だが われわれは 知恵をつくし心を尽くして 考え続け また 声をかけ続けるであろう。この章でも 正体がつかめなかったようだねといって 勝ち誇ることなかれ。また われわれも 打ち沈むことなかれ。 
 
(つづく)